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大納言のリストラの代わりに追加された中納言
中納言は、日本の律令制度を作り、完成させ、施行までもっていった第41代 持統天皇が亡くなった直後の705年にはじめて登場します。
このころは大宝律令が完成した直後で、これから日本の政治を律令でやっていくぞ、とスタートアップ企業並みのエネルギーに溢れた時代でした。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
ただこのとき、天皇の言葉をきちんと伝え下からの報告をきちんとする人材がいなくて、定員すら満たせず定員を4人から2人に減らします。
どうやら無敵の女傑・持統上皇が亡くなって政情不安になり、信頼できる人が少なかったらしい。
そこで大納言をフォローするために用意されたのが中納言。定員3人からはじまりました。
大納言と中納言の仕事のちがいはあまりなく、中納言は太政官符を発行する権利がない程度。
それも平安時代に入ると、大納言に代わり太政官符を発行するようになるので、ちがいは位階の上下関係くらいです。
中納言は大宝律令で廃止されていた。
じつは中納言は705年以前に、大納言と同じタイミングで設置されていたといわれています。
(初出も同じ飛鳥浄御原令。)
でも、日本最初の律令の大宝律令では廃止されました。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
705年は大宝律令が施行してたった3年後で、廃止された直後にまた復活した形です。
しかし、廃止前と復活した中納言につながりはない、同じものではない(官職名が同じだけ)という説もあります。
なので705年からはじまったと最初に言いました。
大納言と同じタイミングで増員し、同じタイミングで事実上の廃止
平安時代に入ると、大納言と同じタイミングで貴族の急増に比例するように定員を増やし、後白河上皇の時代に最大の10人になりました。
そしてそれが定着します。
(大納言のときのように九条兼実が一旦整理して8人に減らしたのも同じ。)
また、正式任官をストップし権官の権中納言だけになったのも大納言と同じ室町の南北朝時代です。
どうやら南北朝時代は太政官の中枢の大納言・中納言の権威が有名無実化されたらしい。
朝廷が分裂し、じっさいの権力は守護大名など武士へ移って時が経っていて、朝廷そのものの権威が落ちていたからでしょう。
ちなみに、中納言は奈良時代には権中納言が出はじめ、すでに定員は有名無実化されていたとも言われます。
もともと大納言をフォローするためのものなので、そのへんはゆるかったのでしょう。
少納言は地位がぐっと下がる。太政官の一部局の長
大納言・中納言と来たら少納言にも触れないといけないでしょう。
少納言は大納言・中納言のすぐ下で、なにか関係があるように思いますが、まったくの無関係です。
大納言・中納言は公卿(くぎょう)で少納言はそうじゃないので、貴族のランクも雲泥の差。
また、太政官の中枢、政権の中枢でもなく、少納言は太政官の一部局にすぎません。仕事も全くちがいます。
もうすでに書いたので、くわしくはこちらをどうぞ。
- P1 太政官は今の内閣府
- P2 『大臣』の付く人は最大で同時にいるのはたった4人だけ
- P3 大納言は国家運営の肝?
- P4 大納言のリストラの代わりに追加された中納言
- P5 公卿までもう一歩。でも公卿の会議に参加できる参議