歴代天皇 - (律令)国家・日本を作った天皇たち -
第48代 称徳天皇(しょうとく)は、孝謙天皇(こうけん)と同一人物の女帝です。
自分が指名した淳仁天皇をクビにして返り咲いて即位しました。歴代天皇で唯一、仏教徒の天皇です。
怪僧と言われた弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)をひいきしたことでも有名。
古代 奈良時代
- 皇居
平城宮
(へいじょうきゅう)
- 生没年
- 718年?月?日 ~ 770年8月4日
養老2 ~ 神護景雲4
53才
- 在位
- 764年10月9日 ~ 770年8月4日
天平宝字8 ~ 神護景雲4
7年
- 名前
- 阿倍
(あべ)
- 別名
高野姫尊
(たかの ひめ の みこと)宝字称徳孝謙皇帝
(ほうじ しょうとく こうけん こうてい)法基尼
- 父
第45代 聖武天皇
(しょうむ)
- 母
藤原安宿媛
(ふじわら あつかべひめ)光明子
(こうみょうし)光明皇后
(こうみょう こうごう)藤原不比等の娘
(ふじわら ふひと)
結局、アンタがやるんかい!?
阿倍内親王(あべ。のちの称徳天皇)は、第46代 孝謙天皇に即位したときから後継者がいませんでした。
(皇太子・道祖王(ふなどおう / ふなど の おおきみ)がいたが、クビにして最後は殴り殺した。)
もう結婚はないだろう、皇子を産まないだろうと思われていて、親王が1人もいません。
まわりも『王から飛び級で天皇になれるかも?』と野心丸出しで、殺し合い・左遷のオンパレードです。
唯一の天皇をクビ -> 重祚
そこで、母の光明皇后(こうみょう)が信頼する藤原仲麻呂(ふじわら なかまろ)を政権トップにしてまとめさせました。
しかし、次の第47代 淳仁天皇(じゅんにん)に皇位をゆずって仲麻呂にその補佐をさせていたのに、今度は、淳仁天皇をクビ、仲麻呂を殺します。
せっかく新たな親王も出てきて安定しそうだったのに、その親王たちも全員クビ。
『今度はどの王が天皇になるんだ?』というところ即位したのが孝謙上皇。歴代天皇で2例目の重祚です。
重祚(ちょうそ)
一度退位した天皇が再び天皇になること。二度目のときの名前は新しくつけられる。
男性天皇は1人も重祚していない。女帝だけ。
この後ろには怪僧・道鏡の存在があります。
歴代天皇で重祚した天皇は、称徳天皇からあと現れない。
弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)
道鏡は河内(かわち。大阪)の弓削氏(ゆげ)の出身で、葛城山(かずらきやま)で修行した僧です。純粋な仏教というより修験道の験者として有名になりました。
修験道(しゅげんどう)は、日本古来の山岳信仰に仏教のテイストが入ったもの。
修行している人のことを験者(げんじゃ)という。
笠をかぶって、全身白ずくめで棒をもち、『シャン、シャン、シャン』と音がなる鈴をもっているイメージ。
厄災や病気を治すための祈祷をしていた。
道鏡は761年(天平宝字5)、平城宮の改築で近江国(滋賀)の保良宮(ほら の みや)に住んでいた孝謙上皇と出会います。
(孝謙天皇はすでに退位していた。)
そのとき上皇は病気で寝込んでいて、それを看病したのが道鏡でした。これで上皇の絶大の信頼を得ます。
道鏡、規格外のスピード出世
道鏡の野心マンマンなところに腹が立っている人がいました。淳仁天皇と藤原仲麻呂です。
淳仁天皇は道鏡ばかりに頼る孝謙上皇に意見し、それに上皇がブチ切れて淳仁天皇から天皇の仕事を取り上げました。
さらに上皇は、少僧都(しょうそうず)という仏教の官位についていた人をクビにしてまで道鏡に与えました。
道鏡の政界デビューです。
(763年, 天平宝字7)
仏僧がはじめて大臣になる
これに今度は藤原仲麻呂がブチ切れます。挙兵の準備を進めましたが、上皇軍に追い詰められて斬り殺されてしまいました。
(藤原仲麻呂の乱)
さらに道鏡は上皇から大臣禅師(おおおみぜんじ)を贈られました。かんたんに言うと『出家した大臣』。
これまで仏教徒・僧が大臣になったことがなかったので、仏教からすると快挙。
称徳天皇の即位で最高位まで登りつめる
孝謙上皇はそれだけでなく、今度は淳仁天皇をクビにして淡路島へ島流しして自分が即位しました。
称徳天皇です。
そして淳仁天皇が亡くなってすぐに、道鏡に太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)を与えます。
(764年, 天平神護元)
これは最高位の官位、太政大臣と同じようなもの。そして次の年には『法皇』(ほうおう)の称号を道鏡に与えました。
これまで、法皇という称号はありませんでしたが、称徳天皇が道鏡に天皇と同じくらいの格を与えたと見られています。
(765年, 天平神護2)
道鏡がここまで登りつめるのに、称徳天皇に出会ってたった4年しか経っていません。
道鏡が与えられた法皇と、日本の歴史で長い間使われた法皇は意味が違う。
もう一方の法皇についてはこちらに書きました。
宇佐八幡宮神託事件
道鏡の勢いは止まりません。769年(神護景雲3)には、
とまで言って媚を売る人が出てきます。
称徳天皇は確かめるため、和気清麻呂(わけ の きよまろ)を宇佐神宮(うさ。大分)へ派遣しました。
清麻呂は生粋の官僚で道鏡に媚びるようなことはしませんでした。
称徳天皇にこう報告しました。
これに道鏡はブチ切れました。清麻呂の官職を取り上げます。称徳天皇はさらにブチ切れて、清麻呂を大隅国(おおすみ。鹿児島)に島流ししました。
ただ、清麻呂の抵抗に納得したことがあるのか、称徳天皇は道鏡のあつかいを変えませんでした。法皇でもかなりのものだったので、トラブるよりもましかと思ったのかも知れません。
翌年には称徳天皇が亡くなります。53才でした。
宇佐神宮は日本全国にある八幡宮の総本山。
第15代 応神天皇とその母・神功皇后(じんぐうこうごう)、宗像三女神が祀られている。
『八幡さま』は第15代 応神天皇で、清麻呂に言葉をかけたのは応神天皇ということになる。
和気清麻呂のその後
島流しされてしまった清麻呂は、称徳天皇が亡くなって1ヶ月後には許されて都に戻ります。そして、順調に官僚として出世していきました。
次の次、第50代 桓武天皇(かんむ)のときには参議にまで出世します。いまでいう内閣の一員ですね?
また、明治31年には正一位を贈られました。正一位(しょういちい)は、歴代の徳川将軍が亡くなって贈られるほどの最高の位階です。
正一位の人が務める役職は太政大臣、関白、摂政(人臣摂政)しかありません。
どれだけすごい人物だったか分かるでしょう。でもなんで明治になって追贈したんだろう?
明治の人は何を考えていたのだろうか? そういえばあの織田信長に正一位を追贈したのも大正時代。
近代になってから日本の歴史を見直したのかもしれない。
こんな忙(せわ)しい人はいない
孝謙・称徳天皇は、天皇 -> 上皇 -> 天皇と忙しく立場が変わりました。また、皇太子をクビ、天皇をクビにしてきた冷徹な人です。
皇太子をクビになった道祖王(ふなど の おおきみ / ふなどおう)はボコボコに殴られて死んだし、淳仁天皇は淡路島の幽閉先から脱出した翌日にナゾの死。
藤原仲麻呂は斬り殺されました。それ以外にも左遷、左遷の連続です。こんなにドラスティックに攻めた女帝はいません。
もともと父・聖武天皇の影響で仏教マニアでしたが、これだけやらないとやってられないから、よけいに仏教にのめり込んだのでしょう。
道鏡に頼ったのもこういうところだと思います。ただ、とうの道鏡が同じように野心マンマンだったのですが。
唯一? 仏教徒の天皇
称徳天皇は孝謙上皇時代に出家しています。仏教徒になっていました。すべてを確認したわけではないですが、『現役天皇が仏教徒』はただひとりです。
少なくとも称徳天皇より前にはいません。そのあとも天皇が仏教徒になるのは退位した後、上皇になってからです。
天皇を退位する。
上皇になる。
出家する。
法皇になる。
この流れを作るきっかけは孝謙・称徳天皇。平安時代からはむしろ、これがスタンダードになります。
神道の祭主・天皇を経験した人が仏教徒になるハードルを下げたのは、まちがいなく孝謙・称徳天皇でしょう。
ここでも女帝が常識を作りました。ほんとうに古代の女帝はその後の常識を作った人が多い。