ツイート
シェア
LINEで送る
B! はてぶでブックマーク
Pocketでブックマーク
RSSフィード

源頼朝が若い頃、なぜ河内源氏はどん底に落ちていたのか?自業自得?政治オンチ?

源義朝の墓

武士の代表格といえばなんといっても源氏でしょう。そのスタートを切ったのが鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもと の よりとも)。

しかし頼朝より前に、源氏(細かくいうと河内源氏)はメジャーの武士になっていました。ただ頼朝が登場したときはどん底 of どん底。

どうしていったん登りつめた河内源氏は落ちるとこまで落ちたんだろう?

河内源氏の最初のピーク。八幡太郎義家

鎌倉幕府を開く源頼朝(みなもと の よりとも)の登場以前に、河内源氏はほぼ東国を押さえていたと言っていいほど勢力を拡大しました。そのクライマックスが八幡太郎こと源義家(よしいえ)です。

(当時の東国は岐阜から東。東日本全体。)

くわしい河内源氏の成り上がりは下記にまかせてここではかんたんに。

『東国全体を押さえていた』といってもイメージしにくいですね?

この勢力範囲は鎌倉幕府を開いたときの頼朝の勢力範囲と大して変わらず、名だたる戦国大名の領地なんてチンケに思えるほど広いです。

河内源氏の勢力
河内源氏の勢力範囲

正確には東北は奥州藤原氏のテリトリーになっていくのですが、そもそも奥州藤原氏が興るきっかけを作ったのが八幡太郎。

奥州藤原氏は親・河内源氏。

天下を目前にしたあの織田信長の勢力よりもだんぜん広い。どれだけ河内源氏がすごかったのかイメージできたと思います。

河内源氏の系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

悩める八幡太郎の息子。父のパワーを保てない。

河内源氏の全国展開の功労者・義家が亡くなると、もう河内源氏の衰退が始まります。

武将は親兄弟・親戚間の争いが激しいです。戦国時代でも親殺し、兄弟殺しはいくらでも出てきます。

初期の武士の河内源氏でも同じでした。

八幡太郎義家のときも争いごとはありましたが、棟梁が強いので小競り合いで済んでます。また義家自身が小競り合いの当事者になったときは関白が出てきて収めてくれました。

ただ義家が亡くなると、抑えが効かなくなって小競り合いでは済まなくなります。このころには摂関政治も衰退し関白の力も無くなっていたので頼りにできません。

苦悩の河内源氏4代目棟梁・源義忠(みなもと の よしただ)

源義忠は八幡太郎義家の3男なんですが、ワケあって4代目の棟梁になります。偉大な父・義家に力及ばずなのを自覚していたらしく、グイグイ勢いが出てきた永遠のライバル・伊勢平氏との協力関係を考えていました。

坂東平氏、伊勢平氏の勢力

伊勢平氏の棟梁・平正盛(たいら の まさもり)の娘を妻に迎えます。そして、妻の弟で平氏の棟梁の後継者の烏帽子親(えぼしおや)になり、名前を1字贈って、平忠盛(ただもり)と名乗りました。

(烏帽子親は元服のときに帽子をかぶせる後見人のこと。)

ここでピンときた人もいるんじゃないでしょうか?

そうです。平正盛は平清盛(きよもり)のお祖父ちゃんで、義忠から1字もらった忠盛は清盛の父。

永遠のライバルの棟梁同士は家族になっていました。

4代目棟梁の兄。問題過ぎて殺される

源義忠にはひとり兄がいました。源義親(よしちか)です。この人、度が外れていました。

対馬守(つしま。長崎)のとき、略奪を繰り返した挙げ句、役人を殺します。あえなく隠岐(おき。島根のはずれにある島)に島流し。

これから悪対馬守(あくつしまのかみ)という不名誉な称号まであります。

これで終わりません。勝手に本土の出雲国(いずも。島根)に渡り、また役人を殺して盗みをはたらきました。

結局、伊勢平氏の棟梁・平正盛の討伐軍に殺されます。

当時の河内源氏にはヤカラみたいな人もいました。なんで3男なのに義忠が継いだか分かります。

(長男は早くに亡くなっていた。)

義親の気持ちは分からんでもない。河内源氏の棟梁になるべき自分が、九州北部のはずれの対馬の国司なんて島流しみたいなもんだから。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

4代目棟梁・暗殺される

4代目棟梁の悩みは尽きません。今度は叔父さんの源義光(よしみつ)に命を狙われ殺されてしまいました。

源義光は新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)とも言われます。

八幡太郎義家。

賀茂次郎義綱(かもじろうよしつな)。

新羅三郎義光。

どうやらこの兄弟には、ミドルネームに生まれた順が入ってニックネームを付けるのが流行ったらしい。(か、後世の人がつけたか?)

ニックネームは元服した寺社に由来。

石清水八幡宮
賀茂神社
新羅明神

当初、犯人は賀茂次郎の息子だとされ、賀茂次郎は源為義(ためよし)に攻め込まれ一族郎党が殺されます。次郎本人は島流し。

そのあと、新羅三郎の犯行だということがバレました。三郎は常陸(ひたち。茨城)へ逃亡。

ここで河内源氏の実力者たちが一気にいなくなりました。こんなことしてたら、平氏にポジション奪われますよね? という話です。

八幡太郎、賀茂次郎、新羅三郎の3兄弟の母は平直方(たいら の なおかた)の娘。

すでに平氏と源氏の蜜月関係は始まっていた。

ちなみに織田信長(おだ のぶなが)は一時期、平直方の子孫だと自称していた。

河内源氏の系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

新羅三郎は甲斐源氏の祖。あの武田信玄(たけだ しんげん)のご先祖さま。

5代目棟梁・源為義(みなもと の ためよし)

4代目棟梁殺人事件のあと河内源氏の棟梁になったのが、賀茂次郎の家族を攻め滅ぼした源為義です。

為義はナゾの人で、あの悪対馬守・源義親の息子ということになっているのですが、八幡太郎義家の息子で4代目棟梁・義忠の弟という説もあります。

(八幡太郎の孫ではなく息子という説。)

もうこのころには、河内源氏のメンツが一気に減っていました。

源為義
(ためよし)
5代目棟梁。
八幡太郎の孫か息子。
源義光
(よしみつ)
4代目棟梁・義忠殺しがバレて常陸国(ひたち
。茨城)へ逃亡。

八幡太郎の弟。
新羅三郎義光。
源義国
(よしくに)
4代目棟梁・義忠の兄。
八幡太郎の息子。

父・八幡太郎が生きているとき、叔父の義光
と合戦(常磐合戦)をして敗北。

父に謹慎処分を言い渡されて蟄居してる最中。
暴力沙汰が多く血気盛んで知られる。
源義時
(よしとき)
八幡太郎の息子。義国の弟。
目立った活躍がない。

4代目棟梁が殺されたとき『次はオレだ!』と
言ってたらしいが相手にされなかった。

陸奥五郎(むつごろう)と呼ばれていたらしい
。(苦笑)
源義隆
(よしたか)
八幡太郎の息子。末弟。
まだ子どもだった。
残っていた河内源氏

スゴいです。『逃亡中』『謹慎中』『役不足』『子ども』。ほかに棟梁になれる人がいない中、為義は河内源氏を率いることになりました。

歴史にくわしい人は為義という名前にピンとくるんじゃないかな? 為義は源頼朝義経(よりとも・よしつね)兄弟のお祖父ちゃん。

源為義には『陸奥四郎』という別称もある。

おそらく、八幡太郎義家の息子で『陸奥五郎』義時の兄という意味。

また『六条判官』(ろくじょうはんがん)という別称もある。

これは検非違使だったから。判官(じょう)は検非違使のナンバー3。

征夷大将軍と検非違使(せいいたいしょうぐん・けびいし)

検非違使は、平安時代の最初の天皇・第50代 桓武天皇が軍事の地方分権化で手薄になったので作られた首都警護の役職。

最初は所轄官庁がなく天皇直属の警備隊だった。

第53代 淳和天皇のとき所轄官庁の検非違使庁ができる。今でいう警視庁のようなもの。

また桓武天皇は、軍事力を地方の所轄官庁・国司に丸投げして国軍をもつことを止めた。

そこで、国司軍団をまとめるため征夷大将軍を作った。

征夷大将軍はいざ戦争が起きると任命される臨時職で、常にいるようになるのは、幕府の将軍(征夷大将軍)が国の統治をするようになった鎌倉時代から。

くわしくはこちらで。

河内源氏の系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

摂関政治から院政への転換の波に乗れず

河内源氏は内輪もめで十分、弱っていくのですが、政治家としての失敗もありました。

摂関政治から院政への転換に乗れなかったこと。ただ、これはどうしようもない。

河内源氏はスタートから摂関家に近づいて勢力を拡大した一族です。八幡太郎義家だって摂関家に近づいていたくらいなので、棟梁のお仕事みたいになっていました。

この行動は院政を始める上皇にとっては目ざわり。

河内源氏の棟梁になっても不思議はない悪対馬守・源義親(よしちか)を追討したのは、白河上皇に命令された平正盛(たいら の まさもり)でした。

この事件が象徴的。上皇の院政は摂関家に近い源氏がイヤで、中央政府では色のついていない伊勢平氏を重用しました。

ボクの勝手な想像ですが、義親は院政の犠牲者で、やっぱり対馬守の任命は左遷・島流しの意味があったんじゃないかと思います。

そもそも上皇は荒くれ者の源氏がお嫌い

源為義は院政に入り込めなかったわけではありません。院政を始めた白河法皇のもとで検非違使をしていたし、鳥羽上皇のときもそうでした。

検非違使は警視庁です。警察官・刑事。それなのに為義は悪い悪い。

殺人犯をかばう。

身内が暴力沙汰・殺人を犯しても知らんぷり。

検非違使庁から事件の報告の催促が来ても無視。(身内がやってるから。)

etc...(数しれず。)

こんな警察官どう思います? もちろんですけど鳥羽上皇からは勘当されました。そして検非違使をクビ。

為義のスゴいところはそれでも悪いことをやってる自覚はなく、関白藤原忠実(ふじわら ただざね)、左大臣・頼長(よりなが)親子に取り入って、また検非違使に戻ってるところ。

こんなことしてたら嫌われるに決まってる。

それに対しライバルの平氏はちゃんと警察官をしていました。おかげで国司の実質的なトップ・受領まで任されるようになります。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

検非違使に復帰した為義は、今度は息子の悪行狼藉がひどすぎてまたクビになる。

その息子が8男・源為朝(ためとも)。

為朝は父・為義があつかいきれないほどの暴れん坊で、追放された九州でチームを作って暴れまわり『鎮西八郎』を名乗って制覇した。

(鎮西(ちんぜい)は九州中北部の地方名)

伝説の暴走族の総長みたいな人。

そのあと伊豆大島に島流しされ、そこでもチームを作って国司の言うことを聞かず暴れまわり伊豆諸島を制覇する。

やっぱり伝説の総長。

というか、人望は天才的にあったみたい。最後は追い込まれて自害。

負ける方につく大失態。息子に斬首される

源為義の失敗はつづきます。ただでさえ院政では伊勢平氏にポジションを奪われていってるのに、最大の失敗を犯しました。

保元の乱です。

保元の乱は崇徳上皇 vs 後白河天皇という天下分け目の大戦だったのですが、為義は敗北した崇徳上皇についてしまいます。あれだけの悪行三昧をかばってくれた左大臣・藤原頼長(ふじわら よりなが)が崇徳上皇についていたから。

結果、為義の息子・源義朝(よしとも)が父を斬首しなければなりませんでした。

保元の乱では、河内源氏のほとんどは崇徳上皇についていた。上皇自らスカウトした為義が崇徳軍の総大将だったから。

頼朝・義経兄弟の父・義朝ぐらい。後白河についたのは。

(長男だけが裏切った。)

義朝は自分の部下にたくさんの坂東平氏がいたので、そうせざるを得なかった。

あの伝説の総長・為朝も崇徳上皇についた。この総長は孤軍奮闘で、その戦いぶりも伝説になっている。

あまりの凄さにタイマンを張るのを避けた武将は数知れず。

伊豆に島流しされたのはこれが原因。

6代目棟梁・源義朝(みなもと の よしとも)。頼朝の父。

源義朝・頼朝の平治の乱の敗走
『平治物語』敗走する源義朝一行。右の子供は頼朝。by Wikipedia

いやほんと、河内源氏の政治センスはピカイチです。ダメな方で。

父を斬首して河内源氏を皮一枚で救った6代目棟梁・源義朝は、平治の乱信西(しんぜい)打倒の挙兵に参加しました。

が、これも失敗。

保元の乱は、平忠盛清盛(ただもり・きよもり)親子と味方でしたが、平治の乱では清盛と敵味方に分かれました。

義朝は地盤の東国へ向かう途中、尾張(おわり。愛知)で家人(家来みたいなもの)に裏切られ殺されています。

義朝の息子・源頼朝(よりとも)は伊豆へ島流し、義経(よしつね)は寺に入れられました。

これが、あれだけの勢力を誇った河内源氏の没落のおおまかなストーリーです。

しょうがない政治力のなさ。そもそも口を出せる立場にない

河内源氏の政治力のなさはしょうがないところがあります。それは八幡太郎をピークに朝廷の役職が下がっていったから。

八幡太郎は各地の国司を歴任し鎮守府将軍にまでなりました。武士としては頂点を極めたと言っていい。八幡太郎からあとの河内源氏の棟梁の役職はこんな感じです。

4代目棟梁
源義忠
(よしただ)
河内守(本拠地の長官)
帯刀長(皇太子の護衛)
検非違使(首都の警護)
5代目棟梁
源為義
(ためよし)
検非違使
6代目棟梁
源義朝
(よしとも)
左馬頭(馬の世話係)
下野守(栃木の長官)
播磨守(兵庫の長官)

30才になっても無位無官。京都では馬の世話係が指定席

6代目棟梁を義朝といっていますが、義朝は弟の源義賢(よしかた)よりも出世が遅く30才になっても無位無官でした。義朝は後継者から外されていたという話もあります。

(弟は皇太子(のちの近衛天皇)の帯刀長。義賢は木曽義仲(きそ よしなか)の父。)

だから保元の乱では父の敵方に行ったとも。

平安末期に源頼朝と木曽義仲はバチバチのバトルをしますが、父同士の因縁がある。

義仲からすると父が河内源氏の出世頭なので『河内源氏の本流はオレだ!』と思っていた。

頼朝からすると、『そんなの知らん!実力主義!今の立場が一番重要!』と思っていた。

保元の乱で武功を上げても馬の世話係の次官(右馬助)から長官(左馬頭)に出世しただけ。(兼下野守)

都では馬の世話係が定位置です。義賢は保元の乱の直前に義朝の長男に殺されたので、河内源氏は馬の世話係にまで立場が落ちていました。

(対象的にライバルの平氏は出世街道まっしぐら。)

やってらんね~。

河内源氏の系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

未来のためにグッジョブ。東国に新しい基盤を作る

中央政府ではなぜか逆を行く河内源氏ですが、東国では優秀さを発揮します。

源義朝は若いころ房総半島(千葉)で生活していたといわれ、関東の坂東平氏や河内源氏、その他の氏族と上手いことやっていくコミュニケーション能力がありました。

30すぎまで無位無官だったのでヒマで自由に動けたらしく、その間にどんどん関東に味方を増やしていき東国に拠点を作ります。それが相模国(さがみ。静岡)。そして館があったのが伊豆。

なにか思い当たりませんか?

そうです。息子・頼朝(よりとも)が島流しにあって捕虜生活していた場所が伊豆。

源氏を都から追い出した平清盛(たいら の きよもり)の温情だったのか分かりませんが、捕虜生活といっても父が作ったホームグラウンドで頼朝は過ごしました。

もちろんですけど、頼朝が打倒平家で挙兵したときに兵が集まったのは、父が築いた人脈のおかげ。

未来のためにグッジョブ2。中央政府とのパイプを作る

東国の小競り合いを収め地盤を作った源義朝(よしとも)は、都でも『アイツやるじゃん!』とウワサになっていました。

そこで義朝は中央政府でのカムバックを目指します。これまで摂関家と近いから上手くいかないのに気づいたのか、院政の本丸、鳥羽上皇に近づきました。

というか、相模国が上皇の知行国になったので、近づかざるを得なかったのですが。

知行国(ちぎょうこく)

上皇や貴族、寺社勢力がもっている知行を行使できる領地。

知行は領地支配権のこと。

知行を行使する人を知行国主(ちぎょうこくしゅ)という。

知行国主には、自分の知行国の国司の推薦ができた。(ほぼ任命権を持っていたに等しい。)

知行国主は、国司を通してあたかも自分の領地のようにできた。もちろん、領地からいくらか貢物を受け取る権利ももっていた。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

ようは『上皇さまの領地が平和で安全になるように、代わりに守りますよー』というおべっかですね?

このおべっかが効いたのか、都での働きが効いたのか、下野守に就任して無位無官を脱出。平治の乱のあと播磨守(はりま。兵庫)に転任しました。

(ただしさっきも言ったように、都での仕事は馬の世話係。)

義朝の播磨守への就任は河内源氏にとって悲願だった。

父は検非違使止まりで、ここ50年くらい河内源氏は国司のトップ・守を出せていない。

それくらい河内源氏の影響力は小さくなっていた。やっと河内源氏の棟梁らしい役職になった。

たしかにそれより前に下野守になっていたが、都から離れて田舎に行くほど国司の長官・守は左遷の意味もあり決していいものではない。

河内源氏の本拠地のとなりで地元に凱旋したのもうれしかっただろう。

少年・頼朝も出世

息子の頼朝にも中央政府の役職が与えられました。これ頼朝にとっては重要。

平家打倒の勢いに乗った頼朝は、剥奪された官位の取り消しを勝ち取ります。無位無官からもらうよりハードルは低い。

自分のためなら大クラッシュする義朝ですが、息子のためならナイスアシスト連発のいいお父ちゃん。

せっかく名誉回復したのに殺される

播磨守にまでなって河内源氏の面目をかろうじて回復した義朝は、平治の乱の大どんでん返しをくらってまた敗者についてしまいます。

平治の乱では藤原信頼(ふじわら のぶより)につきました。最初は信頼も勝者でしたが戦後処理で平清盛(たいら の きよもり)や後白河上皇の術中策謀にはまって斬首されます。

信頼は武蔵守(むさし。東京・神奈川・埼玉)をしていたので関東に地盤を作った義朝は無下にできなかったらしい。

(同じ関東を地盤にもつ信頼に義朝が相当助けられていたのが想像できる。)

義朝もおたずね者になってしまったので自分の拠点に逃亡することになりましたが、尾張(おわり。愛知)で信じていた家人(家来みたいなもの)に裏切られて殺されます。

頼朝の力の源泉は先祖の財産

鎌倉幕府を開く源頼朝は、平清盛や後白河上皇と戦闘あり頭脳戦の政治闘争ありでバチバチにバトります。頼朝にとっては平治の乱で負け組にされたことのリベンジでした。

平家には弟・源義経(よしつね)を使ってリベンジを果たしますが、後白河上皇は最後までしぶとく残りました。

かつて鎌倉の成立年とされた1192年は後白河上皇が亡くなった年です。寿命が短かった平安時代ではけっこう長生きの66才。

結果的にリベンジ相手がいなくなって頼朝は天下を取りました。中心になったのは父が作った関東武士の人脈です。

頼朝は父やその前の先祖たちが作った関東の地盤がなければこんなV字回復はできませんでした。

室町幕府だって力の根源は河内源氏が作った関東の地盤

鎌倉幕府のあとは室町幕府になりますが、室町幕府を開いた足利高氏(あしかが たかうじ)も河内源氏です。

足利氏の先祖は八幡太郎の息子・源義国(よしくに)。義国の拠点も関東にありました。(群馬・栃木)

(足利氏の名はそこの足利地方に由来。)

頼朝の父・義朝はずっと敵対関係にあった義国との和睦にも成功しています。その縁で鎌倉幕府内での足利氏は御家人の筆頭格でした。

義国は4代目棟梁・義忠を殺す叔父さんの新羅三郎と激しいバトルをして父・八幡太郎に謹慎を言い渡されていた。

新羅三郎は暗殺がバレたあと自分の地元・常陸国(ひたち。茨城)に逃亡したので、関東では犬猿の二人が隣り合わせにいてバトルが絶えない。

義朝との和睦も、敵の敵は味方みたいなややこしい身内争いから生まれた。

室町幕府は鎌倉幕府とまったく関係のない組織ではなく、会社で専務が社長になって本社を移転したようなもの。また江戸幕府の徳川氏も、かなりうさん臭いですが河内源氏の系統を名乗りその祖は義国。

日本の幕府という政治システムは、すべて河内源氏が作り上げた地盤で成り立っていました。

前の投稿
河内源氏ってなんだ?なぜ武士の源氏の中でメジャーになったのか?
鎌倉時代は孫請け会社がトップリーダーだった!なんでそーなるの?
次の投稿

コメントを残す