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河内源氏(かわちげんじ)って何だ?
武士の源氏の始まりは、清和天皇の孫・経基王(つねもと)が臣籍降下して源経基になったところから始まります。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
経基はポンコツだったんですがくわしくは下記におまかせして、ここでは経基の息子・源満仲(みつなか)から始めます。
武士の〇〇源氏の登場
ポカを繰り返しても出世した清和源氏の祖・源経基の息子・源満仲(みなもと の みつなか)は、摂関政治の藤原氏に近づいて出世していきます。
同じ源氏の左大臣・源高明(みなもと の たかあきら)の失脚のためにデマを撒き散らしたりもしました。
そのおかげか、父と同じように各地の国司を歴任し鎮守府将軍にまでなります。その後、2回国司をつとめた摂津国(せっつ。大阪・兵庫)に土着して武士化しました。
ここを拠点に武士の源氏は広がっていきます。息子たちはそれぞれ土着したところにちなんで〇〇源氏(◯は地域名)と言われます。
彼らの子孫は歴史に登場するあの人やあの人もいる。
源高明は第60代 醍醐天皇の息子で、現天皇家の流れに乗っていた。
清和源氏は醍醐天皇のお祖父ちゃんの甥っ子の子孫なので、天皇家との距離は遠い。
同じ源氏でも同じ氏族という感覚はない。だから武士の源氏は現主流派・源氏のライバル、藤原氏の摂関家に付いた。
摂津源氏(せっつげんじ)
満仲の長男・源頼光(みなもと の よりみつ)が父の拠点・摂津国(せっつ。大阪)を引き継いだ系統を摂津源氏と言います。
摂津国は畿内のひとつで今でいうと首都圏。良いところを拠点にしました。
五畿七道(ごきしちどう)
古代から平安時代にかけての日本の首都圏と、幹線道路とその周辺の地方ブロック。
首都圏を畿内(きない)と言い5つに分けた。
道路は7つに分けた。〇〇道は道路周辺の地方も指す。州みたいなもの。
畿内 | 首都圏。 おもに、奈良、滋賀、京都、大阪。 |
山陽道 | 本州西部の瀬戸内海側。 おもに、兵庫南部、岡山、広島、山口。 |
山陰道 | 本州西部の日本海側。 おもに、京都北部、兵庫北部、鳥取、島根。 |
南海道 | おもに、四国、淡路。 |
西海道 | 九州全域。 |
東海道 | 本州東部の太平洋側。 おもに、三重、愛知、静岡、関東圏。 |
東山道 | 本州東部の山間部と東北全域。 山間部はおもに、滋賀、岐阜、長野、群馬、栃木。 |
北陸道 | 本州東部の日本海側。 おもに、福井、石川、新潟。 |
北海道、沖縄は入っていない。当時の日本人に領土意識がないから。奄美を含む南西諸島、小笠原諸島は微妙。
今でも『北海道』にその名残がある。当時は七道に入ってなかったのに。
摂津源氏の末裔は土岐氏(とき)など。明智光秀(あけち みつひで)や浅野長政(あさの ながまさ)などの有名な武将もいます。
江戸時代の忠臣蔵の浅野内匠頭(あさの たくみのかみ。長矩(ながのり))もこの流れ。あの坂本龍馬も土岐氏の流れと言っていたそう。
さすがに龍馬はウソっぽいですが。
『あの人やあの人はまだ出てこないの?』と思った人もいるでしょう。真打ちはあとで出てくるのが相場です。もう少し待ちましょう。
摂津源氏は主に、都まわりに勢力を拡大していく。
土岐氏は斎藤道三(さいとう どうさん)に下剋上を食らうまで美濃(みの。岐阜)の守護大名だった。
明智光秀も美濃の生まれと言われる。土着した摂津源氏の末裔を思わせる。
都まわりにいたことで中央政府とのコネクションがあり、摂関家と近い武士集団だった。
平家政権下で出世した数少ない源氏の源頼政(よりまさ)も摂津源氏。中央とのパイプが太い家柄だった証拠。
源満仲の長男が摂津源氏の祖であったことから、清和源氏の本流と見る向きもある。
(平家政権で唯一残ったのもこのブランドのおかげという説も。)
ちなみに、鎌倉幕府を開く源頼朝(よりとも)は摂津源氏の弟の流れの河内源氏。
これをもって、頼朝が源氏の本流とは言えないという声も多い。
(もっていた実力から後世の人が本流と見なしたという説。)
大和源氏(やまとげんじ)
満仲の次男・源頼親(みなもと の よりちか)も、父の拠点の摂津国を引き継ぎましたが、各地の国司を歴任する中、3回も大和守(やまと。奈良)をしていた縁で大和に土着しました。
(守(かみ)は国司のナンバー1。県知事みたいなもの。)
これを大和源氏と言います。
大和国も畿内のひとつです。これも首都圏。古都・奈良が入っているので重要なところです。
大和源氏は大和国では新参者で旧勢力との争いが絶えませんでした。春日大社や興福寺、東大寺など由緒ある宗教勢力です。
(ちなみに春日大社は藤原氏の氏神。)
これが原因で大和源氏の末裔には有名な武将はいません。頼親の次男・源頼房(よりふさ)が興福寺と大戦争を始め大量の死者を出したことで、土佐国(とさ。高知)に島流しにされたあとどうなったか分かっていないから。
平安の人斬り?清少納言の兄を殺した荒くれ者
大和源氏の祖・源頼親は激しい性格だったようです。もともと父の拠点・摂津の国司・摂津守になりたくて、何度もお願いしますが断られつづけました。
すでに大和国を抑えていたので『大和をもってるのに摂津も取るの?』というのが理由。欲張りするなよってこと。
また頼親は、後一条天皇のお出かけで警護が手薄になった都でなんかやってやろうと思ったのか、清少納言の兄・清原致信(きよはら むねのぶ)を襲撃して殺す事件を起こします。
(貴族やまわりの武将の勢力争いが原因らしい。)
もちろん、このとき勤めていた国司(淡路守(あわじ。兵庫))はクビ。事件を聞いた最大の実力者・藤原道長(ふじわら みちなが)は『殺人上手』と言ったそう。
ということは1件だけじゃないってこと。幕末の人斬り・中村半次郎(なかむら はんじろう)みたいな人だったのかもしれません。
河内源氏(かわちげんじ)
やっと真打ち登場です。真打ちだけに内容も濃い。最初はここで書こうと思ったのですが量が多すぎてこちらにまとめました。
ここではかんたんに。
満仲の三男・源頼信(よりのぶ)が河内(かわち。大阪)に土着したところから河内源氏と呼ばれます。
河内も畿内のひとつで首都圏。初期の武士の源氏は最初から国司として期待されていたようです。関東が中心だった平氏とはここがちがう。
河内源氏は大阪から東へ広がった勢力で、甲斐源氏の武田氏、常陸源氏の佐竹氏へと広がりました。武田信玄(たけだ しんげん)もこの系統。
また、河内源氏と言ったらやっぱり源氏の本流になったこと。
鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)、室町幕府を開いた足利高氏(あしかが たかうじ)、江戸幕府を開いた徳川家康。
幕府の将軍家はすべて河内源氏の系統です。
- P1 源氏だけじゃない天皇の子孫の氏族
- P2 源氏は何天皇の子孫?
- P3 第1期 左大臣を送り込む貴族の一大勢力
- P4 フェードアウト後の第1期源氏
- P5 貴族の面目を保った村上源氏
- P6 真打ち登場。武士の源氏(清和源氏)
- P7 河内源氏(かわちげんじ)って何だ?
- P8 源氏はヤンキー気質
- P9 フェードアウト後の第1期のつづき
- P10 第2期 幕府の都合で源氏になる