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第40代 天武天皇。なぞの生年不詳。何をかくしてる? 正統な皇位継承の証明のため?

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歴代天皇 - 政治闘争で殺しあうアグレッシブな天皇たち -

第40代 天武天皇(てんむ)が、『国家の正式な歴史書を作れ!』と言って日本書紀は作られたんですが、その日本書紀には天武天皇の生年が書かれていません。

ほかの歴代天皇は書いてあるのに。

ナゾです。何かをかくしてるんじゃないか?と勘ぐりたくなります。

古代 飛鳥時代

  • 皇居
  • 飛鳥浄御原宮
    (あすかのきよみはらのみや)

  • 生没年
  • 631年? ~ 686年9月9日
    舒明3? ~ 朱鳥元
    56?才
  • 在位
  • 673年2月27日 ~ 686年9月9日
    天武天皇2 ~ 朱鳥元
    14年
  • 名前
  • 大海人
    (おおあま)
  • 別名
  • 天渟中原瀛真人尊
    (あま の ぬなはら の まひと の みこと)

39代 弘文天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

天武天皇の生年が分からないわけがない

歴代天皇の生年は、第33代 推古天皇からはっきりしています。天武天皇の80年くらい前の時代。

それなのに天武天皇は生まれた年が分かっていません。日本書紀を作らせた張本人で、ひとりで2巻も使って書いてあるのに。

ひとりの天皇が2巻も使っているのは天武天皇ただひとりです。その日本書紀でさえ生まれた年が書かれていません。

ナゾです。

古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)

第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。

それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。

国記と天皇記

第33代 推古天皇のとき、聖徳太子蘇我馬子(そが の うまこ)が編集長になって作ったと言われる。

国記
(こっき)
国家の歴史書
天皇記天皇の系譜

天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。

そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。

帝紀と旧辞

帝紀
(ていき)
天皇の系譜、功績をまとめたもの。
旧辞
(きゅうじ)
各氏族の系譜をまとめたもの。
氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。
日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。

帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。

当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。

帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。

古事記(こじき。ふことふみ)

帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。

712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。

20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。

(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)

日本書紀(にほんしょき)

完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。

中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。

天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。

古事記倭語を漢字にあてた。
『夜露死苦』(よろしく)みたいに。

国内向け。
国家統一に利用するためか?
日本書紀漢字で書かれた。
(中国人でも読める。)

国外向け。
世界に日本をアピールするために利用か?

天武天皇は先代・天智天皇の弟です。父も母も同じ。もちろん天智天皇は生年月日がはっきりしています。

弘文天皇はこのとき天皇として扱われていない。)

それでいて、弟が生まれた日が分からないってあるでしょうか?

ますますナゾ。

日本書紀と同じ時期に作られた古事記は字のとおり『昔のこと』。

あの時代の人にとっての昔のことなので天武天皇の記述はない。

(古事記は第33代 推古天皇まで)

天智天皇の娘を4人も嫁にするナゾ

天武天皇は、天智天皇の娘を4人も嫁にします。そのうちのひとりが、次の持統天皇

第40代 天武天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工
大田皇女
(おおた の ひめみこ)
天武天皇の即位前に亡くなった。
本当なら皇后になっていたと思われる。

大津皇子(おおつ の みこ)の母。
大津は天武親政の中心で、謀反の疑いをかけ
られ自害。
第41代 持統天皇
(じとう)
大田が亡くなったので皇后になったよう。
天武天皇のあとは持統中心に動く。

草壁皇子(くさかべ の みこ)の母。
草壁は天武時代の皇太子で摂政
新田部皇女
(にいたべ の ひめみこ)
舎人皇子(とねり の みこ。舎人親王)の母。
舎人親王は日本書紀の編集長。
大江皇女
(おおえ の ひめみこ)
長皇子(なが の みこ。長親王)、弓削皇子
(ゆげ の みこ)の母。

そこまで天智系が必要だったの?

ここまで先代の系統を必要とした天皇はいません。ぶっちぎりです。

もともと古代の天皇は、前の天皇の子孫から皇后をむかえるルールのようなものがありました。

前(や、その前など)の天皇の意思を引きついでますよ。

といって自分の正統性をさらに主張したかったんですね? だから兄妹、親戚同士の結婚が多くありました。

これまでの歴代天皇で、やけに先代の系統にこだわった天皇はいました。

第23代 顕宗天皇
第24代 仁賢天皇

そしてもうひとつ、

第26代 継体天皇
第27代 安閑天皇
第28代 宣化天皇

顕宗・仁賢天皇の兄弟は、大阪の豪族の下人にまで落ちていたので、正体が怪しまれました。

下人(げにん)  

主人に仕える身分の低い人。

継体・安閑・宣化天皇の親子はもともと福井にいて、皇族とはほど遠い生活をしていたので本当に皇子なのか怪しまれました。

だから前の天皇の娘を皇后にむかえて、血統の正統性を高めないといけませんでした。

でもこれらは、自分の妻たちを先代の娘で固めていませんでした。天武天皇の天智系の受け入れ方はかなり異常です。

顕宗・仁賢天皇は雄略系、継体・安閑・宣化天皇は仁賢系にこだわった。

王位簒奪か?じつはあやしい出自か?

兄・天智天皇が亡くなりかけているとき、天武天皇は皇族をやめて僧侶になり吉野(奈良)に引っこみました。

そして兄が亡くなると吉野から兵を挙げて、都の大友皇子(おおとも の みこ。弘文天皇)や朝廷の臣下たちを倒しました。

どうみても朝敵だし王位簒奪です。(壬申の乱

壬申の乱(じんしんのらん)

天智天皇の弟・大海人皇子(おおあま の みこ)と息子・大友皇子(おおとも の みこ)のだれが天皇になるのかの争い。

古代最大の内乱。

両軍ともに皇位継承権のある皇族が大将になり指揮した戦で国を2分した。日本の歴史上、ここまで国を分けた戦いはない。

大海人皇子は皇太弟、大友皇子は太政大臣だった。

天智天皇は大海人皇子を指名したが、皇子が断って吉野(和歌山)に引っ込んだことが原因。

672年(天武元)7月24日、大海人皇子は、大友皇子に反乱の罪をきせられると思い、先手を打って挙兵、勝利して第40代 天武天皇になる。

どっちが裏切ったのか、正義があるのかは意見が分かれる。

古代の資料は日本書紀・古事記からだが、天武天皇が号令をかけて作られたので、大海人皇子に都合の悪いものは書けなかったともいわれる。

(ここに書いた内容も日本書紀から。)

大友皇子は、歴代天皇に入ってなかったが、明治3年、明治天皇が『弘文天皇』という諡をおくって歴代天皇に加わった。

いまは、どっちがよかった、悪かったという評価ができるほど事実が分かっていない。

王位簒奪じゃないよ。

ほら。こんなに天智天皇の娘が味方にいるでしょ?

ボクはこれだけ先代とつながりがあるんだよ。

と言いたくて4人も嫁にもらったのか?

それだけ先代の天智天皇から引きついだ証しが欲しかったのか?

とも思いますが、大田皇女・持統天皇は天智天皇が生きていたときからの妻です。

兄・天智天皇は弟・天武天皇が裏切って皇位を奪われないように、自分の娘を送り込んだのかもしれません。

また、天武天皇はもともと生まれが怪しい説があります。そのなかで作家・井沢元彦 説などはぶっ飛んでます。

歴史学では認められてないでしょうが、とても面白いし『あるかも?』と思えるところがあります。

天武天皇の母は別の皇女で、また母の再婚前の子どもで、連れ子じゃないか?という説。

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第40代 天武天皇。大偉業の道半ばに死す。皇親政治の始まり。
第41代 持統天皇。作戦参謀まで務めるオラオラ皇女。権力のためなら皇子も殺す。
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天皇・皇室の本

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