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幕府成立年が1185年はおかしい
まず、1185年はおかしいです。この年は、壇ノ浦の戦いに平家が敗れた年で、安徳天皇が瀬戸内海に身を投げて命を落とした年です。
また、源義経が京都でヒーローになっていて、源頼朝と義経が仲たがいをしたころ。
後白河法皇はあとで取り消しますが、義経に頼朝追討の宣下を出した年でもありました。
(頼朝は賊軍と言っているようなもの。)
反乱軍に認定されているのに幕府の成立はおかしいです。
鎌倉は全国制覇していない
またこのときは東北に奥州藤原氏がいました。東北は鎌倉の勢力範囲ではないし、西日本は朝廷の勢力下です。
おそらく当時、頼朝は日本一の武力と組織をもっていたでしょう。しかし、ひとりの有力武将程度の存在です。鎌倉が日本全体を掌握するのは1121年の承久の乱の後です。
ちなみに、義経が奥州で殺され奥州藤原氏が滅亡するのは4年後の1189年。
位はあっても役職なしに幕府は開けない
1185年は頼朝が従二位に昇進している年で、これは左大臣・右大臣クラスです。でも頼朝は左大臣・右大臣でもなければ、国軍を統括する役職もありません。
偉い人だけど国を動かす権利はもっていない。有位無官の状態。
(無位無官よりはマシだが。)
位と役職がフワフワしている感じは織田信長と似ている。
地頭・守護の設置を幕府の成立とするのもちがいます。これは、各地域の行政官のトップの任命権と、治安維持の責任者の任命権をもっていますが、肝心の頼朝に役職がないので、いつでもひっくり返せます。
とだれかに命令したら終わり。
地頭・守護は、何かあったとき日本の正当な軍として、各地域で軍を編成する権限をもっていません。頼朝にそれを命令する権限もありません。
頼朝自身に国家の軍事の統括権がないのだから。
地頭には、いざとなったら鎌倉に集結する義務があった。
でもこれは、地頭職につく見返りに鎌倉と御家人が交わした約束。地頭という職業の義務ではない。
守護にも鎌倉の護衛をする武士を選定する仕事があった。ただこれも『鎌倉』という組織を守るため。
国軍のためのものではない。
御家人(ごけにん)
鎌倉時代の幕府に従う武士。
家人(けにん)を丁寧な言い方にしたもの。家人は『主人の家の人』という意味で主人に従う人という意味。
鎌倉の力が圧倒的だったので、家人にも『御』をつけるくらい気を使った。
御家人の主人は鎌倉の将軍ではなく鎌倉武士の組織だった。そのため、鎌倉幕府が消滅すると御家人も消滅する。
(全員死んだわけではない。武士のひとつの形が消滅した。)
鎌倉時代の言葉として使われることが多く、ほかは『家臣』と同じ意味で使われる程度。
- P1 鎌倉幕府成立までの源頼朝の足跡
- P2 激動の12年間にひとり権力の中枢に居つづけた後白河法皇
- P3 そもそも幕府とは?
- P4 幕府成立年が1185年はおかしい
- P5 幕府成立年が1185年以前はもっとおかしい
- P6 1192年になるまで頼朝は軍の統括権を持ったことがない
- P7 1192年はどういう年なのか?
- P8 今の解釈だと幕府が無いことにならないか?