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大納言は国家運営の肝?
大納言は、日本の律令制が完成する前の産声を上げはじめた第40代 天武天皇の時代からあったとされます。
(飛鳥浄御原令が初出といわれる。)
天皇の命令(勅)を役人へ知らせて実行するようにし、また役人から天皇への報告(上奏)を大臣へつなげるのが仕事。
上奏(じょうそう)と勅(ちょく)・詔(みことのり)
上奏
政治の最高責任者から天皇に行なう報告。天皇への意見や相談。
勅・詔
天皇の命令。勅書(ちょくしょ)・詔書(しょうしょ)は命令書。詔勅(しょうちょく)ともいう。
勅と詔はケースバイケースで使い分けているが、ルールがよく分からないので同じものと思っていい。
1945年の玉音放送は、詔書。
天皇の命令を強調すると勅令(ちょくれい)、意見を強調すると勅語(ちょくご)という。
明治の教育勅語は天皇の意見。当時、天皇が国民に強制するものではない、勅令ではダメだということで勅語になった。
勅語は意見なので国民が絶対に聞かないといけないものではない。
この連絡網が正確じゃないときちんと国家運営ができないので大事です。
最初は定員4名からはじまりました。
もうひとつの大納言の大きな仕事は太政官符(だいじょうかんぷ)の発行です。今でいうと、内閣府から各省庁へ通達される正式な命令書のこと。
この仕事があるだけで大納言こそが太政官の中枢といっても過言じゃありません。大臣とちがって複数人いるし。
院政期に定員が倍増してそれが定着
平安時代に入ると貴族の数が増えたので定員を増やし、平安末期には摂関家と距離をおいた上皇の意向(院政)がはたらく人を送り込むために、定員10名に激増します。
この10人が定着したんですが、室町の南北朝時代には正式任官がストップし権官(ごんかん)、権大納言(ごんだいなごん)だけになってしまいました。
なんちゃって大納言の権大納言の権威が上がったのは、源頼朝(みなもと の よりとも)が原因じゃないだろうか?
頼朝は朝廷の官職を拒否しつづけ、やっと任官したのが権大納言。そこまでやりたくないんかいっ! と言いたくなるほど。
その後の有名な武士たちは頼朝にあやかったのか、権大納言になる人が多いです。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主要キャストが関係している。
はじめて最大10人の定員に増やしたのは後白河上皇(西田敏行)。
そして九条兼実(くじょうかねざね。田中直樹)のときにいったん6人に減ったが、後鳥羽上皇(尾上松也)の時代にはまた10人に戻った。
この動きは鎌倉幕府と上皇の院政の綱の引き合いが影響している。
後白河上皇は源頼朝(みなもと の よりとも。大泉洋)とバチバチだったし、後鳥羽上皇は北条義時(ほうじょう よしとき。小栗旬)とバチバチだった。
兼実は親・幕府の摂政・関白で反院政のところがあり、上皇寄りの大納言を入れる必要がなかった。
名目上は政権中枢の引き締めのためのリストラということらしいが。
- P1 太政官は今の内閣府
- P2 『大臣』の付く人は最大で同時にいるのはたった4人だけ
- P3 大納言は国家運営の肝?
- P4 大納言のリストラの代わりに追加された中納言
- P5 公卿までもう一歩。でも公卿の会議に参加できる参議