歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -
雄略天皇(ゆうりゃく)は、兄弟・いとこなど、天皇になれるような皇子たちを次々に殺していきます。
(分かっているだけで4人。)
ほかにも、ろくに調べずに怒りにまかせて殺しているので、『大悪天皇』と呼ばれました。
逆に『有徳天皇』ともいわれたクセのある人です。
先史・古代 古墳時代
- 皇居
泊瀬朝倉宮
(はつせのあさくらのみや)
- 生没年
- 418年12月 ~ 479年8月7日
允恭天皇7 ~ 雄略天皇23年
124? 才
- 在位
- 456年11月13日 ~ 479年8月7日
安康天皇3 ~ 雄略天皇23年
23? 年
- 名前
- 大泊瀬幼武尊
(おおはつせわかたける の みこと)
- 父
第19代 允恭天皇
(いんぎょう)
- 母
忍坂大中姫命
(おしさか の おおなかつひめ の みこと)稚野毛二派皇子の娘
(わかぬけふたまた の みこ)
- 皇后
草香幡梭姫皇女
(くさか の はたひひめ の ひめみこ)第16代 仁徳天皇の娘
(にんとく)
- 皇妃
葛城韓媛
(かずらき の からひめ)葛城円の娘
(かずらき の つぶら)
- 妻
その他
天皇暗殺の異常事態
先代・安康天皇は、臣下のウソで殺してしまった叔父・木梨軽皇子(きなし の かる の みこ)の息子・眉輪王(まよわ の おおきみ)に殺されてしまいます。
眉輪王は葛城円(かずらき の つぶら)の屋敷に逃げこみました。
円は17代~19代の履中・反正・允恭天皇のいとこで、絶大な力をもっていました。葛城氏の長で大臣です。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
安康天皇の息子・大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたける の みこと。ワカタケル。のちの雄略天皇)はすぐに動きます。それは仇討ちを超えた殺戮の連続でした。
雄略天皇の殺戮ヒストリー
まずは、安康天皇が殺されたときの天皇の系図をみてみましょう。
安康天皇のとき二人が殺されています。すでに殺戮がはじまっていたんですね?
八釣白彦皇子を斬り殺す
ワカタケルは、兄・八釣白彦皇子(やつり の しろひこ の みこ)のところにいって、いっしょに仇討ちしようといいます。
でも白彦は態度をはっきりさせません。ブチ切れたワカタケルは白彦を斬り殺しました。
(なかなかの性格がおもいっきり出ている。)
眉輪王・坂合黒彦皇子を焼き殺す。
もうひとりの兄・坂合黒彦皇子(さかあい の くろひこ の みこ)は、実力者の葛城円のところに逃げていました。
円は、娘・韓媛(からひめ)を嫁に出すから許してほしいと頼みますが、ワカタケルは許しません。
黒彦、眉輪王、円もろとも焼き殺しました。
(そのあと、韓媛を嫁にもらっている。エグい。)
ワカタケルは、兄たちが眉輪王と通じていたと疑っていた。
葛城氏の没落
大臣の円が殺されて葛城氏は没落しました。これ以降、二度と這い上がれてません。
代わりに、平群真鳥(へぐり の まとり)が大臣になり平群氏が台頭します。このとき、大伴氏(おおとも)と物部氏(もののべ)も台頭しました。
大伴氏と物部氏は何百年もトップを張りつづけて、聖徳太子の時代にも出てくるので有名ですよね?
葛城氏はそこまで有名でないが、後の時代に出てくる蘇我氏(そが)みたいなもの。
先祖が武内宿禰(たけしうち の すくね)なので、時代はちがうが同族ともいえる。
(天皇の子孫でもある。)
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
平群氏も同じ武内宿禰の子孫氏族。大臣は同族で持ち回っていた。
ついでに磐坂市辺押磐皇子を殺す
安康天皇は、いとこの磐坂市辺押磐皇子(いわさか の いちのべ の おしは の みこ)を次の天皇にしようとしていました。
ワカタケルは気に入りません。ずっとイラついていました。兄たちを殺したついでに抹殺することにします。
狩りに誘い市辺押磐を射殺しました。日本書紀では市辺押磐の弟も殺しています。
ワカタケルは天皇になれそうな皇子をひとり残らず抹殺しました。こうしてライバルたちを全員殺したところで即位します。雄略天皇です。
雄略天皇は5世紀後半に活躍したと考えられています。
古事記ではちょっとちがう。ワカタケルは葛城氏の復興を狙った市辺押磐とその弟を殺したことになっている。
(二人の母は葛城氏の出身。)
狩りに誘ったのも市辺押磐で、ワカタケルはそこで殺されかけたので返り討ちにした。
雄略天皇は葛城氏が嫌いだった。皆殺しするほどに。
蘇我氏を没落させた天智天皇と似ている。
臣下もあっさり殺す
天皇になったら落ちつくかと思ったらそうはなりません。
雄略2年、朝鮮・百済(くだら)の池津媛(いけつひめ)を嫁にもらおうと思っていたのに、石川楯(いしかわ の たて)とデキていたことにブチ切れて、二人を焼き殺しました。
また同じ年、狩りに出かけたとき、お付きの人が自分の質問に答えなかったので、これまたブチ切れて斬り殺します。
雄略天皇は、人の話を聞かない超ワンマン・パワハラ男だったようです。後年、世の人々は『大悪天皇』と悪口を言っていました。
当時からすでに陰口をたたかれていたのでしょう。
古墳時代は、朝鮮出身の百済の娘を嫁をもらうのに躊躇がない。
今、保守派と言われる人の中に、外国人が皇族に入ったらどうなるか? みたいなことを言う人がいるが、こっちのほうが異常。
日本は元々、人種にこだわってない。当時の人々のほうが柔軟性がある。
感覚としては欧米の王室と同じ。
個性が強すぎてキャラがブレブレ
大悪人と言われた雄略天皇ですが、まったく逆の評価もあります。
雄略4年、葛城山で一事主神(ひとことぬし の かみ)に出会ったところ、礼を尽くして狩りをいっしょに楽しんで、お見送りまでしたそう。
これに人々は『有徳天皇』といいました。
また、『万葉集』の巻頭に収録された歌は、少女に語りかける、ほのぼのとした歌ですが雄略天皇が作ったといわれています。
籠もよ み籠持ち 掘串もよ
み掘串持ち この丘に 菜摘ます児家聞かな
...
万葉集
政治家としての仕事もきっちりこなします。
秦氏の強制移住
6代前の第15代 応神天皇のとき、大陸から絹織りのスペシャリスト・秦氏が来日して、日本全国に散らばりその技術を広めました。
雄略15年、その秦氏を集めて絹を税として納めさせます。絹税ですね?
そして、桑の栽培ができる土地を探させそこに秦氏を移住させました。
秦氏が渡来して100年近くたっているのですが、デカい勢力に成長してたんでしょうね?
雄略天皇は秦氏を警戒したのでしょう。全国に散らばった秦氏がネットワークを使って一斉蜂起したら、ヤマト王権としては一大事です。
絹に税をかけたのも秦氏の力をそぐのと従属させるため。『金は力なり』なので。
朝鮮半島有事は失敗?成功?
雄略天皇は朝鮮半島の新羅討伐に自ら出陣しようとします。それは、カミにやめなさいと言われてしまいました。代わりに、
紀小弓宿禰(き の おみ の すくね)
蘇我韓子宿禰(そが の からこ の すくね)
大伴談連(おおとも の かたり の むらじ)
を出兵させましたが、すべて返り討ちにあって死んでしまいました。
また雄略20年、高句麗が百済を滅ぼします。翌年、百済の第22代 文周王に新都・久麻那利(こむなり)を用意して百済再興を助けました。
雄略天皇は、倭の五王のひとり倭国王・武といわれます。
倭の五王(わのごおう)
中国の『宋書』に書かれた日本の5人の王のこと。
5世紀のおよそ100年間、日本が中国に貢ぎ物をして、その見返りに王の称号をもらっていた。
それが5人の天皇だったといわれている。(確定していない。)
また、中国の将軍にも任命されていた。
宋書の王 | 与えられた将軍 | 天皇 |
---|---|---|
倭国王・讃 (さん) | ??? | 第16代 仁徳天皇 |
倭国王・珍 (ちん) | 安東将軍 | 第18代 反正天皇 |
倭国王・済 (せい) | 安東将軍 | 第19代 允恭天皇 |
倭国王・興 (こう) | 安東将軍 | 第20代 安康天皇 |
倭国王・武 (ぶ) | 安東大将軍 ↓ 鎮東大将軍 ↓ 征東大将軍? | 第21代 雄略天皇 |
ランク | 将軍 | ランクイメージ |
---|---|---|
1 | 車騎将軍 | 皇帝直属の将軍。 中国軍本体。 戦車・騎馬隊? |
2 | 征東大将軍 | 東部方面司令の大将 |
3 | 鎮東大将軍 | 東部方面司令の中将 |
4 | 安東大将軍 | 東部方面司令の少将 |
5 | 征東将軍 | 東部方面司令の大佐 |
6 | 鎮東将軍 | 東部方面司令の中佐 |
7 | 安東将軍 | 東部方面司令の少佐 |
※ 中国からみた東国を担当する将軍。
※ 『東を征服する』『東を鎮圧する』『東を安定させる』の順にランク付け。
これが日本と中国の本格的な外交のはじまりで、将軍は中国皇帝の部下なので中国の属国になる。安東将軍はランクが低い。
(日本は朝鮮王より低いランクから始まった。それからランクアップしていく。最終的に朝鮮に並んだとかいないとか。このへんは微妙。)
天皇のまわりの豪族たちにも欲しいと日本から要求したので、称号は天皇以外ももらっていた。
九州などの豪族たちも、ヤマトを無視して称号をもらっていたとされる。
損をしているように見えるが、中国の世界最先端の技術・文明が日本に入ってきた。
このとき、母系社会の日本に男尊女卑・男系思想が入ってきたと言われる。
当時の中国は南北朝時代で、日本は南朝の宋(劉宋)と国交を結んでいた。
(北朝はすぐに東西に分裂し南朝よりも不安定だった。)
今までの倭国王は安東将軍でしたが、
478年 | 安東大将軍 |
479年 | 鎮東大将軍 |
502年 | 征東将軍?征東大将軍のまちがいでは? |
とランクアップしたようです。
(ずっと朝鮮国王より下だったがここで並んだ?)
将軍ランクは上がっても中国の属国に変わりはない。
伊勢神宮・外宮をつくる
雄略22年、丹波国(大阪)から豊受大神(とようけ の おおみかみ)を伊勢に移して、天照大神(アマテラス)の食事係のカミとして祀りました。
伊勢神宮・外宮(げくう)のはじまりです。
雄略23年7月、雄略天皇は病気になり、あとは皇太子・白髪武広国推稚日本根子皇子(しらか の たけひろくにおし わかやまと ねこ の みこ。清寧天皇)にまかせて亡くなります。
古事記では124才でした。(日本書紀では不明)
雄略天皇がライバルの皇子たちをみな殺ししたので、皇統断絶の危機が来ます。
皮肉にも狩りに誘って殺した磐坂市辺押磐皇子の二人の息子が天皇になる。
最古の実在天皇の有力説
歴代天皇には実在が確認されてない人がたくさんいます。最古の実在した天皇の説もさまざま。雄略天皇もいくつかある説のひとり。
埼玉県の遺跡から発掘された鉄剣(国宝)には、雄略天皇の本名・ワカタケルと読める刻印があり、もっとも古い実在天皇として有力視されています。
古墳時代の日本は文書を作る文化がなかったので、このように遺跡や遺物に彫られている人名から想像するしかありません。
また、埼玉県から出土したことから、雄略天皇の頃にはヤマト王権の勢力範囲は関東にまで及んでいたと考えられています。
ちなみに、実在天皇説で一番古いのは第10代 崇神天皇。