歴代天皇 - 内外と権力闘争に明け暮れた天皇たち(院政の時代) -
順徳天皇(じゅんとく)は、部下の部下から島流しの刑を食らった数少ない珍しい天皇です。
父・後鳥羽上皇の政治闘争に巻き込まれて失脚したので、もっとも不幸な天皇と言えます。
京都では後鳥羽上皇がいたので、天皇の在位中から上皇になっても、自らの力で政治を仕切ることはありませんでした。
中世 鎌倉時代
- 皇居
- 平安宮
(へいあんのみや)
- 生没年
- 1197年9月10日 ~ 1242年9月12日
建久8 ~ 仁治3
46才
- 在位
- 1210年11月25日 ~ 1221年4月20日
承元4 ~ 承久3
12年
- 名前
- 守成
(もりなり / もりひら)
- 別名
- 佐渡院
- 父
- 第82代 後鳥羽天皇
(ごとば)
- 母
藤原重子
修明門院
(ふじわら じゅうし)
- 皇后
藤原立子
東一条院
(ふじわら りっし / りゅうし)
九条良経の娘
(くじょう よしつね)
戦(承久の乱)に備えて天皇を退位する
先代で兄・土御門天皇は、やさしい性格で政治に関わりたがらない人でした。
鎌倉幕府の御家人と対立していた父・後鳥羽上皇はそれが不満で、エネルギッシュな守成親王(もりなり)に皇位を交代させます。
太上天皇(だいじょうてんのう)
退位した天皇のこと。
上皇(じょうこう)
太上天皇の短縮した言い方。
太上法皇(だいじょうほうおう)
出家した上皇のこと。たんに法皇という。
院(いん)
上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。
くわしくは『太上天皇とは何か?』へ
順徳天皇の即位です。後鳥羽上皇の院政で天皇になったので、自分の意思で政治を行なえませんでした。
そして父の政治闘争に巻き込まれます。上皇は仲が悪くなっていた幕府の北条氏を討伐することを決意しました。
このころ幕府の将軍は朝廷と鎌倉武士にとって害のない、政治家としてどうでもいい存在です。朝廷と鎌倉武士が対立したときに解決する力はありません。
後鳥羽上皇と北条氏が戦争になりそうなころ、順徳天皇は父と一緒に行動するため、息子(仲恭天皇)に皇位を譲って上皇になります。
それは積極的だったと言われ、父に巻き込まれるという表現はまちがいかもしれません。
鎌倉幕府の将軍家と仲が悪くなっていないところがポイント。
このときすでに幕府の将軍は武士ではなく、京都から派遣された公家が養子に入り将軍になっていました。
幕府が滅亡するまで鎌倉の歴代将軍は、公家や親王など貴族や皇族の人が派遣されます。
幕府の将軍は、朝廷と鎌倉武士の仲介者になっていて、武士の棟梁でなくなっていました。
部下の部下から佐渡島へ島流しされる
結果は大惨敗。(承久の乱)
1か月も経たないうちに京都は幕府軍に制圧されました。
順徳天皇は佐渡島(さどがしま。新潟)に島流しされます。それから亡くなるまでの21年間、一度も佐渡から出ることはありませんでした。
(24才で流罪になったので人生のほぼ半分を佐渡で過ごした。)
歴代天皇の中で、部下とガチンコ勝負して負けて、部下から刑罰を食らう屈辱を味わった天皇経験者たちはこれ以外ありません。その意味でとても珍しい存在です。
しかも、天皇からすると幕府の御家人は部下の部下。
(天皇の直属の部下は幕府将軍で、御家人は将軍の部下。)
御家人に上皇を島流しする権限はないんですが、それをしちゃいました。こんなこと普通はありえません。
というか後にも先にもない。
宮家の生みの親
順徳天皇の息子から宮家がはじまったと言われます。
(諸説あるがこれが一番古い。)
しかし、順徳天皇の息子たちの宮家はあまり長く続きませんでした。
くわしくは『宮家とは何か?』にあります。