歴代天皇 - 鎌倉幕府が認めないとなれなかった天皇たち -
後堀河天皇(ごほりかわ)は、鎌倉幕府がはじめて天皇の即位に口出した天皇です。
本当なら天皇になるはずはなかったので異例づくしでした。一番びっくりしたのは後堀河天皇の父でしょう。
息子が天皇になったことで、日の目を見ない人生に一発逆転が起きました。
中世 鎌倉時代
- 皇居
平安宮
(へいあんのみや)
- 生没年
- 1212年2月18日 ~ 1234年8月6日
建暦2 ~ 天福2
23才
- 在位
- 1221年7月9日 ~ 1232年10月4日
承久3 ~ 貞永元
12年
- 名前
- 茂仁
(ゆたひと/とよひと)
- 別名
後堀河院
- 父
第80代 高倉天皇
(たかくら)
- 母
藤原陳子
(ふじわら ちんし)北白河院
持明院基家の娘
(じみょういん もといえ)
- 皇后
藤原有子
(ふじわら ゆうし)安喜門院
(あんきもんいん)三条公房の娘
(さんじょう きんふさ)
- 皇后
藤原長子
(ふじわら ちょうし)鷹司院
(たかつかさいん)近衛家実の娘
(このえ うえざね)
- 皇后
藤原竴子
(ふじわら そんし)藻壁門院
(そうへきもんいん)九条道家の娘
(くじょう みちいえ)
後鳥羽直系を排除したらとんでもないことに
鎌倉幕府は承久の乱のあと、3上皇(後鳥羽、土御門、順徳)を京都から永久追放し、仲恭天皇を退位させます。
太上天皇(だいじょうてんのう)
退位した天皇のこと。
上皇(じょうこう)
太上天皇の短縮した言い方。
太上法皇(だいじょうほうおう)
出家した上皇のこと。たんに法皇という。
院(いん)
上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。
くわしくは『太上天皇とは何か?』へ
でもここで問題が発生しました。
系図を見れば分かるように、承久の乱の処分は後鳥羽天皇の直系の排除でした。
これには載っていないところでも、後鳥羽系統の血筋の人は根こそぎ排除されています。
でもそれは大変なことでした。後鳥羽上皇の系統は40年近くもつづいてきた本流だったから。
これで次の天皇になる人がいなくなってしまいました。
そこで幕府は、後鳥羽上皇の兄ですでに寺に入って僧侶になっていた守貞親王(もりさだ)の息子・茂仁王(ゆたひとおう)を天皇にします。
後堀河天皇です。10才でした。
系図を見るとどれだけ無理をしているのか分かります。あまりにも人材がなくて、4代前までさかのぼって連れてきました。
家族で会社を経営をしていて、お祖父ちゃんの兄貴の子どもをいきなり連れてこられても困るでしょう。会ったこともないのに。
普通は乗っ取りだと思います。
後堀河天皇は民間人になるはずだった
後堀河天皇は、茂仁『王』で親王ですらなく、民間人といっていいほど皇族から離れていました。
天皇に即位する前、すでに寺に入って修行をはじめてたくらいです。
一応『王』だったので皇族でしたが、親王宣下を受けていないので、天皇の候補ではありませんでした。
親王宣下(しんのうせんげ)
天皇から『親王になりなさい』と宣下を受けること。宣下は天皇からの命令。
正式に天皇の皇位継承権をもつことを意味する。宣下を受けた人は、親王、内親王を名乗る。
男性が親王。女性が内親王。
天皇の子ども・孫など直系子孫が宣下を受けた。
天皇の子孫でも宣下を受けてない人は王になる。民間人になると王の称号もなくなる。
はじめて親王宣下をしたのは奈良時代の第47代 淳仁天皇。
親王宣下のないころ、飛鳥・奈良時代の皇族は、天皇の子どもが親王(内親王)、孫から王(女王)だった。
大宝律令の中で制度化したと思われる。
(正確な決まりはない。)
親王宣下は皇族の生まれた立ち位置で自然に決まっていた制度を指名制に変えた。
宮家(世襲親王家)は、本来なら王や民間人になるような人だったが、宣下を受けて親王を名乗った。
明治以降、皇室典範で親王宣下のルールは決められている。
天皇の孫までは親王(内親王)、それ以上血統が離れると王(女王)。
範囲が子から孫へ広がったのは、昔は天皇の子どもが多かったのと、奈良時代は皇族が政権の役職・官僚のトップを務める皇親政治で、そのランクにも使われたので、範囲が広すぎると権力闘争で安定しないから。
そもそも父の守貞親王が、自分から出家してすでに皇族からはなれています。
(持明院宮 行助入道 親王(じみょういんのみや ぎょうじょにゅうどう))
守貞親王は、源平合戦で安徳天皇・平家と一緒に都落ちしています。その間に弟が即位し、皇位の系統は弟・後鳥羽天皇に移ったので、皇位継承のラインから外れていました。
後鳥羽ラインで進んで、もう4代も続いたので自分はないだろうとあきらめて僧侶になっていました。
それなのに突然、自分の息子が天皇になります。おそらく守貞親王が一番ビックリしたのではないでしょうか?
ただの伝説だが、安徳天皇が入水自殺をしたとき、守貞親王が身代わりになって死んで、安徳天皇を逃がしたという話がある。
これは、茂仁王の母方のお祖母ちゃんが平清盛の弟の娘なので、
逃げた安徳天皇(守貞親王)の息子で平家の血筋の人間が後堀河天皇になった。
という願いが込められていると考えられる。
前代未聞の上皇になる
後堀河天皇は10才で後見人が必要でしたが、幕府が根こそぎ排除したので人材が不足していました。
そこで父の守貞親王が太上法皇(上皇)になって後見人になります(後高倉院(ごたかくらいん))。
でもこの上皇は前代未聞でした。天皇を経験していない人が上皇になったから。
鎌倉幕府は後先考えずにやったもんだから、もうやけくそだったのでしょうか? それぐらい無理しています。
正確には、守貞親王が上皇になってから後堀河天皇が即位した。
天皇としての仕事は戦後処理
後堀河天皇が即位してから2年後(1223年)に後高倉院が亡くなり、その翌年には、承久の乱を指揮した北条義時(ほうじょう よしとき)が亡くなりました。
そして即位してから3年後には、承久の乱の主要関係者はほとんどいなくなっています。その中で戦争の後片付けをしました。
義時の死後、息子で幕府軍の総大将・北条泰時(ほうじょう やすとき)が幕府の実権をにぎる。
1232年、御家人の権利・義務を成文化した『御成敗式目(貞永式目)』(ごせいばいしきもく・じょうえいしきもく)を公布
後堀河天皇のときの代表的な出来事です。これ以外の歴史的な功績はありません。しかも幕府が中心に進めたものでした。
もともと病弱だった後堀河天皇は、21才で息子の秀仁親王(みつひと。四条天皇)に譲位し、院政をはじめますが2年後に23才で亡くなります。
秀仁親王の母もその前の年に亡くなったので、『後鳥羽上皇の怨念』とウワサされました。
譲位(じょうい)
天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。
第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。
はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。
大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇。
持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。
(制度化されてから2/3が譲位)
なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。
それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。
譲位の理由はいろいろ。
次世代が育つ。 |
そのときの権力者の都合。 自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。 (権力闘争に利用される) |
病気。 |
仏教徒になりたい。 |
幕府に抗議するため。 |
天皇の意思。 |
理由なし。 あたりまえだと思っていた。 |