平治の乱(へいじのらん)は、平清盛が源頼朝を伊豆へ追い出し、義経を寺に入れ、源兄弟の父・義朝が殺されるところが有名です。
しかし、これはメインではありません。戦いのメインは後白河上皇と二条天皇の対立で、内部の複雑な権力闘争です。
どさくさに紛れて力を発揮したのが平清盛で、いちばん得をしました。
中世 平安時代 - 末期 -
保元の乱の後の動き
保元の乱に勝った後白河天皇は、抵抗する勢力がほとんどいませんでした。乱で活躍した藤原通憲(ふじわら みちのり。信西入道)に政治をまかせます。
信西は荘園を整理するなど朝廷の改革を進めたので、おいしい思いができなくなった貴族から反感をもたれます。
それでも信西は改革の手をゆるめませんでした。武家勢力の力を背景に天皇親政を目指したから。
この信西が、ひとり勝ち状態の後白河天皇派の内紛を生む中心になります。後白河天皇は即位から4年目、早々と守仁親王(二条天皇)に皇位を譲り上皇になりました。
荘園(しょうえん)
743年に私有地を持てる法律ができたことから始まる、上皇・貴族・寺社勢力・豪族の私有地のこと。
農園と言われるが鉄の生産など工業も行われた。
室町時代くらいから武士などの地方の有力者に奪われ失われていく。
豊臣秀吉の太閤検地などの土地制度改革で、私有地はいったん国に返すことになったので消滅する。
太上天皇(だいじょうてんのう)
退位した天皇のこと。
上皇(じょうこう)
太上天皇の短縮した言い方。
太上法皇(だいじょうほうおう)
出家した上皇のこと。たんに法皇という。
院(いん)
上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。
くわしくは『太上天皇とは何か?』へ
朝廷内に新しい対立が生まれる
もうひとり後白河天皇から政治をまかされた藤原信頼(ふじわら のぶより)は、信西に不満で対立します。
信西はすべての権力をひとり占めしていると見られていました。また、二条天皇の側近、藤原経宗(ふじわら つねむね)、藤原惟方(ふじわら これかた)とも対立します。
二条天皇の側近は、
と批判しはじめます。二条天皇と後白河上皇の親子関係もぎくしゃくしました。
- 後白河上皇の部下同士の対立(信西。藤原信頼)
- 後白河上皇と二条天皇の対立
朝廷内の対立が武家にも波及
ここで藤原信頼に味方する武士もあらわれます。源義朝(みなもと の よしとも。頼朝・義経兄弟の父)もそれに加わりました。
なぜ義朝は信頼に味方したのでしょうか?
信西は平清盛(たいら の きよもり)と親戚関係で、清盛をひいきしてほかの武士は相手にしていなかったからです。この清盛びいきにほかの武士は不満でした。
このとき、どの勢力が優勢とはいえませんでした。
清盛は藤原信頼とも親戚関係で、親信西、反信西とも距離を置き、上皇派、天皇派とも距離を置いていました。有利な方にいつでも行けるようにしていたのでしょう。
三つ巴の状態でした。
ついにパワーバランスが崩れる
保元の乱から3年後(1159年)、藤原信頼・源義朝が信西を倒すため挙兵します。このとき平清盛は、熊野へ参詣に出ていたので京都を留守にしていました。
そのスキを突いた挙兵。
平治の乱のはじまりです。それを事前に察知した信西は京から逃亡します。しかし追っ手に捕まるのを覚悟した信西は自害しました。
クーデターを成功させた信頼は、後白河上皇、二条天皇の二人の身柄を確保し政権を掌握します。
このとき、二条天皇派も反信西だったので裏ではクーデターを支持していました。
(上皇と天皇は捕まったというより保護された。)
事態はさらに急展開
しかし、このままで終わりませんでした。二条天皇派がチャンスと見て、後白河上皇派を一掃しようとします。京都に引き返した平清盛を味方に引き入れました。
藤原信頼は人望がなかったようです。
二条天皇は六波羅(ろくはら)へ、後白河上皇は仁和寺(にんなじ)に脱出します。さらに、信頼の仲間だった貴族の面々が、続々と六波羅に集結しました。
これで勝負は決まりました。
藤原信頼 | 斬首。 |
源義朝 | 逃亡中に殺される。 |
源頼朝 | 伊豆へ島流し。 |
源義経 | 寺に入れられる。 |
平清盛は武家勢力を平家で独占するために、わざと京都を留守にしたという話もあります。本当のところは分かりません。
図にするとこうなります。
上皇派のボス・後白河上皇は、部下を見捨て『俺は関係ない』という顔をします。
清盛は源氏を倒すため、中立から二条天皇派に変えました。これを見ていた摂関家など有力貴族が、雪崩を打ったように二条天皇派に加わります。
これが平治の乱の実態です。
平治の乱のホントのところ
平治の乱というと平氏が源氏を倒したところばかり注目されます。
しかし、メインは上皇 vs 天皇です。武士はあくまでサブキャラクターにすぎません。
いまのぼくたちは、武士がメインキャラクターになるのを知っているのでカン違いしているだけです。当時は乱を大きく左右する存在ですが、まだ主人公ではありません。
ここで、後白河上皇が力を発揮します。信西も藤原信頼も自分が政治をまかした部下です。自分の身を守るためとはいえ、二人の共通の敵、二条天皇派にあっさり乗っかりました。
勝ち馬をいち早く察知して迷いなく行動する。
これが後白河上皇の一貫した行動です。ここから先も同じように勝ち馬に乗るためなら何でもします。
御白河上皇は部下を捨てて、敵の二条天皇派に乗り換えた
まだまだ急展開は終わらない
ふつうなら勝った二条天皇が権力を握るはずですが、そうはなりませんでした。
またまた急展開します。
後白河上皇は平清盛に近づきます。そして、清盛に二条天皇派の中心人物を捕らえさせ処分しました。
藤原経宗 (ふじわら つねむね) | 拷問にかける。 阿波(徳島)へ島流し。 |
藤原惟方 (ふじわら これかた) | 拷問にかける。 長門(山口)へ島流し。 |
エグイですね。島流しの前に拷問ですから。
二条天皇は敗者になり勝者は後白河上皇がなりました。ここが後白河上皇の異常な才能を発揮したところでしょう。
そもそも平家は、後白河上皇と対立するために二条天皇派に加わったわけではありません。武家同士の争いで源氏を倒せば平氏一門が武士の立場を独占できるから。
平清盛は、まだ17才の二条天皇と後白河上皇を比べたとき、平家にとって上皇に近づくほうがいいと考えたのでしょう。
清盛は完全に二条天皇を裏切りました。そして上皇は清盛の武力を背景に二条天皇を退位させます。
後白河上皇・平清盛タッグの完成へ
後白河上皇は、入れ替わるように信西の息子を京都に戻します。
上皇は平治の乱で何もしていないのに、反信西一派を上皇・天皇派まとめて一掃しました。
ここから、後白河天皇と平清盛はお互いに利用し利用されながら、互いの権力基盤を固めます。
- 戦で勝ったのは二条天皇。
- 権力闘争に勝ったのは後白河上皇。
- 後白河上皇の勝利には平清盛の裏切りが影響した。(二条天皇→後白河上皇)
一番利益を得たのは平清盛
勝者になったのは後白河上皇と平清盛でした。上皇はもともと権力の中枢にいるので、現状を維持しただけでおいしい思いをしていません。
一番おいしい思いをしたのは清盛です。ライバルになりそうな源氏を一掃して、武家社会の利益を独占するのに成功しました。
また平治の乱では、複数あった貴族勢力がお互いに潰しあったので、後白河上皇以外の勢力がありません。
清盛は、そのあいた穴を埋めるように貴族社会にも進出し、日本国全体を掌握していきます。
メインキャストでなかった人が結果として一番の利益を得る、まさに『漁夫の利』というヤツです。