歴代天皇 - (律令)国家・日本を作った天皇たち -
女帝の第41代 持統天皇(じとう)の政治は皇親政治(こうしんせいじ)です。
政府の要職を天皇の息子たちで固めていました。困ったことに天皇の息子がいるわいるわ。
『天智よ、天武よ、絶倫もたいがいにせーや』と言いたくなるほど。
(持統天皇もその絶倫から生まれている。)
古代 飛鳥時代
- 皇居
飛鳥浄御原宮
(あすかのきよみはらのみや)藤原宮
(ふじわらのみや)
- 生没年
- 645年?月?日 ~ 702年12月22日
大化元 ~ 大宝2
58才
- 称制
- 686年9月9日 ~ 689年12月31日
朱鳥元 ~ 持統天皇3
4年
- 在位
- 690年1月1日 ~ 697年8月1日
持統天皇4 ~ 持統天皇11
8年
- 名前
- 鸕野讚良
(うののさらら)
- 別名
高天原広野姫尊
(たかあまのはら の ひろのひめ の みこと)大倭根子天之広野日女尊
(おおやまとねこあめのひろのひめ の みこと)
- 父
第38代 天智天皇
(てんじ)
- 母
蘇我遠智娘
(そが の おち の いらつめ)蘇我倉山田石川麻呂の娘
(そが の くらやまだ の いしかわまろ)
- 夫
- 第40代 天武天皇
(てんむ)
皇親政治とは?
皇親政治は天皇になるような人たちが政権中枢の要職につくシステムです。持統天皇の時代は、それだけ天皇の息子たちがたくさんいました。
(たくさんいすぎて密告・殺しがあるくらい。)
いまでいうと、内閣の閣僚や各省庁の事務次官を天皇の息子たちがやるようなもの。それをまとめるのが天皇というかたちです。
皇親政治は『皇室 = 政権(内閣)、各省庁の事務次官』
人事のやりなおし
皇親政治は夫で先代・天武天皇の政権からはじまり、持統天皇はそれを引き継ぎました。ただ思い通りに行きません。
政権ナンバー2の大津皇子(おおつ の みこ)を殺し、一番痛かったのはトップの草壁皇子(くさかべ の みこ)が若くして亡くなったこと。
(大津の裏切りを密告したのは中心メンバーの川島皇子(かわしま の みこ)。)
持統政権は始まって3年で天武政権からのトップとナンバー2を失いました。最悪なことに皇太子も。
(皇親政治のトップは皇太子が通例で草壁だった。)
ニューリーダー・高市皇子
持統天皇は、過去に大友皇子(おおとも の みこ。弘文天皇)しかなってなかった太政大臣に高市皇子(たけち の みこ)を置いて再出発します。
高市は天武天皇の長男(草壁の兄)ですが、母の身分が低いのでナンバー3に甘んじていました。
でも政治家としては優秀だったようです。壬申の乱にも参加したので持統天皇も信頼していたでしょう。
壬申の乱(じんしんのらん)
天智天皇の弟・大海人皇子(おおあま の みこ)と息子・大友皇子(おおとも の みこ)のだれが天皇になるのかの争い。
古代最大の内乱。
両軍ともに皇位継承権のある皇族が大将になり指揮した戦で国を2分した。日本の歴史上、ここまで国を分けた戦いはない。
大海人皇子は皇太弟、大友皇子は太政大臣だった。
天智天皇は大海人皇子を指名したが、皇子が断って吉野(和歌山)に引っ込んだことが原因。
672年(天武元)7月24日、大海人皇子は、大友皇子に反乱の罪をきせられると思い、先手を打って挙兵、勝利して第40代 天武天皇になる。
どっちが裏切ったのか、正義があるのかは意見が分かれる。
古代の資料は日本書紀・古事記からだが、天武天皇が号令をかけて作られたので、大海人皇子に都合の悪いものは書けなかったともいわれる。
(ここに書いた内容も日本書紀から。)
大友皇子は、歴代天皇に入ってなかったが、明治3年、明治天皇が『弘文天皇』という諡をおくって歴代天皇に加わった。
いまは、どっちがよかった、悪かったという評価ができるほど事実が分かっていない。
そのほかのメンバーをかんたんに紹介します。
(表は皇子ランク順。)
先代・天武政権からの古参メンバー
磯城皇子 (しき の みこ) | 天武政権で浄広壱(皇子ランク12中6位)。 次の第41代 文武天皇のとき大宝律令の位階をもら ってない。 すでに亡くなっていたと言われる。 実績ゼロ。 なんで母が同じ忍壁よりもランクが高いのか? 忍壁のほうが実績はあるのに。 |
新田部皇子 (にいたべ の みこ) | 藤原氏の血筋をもった最初の皇子。 天武政権で浄広弐(皇子ランク12中8位)。 古参のわりに天武・持統政権では目立たないナゾ の男。 大宝律令への移行で三品(皇子ランク30中5, 6位) に出世。 活躍するのは第44代 元正天皇からで、皇太子(の ちの聖武天皇)の補佐を務めた。 聖武天皇のとき一品(皇子ランク30中1, 2位)にま で出世。 藤原不比等の出世とリンクしている。 藤原氏をバックに成り上がった遅咲きか? |
忍壁皇子 (おさかべ の みこ) | 天武政権で浄大参(皇子ランク12中9位)。 持統政権では目立った動きがなく、干されていた とも言われる。 文武天皇のとき大宝律令の選定作業を担当。 大宝律令への移行で三品(皇子ランク30中5, 6位) に出世。 皇子ランクが上の舎人、長、穂積がいたのに知太 政官事になる。 (母の身分の低さで弟たちに抜かれていた。) このときすでに高市皇子は亡くなっていて最年長 者。 年功序列でトップに? |
川島皇子 (かわしま の みこ) | 天武政権で忍壁と同時に浄大参(皇子ランク12中 9位)になる。 (草壁、大津、高市につぐナンバー4) 『帝紀』の復元作業の編集長。 (結局、帝紀は復元せず『日本書紀』の基本資料 になったと言われる。) 天武の息子でないからかこれ以上の出世はない。 持統政権のときに亡くなった。 (691年(持統5)) 大津の謀反の密告をした。 |
施基皇子 (しき の みこ) | 川島の弟で、吉野の誓いに参加したにもかかわら ず、ひとりだけ位をもらっていない。 文化人として生きた。 大宝律令への移行で四品(皇子ランク30中6, 7位) へ出世。 おまけか? 息子・白壁王(しらかべ の おおきみ)が第49代 光仁天皇になる。 その血統がいまでもつづく。 |
知太政官事(ちだいじょうかんじ)
第42代 文武天皇から第45代 聖武天皇の間に置かれた令外官。
律令政治の太政官を監督するマネージャー職。
(左大臣よりも上。)
有力な皇族が務めた。
だれが? | 就任時期 |
---|---|
忍壁皇子 (おさかべ の みこ) 天武天皇の子。 | 703年(大宝3)~ 705年(大宝5)。 第42代 文武天皇 |
穂積皇子 (ほずみ の みこ) 天武天皇の子。 | 705年(大宝5)~ 715年(和銅8)。 第42代 文武天皇 第43代 元明天皇 |
舎人皇子 (とねり の みこ) 天武天皇の子。 | 720年(養老4)~ 735年(天平7)。 第44代 元正天皇 第45代 聖武天皇 |
鈴鹿王 (すずか の おおきみ) 高市皇子の次男。 天武天皇の孫。 | 737年(天平9)~ 745年(天平17)。 第45代 聖武天皇 |
このときすでに太政大臣があったが、前例の大友皇子(おおとも の みこ)、高市皇子(たけち の みこ)のように、皇太子に匹敵する人でないとなれなかった。
太政大臣を置くと皇太子と並び立つので、皇位継承争いを避けるため知太政官事を置いたとも言われる。
じっさい、知太政官事がいたときの太政大臣は不在。
(その後、太政大臣は皇族でなくてもなれるようになる。)
結局、歴代知太政官事は第40代 天武天皇の子が務めた。
(最後の鈴鹿王だけ孫。)
本格的な律令政治を始めた天武天皇の威光があるうちだけの役職だったとも言える。
(天武天皇は皇親政治を始めた人でもある。)
古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)
第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。
それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。
天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。
そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。
帝紀と旧辞
帝紀 (ていき) | 天皇の系譜、功績をまとめたもの。 |
旧辞 (きゅうじ) | 各氏族の系譜をまとめたもの。 氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。 日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。 |
帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。
当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。
帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。
古事記(こじき。ふことふみ)
帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。
712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。
20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。
(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)
日本書紀(にほんしょき)
完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。
中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。
天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。
古事記 | 倭語を漢字にあてた。 『夜露死苦』(よろしく)みたいに。 国内向け。 国家統一に利用するためか? |
日本書紀 | 漢字で書かれた。 (中国人でも読める。) 国外向け。 世界に日本をアピールするために利用か? |
吉野の誓い(盟約)
679年(天武8年)、吉野(奈良)へ旅行に行ったときに皇族同士の争いをしない誓いを参加メンバーで行なった。
天武天皇 | |
鸕野讃良皇后 (うの の さらら) | のちの持統天皇。 天智天皇の次女。 天武天皇の皇后。 |
草壁皇子 (くさかべ の みこ) | 天武天皇の次男。 母は持統天皇。 |
大津皇子 (おおつ の みこ) | 天武天皇の3男。 母は大田皇女。 (天智天皇の長女) (天武天皇の正妻) (天武天皇の即位前に亡くなったので 皇后になれなかった。) |
高市皇子 (たけち の みこ) | 天武天皇の長男。 母の身分は低い。 (嬪(ひん)。妻ランク一番下。) |
忍壁皇子 (おさかべ の みこ) | 天武天皇の4男。 母の身分は低い。 (宮廷の女官) |
川島皇子 (かわしま の みこ) | 天智天皇の次男。 弘文天皇の弟。 母の身分は低い。 (宮廷の女官) |
施基皇子 (しき の みこ) | 天智天皇の7男。 弘文天皇の弟。 母は妃ではない。 (夫人。愛人みたいなもの。妻ランク 下から2番目。) 皇子の子孫がいまの天皇まで続く。 |
このメンバーが天武政権の中心になっていく。皇親政治(こうしんせいじ)ともいう。
持統政権からの新メンバー
舎人皇子 (とねり の みこ) | 持統政権でそこまで高い位ではない。 (皇子ランク12中8位。浄広弐) 次の第41代 文武天皇のとき、大宝律令への 移行で二品(皇子ランク30中3, 4位)に出世 。 第44代 元正天皇のとき知太政官事になりト ップに上りつめる。 『日本書紀』の編集長。 |
葛野王 (かどの の おおきみ) | 壬申の乱の敵の大将・大友皇子の長男。 軽皇子(かる の みこ。文武天皇)の皇太子 就任で発言力があったエピソードをもつ。 皇子ランクは12中11位(浄大肆)と低い。 敵の息子なので当然か? 文武天皇のとき皇子ランク12中8位(浄広弐 )に出世。 大宝律令への移行で正四位上(30中7位)に 出世。 正四位上は四品(皇子ランク30中6, 7位)相 当だったが王なので親王の下に置かれ区別さ れた。(親王じゃないと◯品のランクに入れ ない。) 最後まで敵の息子は払拭できなかったが、治 部卿、式部卿まで務めたので優秀だったのは たしか。 |
長皇子 (なが の みこ) | 持統政権ではそこまで高い位ではない。 (皇子ランク12中8位。浄広弐) 大宝律令への移行で二品(皇子ランク30中3, 4位)に出世。 天武天皇の息子で天智天皇の孫という血筋の 良さのわりには活躍していない。 |
弓削皇子 (ゆげ の みこ) | 持統政権ではそこまで高い位ではない。 (皇子ランク12中8位。浄広弐) 兄・長皇子と同時に浄広弐に任命された。 長皇子と同じく目立った活躍はしていない。 |
穂積皇子 (ほずみ の みこ) | 持統政権で(皇子ランク12中8位。浄広弐) 。 天武・持統政権ではこれ以外の情報がないナ ゾの男。 干されていたとも。 (もしや古参メンバーか?) 大宝律令への移行で三品(皇子ランク30中5, 6位)に出世。 忍壁が亡くなると知太政官事になる。 |
治部省(じぶしょう)
律令制の8つの役所のひとつ。
トップは治部卿(じぶきょう。事務次官)。
いまの外務省みたいなもの。そのほか、
戸籍管理
姓氏の訴訟
仏教の監督
雅楽の監督
天皇の墓の管理
があった。なんでも屋?
式部省(しきぶしょう)
律令制の8つの役所のひとつ。
トップは式部卿(しきぶきょう。事務次官)。
いまの人事院、文部省みたいなもの。
位階や官職を決めたり官僚養成機関を管理したので2番目に重要な省だった。
(律令制は役職の序列(官僚組織)が核。)
人材不足の持統政権
あれだけ皇子たちがいるのに、持統政権ではランクの高い皇子がいません。草壁が亡くなったのは不幸として大津を殺したのは自業自得でしょう。
高市も696年(持統10年)に亡くなります。(42才?)
このとき皇太子はいませんでした。持統天皇にかかるプレッシャーは尋常じゃありません。
唯一の救いは、高市がいるうちに国のかたちがある程度見えていたくらいでしょうか?
ただ持統天皇自身も夫・天武天皇の優秀な右腕です。吉野の誓いにも参加していたし、天武政権では古参メンバーのリーダー的な存在でした。
不安だったでしょうが、残った皇子たちでも十分イケると思っていたのかも。持統天皇は最後の仕事にとりかかります。
孫を皇太子にする
高市が亡くなって半年後、持統天皇は残った皇子たちやまわりの豪族たちに、次の皇太子をだれにするか話し合いをさせます。
そのとき目立ったのが葛野王(かどの の おおきみ)。皇子たちの中でひとりだけ王で親王じゃありません。
(王は皇族だが親王より下。天皇になれないことを意味する。)
天武天皇が倒した大友皇子(おおとも の みこ)の長男で、壬申の乱で負けてなければ天皇になっていたほどの人です。
父が負けて死んでしまったため、ひとりだけ負け組の皇子として残っていました。
居心地は最悪だったでしょうね?
『オレだ、オレだ』の応酬
話し合いをさせたのはいいですが議論は紛糾しました。それぞれの皇子が『次はオレだ!』とばかりに好き勝手言っていたからです。
ここで皇子たちの立場を見てみましょう。ボク個人の見立てでランクをつけました。
皇子 | 天皇との関係 | 立場 |
---|---|---|
舎人 長 弓削 | 天智天皇の孫。 天武天皇の息子。 持統天皇の甥っ子。 | 血統が一番いい。 持統天皇との距離も近い。 『次はオレだ!』と言って反論される理由はない 。 |
新田部 穂積 | 天武天皇の息子。 母は有力豪族。 持統天皇の義理の息子。 | 本人はそれほど強く言えないが、バックにいる豪 族の意見を言わないといけない立場。 弱く出ると後ろ盾を失ってしまう。 |
川島 | 天智天皇の息子。 天武天皇の甥っ子。 持統天皇の弟。 | 血統はトップクラス。 『オレだ!』と言って反論される理由はない。 なにより姉が現役の天皇。 ただ天智系なので、ライン変更にムリがあるか? (持統天皇は天智の娘だが天武系で継承。) |
忍壁 | 天武天皇の息子。 持統天皇の義理の息子。 母の身分が低い。 | 残ってる皇子の最年長者。 政治経験もあるし申し分ない。 ただ、母の身分の低さが目立つ。 本人の能力を全面に出せばイケるか? 高市も同じ立場で太政大臣までなったし。 |
施基 磯城 | 本人のやる気がいまいち。 多数派工作でどこになびいてもおかしくない。 知らん顔してたかも。 |
そりゃ紛糾するわ。(だめだこりゃ。)
ここで葛野王が言います。
はっきりだれとは言いませんが、皇太子だった草壁皇子(くさかべ の みこ)の息子・軽皇子(かる の みこ。のちの文武天皇)のことを言っています。
軽皇子は天武・持統天皇の孫で、持統天皇の妹の息子。
天武系であり天智系でもあるので継承ラインの変更は起きない。
むしろ両系統をもっているのでまわりが納得しやすい。
最高ランクの皇子に『喝!』
葛野王の一言でまとまりかけてましたが、それに弓削皇子が言い返そうとしました。すると葛野王は『だまれ!小僧!』ばりに一喝したといいます。
あまりの迫力に弓削は黙り込んでしまいました。
持統天皇は内心、軽皇子に決めていたのか、この結果に大喜びしたそうです。
葛野王はひとり賊軍の生き残りで自分の都合を言えませんでした。それだけに一番まともな答えを言えた唯一の人だったのかもしれません。
弓削皇子は兄・長皇子を推そうとしたらしい。この兄弟は実績がないので葛野王はそれに腹が立ったのかも。
『お前が言うな』って感じ。
血筋だけはピカイチだったのでよけいに。
葛野王の矛盾
葛野王の言ってることはまちがいです。それまで兄弟での皇位継承はいくらでもあるし、それが骨肉の殺し合いの原因かは分かりません。
(それなりに原因になっていたとは思うが。)
賊軍でなんでそんなに発言力があったんだろう?
などなど言われているようですが、賊軍の立場上、強引なことは言えなかったというのが本当のところだと思います。
『持統天皇の考えを知っていた』に近い。