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第78代 二条天皇。狡猾な父に当たって砕ける。まっすぐで一本気な男。

二条天皇肖像画

歴代天皇 - 内外の権力闘争に明け暮れた天皇たち(院政) -

二条天皇(にじょう)は、怪物・妖怪の後白河天皇の息子です。父とは真逆の性格で一本気のある男でした。

水と油のこの親子は、世間に知れ渡るほど仲が悪く、強大な父に真正面から立ち向かって見事な負けっぷりを見せてしまいます。

戦争に勝って権力闘争に負けた、なんとも言えない天皇。

中世 平安時代 - 末期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあんのみや)
  • 生没年
  • 1143年6月17日 ~ 1165年7月28日
    康治2 ~ 永万元
    23才
  • 在位
  • 1158年8月11日 ~ 1165年6月25日
    保元3 ~ 永万元
    8年
  • 名前
  • 守仁
    (もりひと)
  • 藤原懿子
    (ふじわら いし)

    藤原経実の娘
    (ふじわら つねざね)

天皇になるはずはなかった

父・雅仁親王(まさひと。後白河天皇)は、早々と干されて皇位継承から外されていました。

雅仁親王の第1皇子・守仁親王(もりひと。二条天皇)は、9才で仁和寺(にんなじ)に入れられます。普通ならこのまま、お坊さんの人生を過ごすはずでした。

仁和寺は、第59代 宇多天皇が出家して法皇になり初代住職になった由緒ある寺。代々、皇族の人が住職になる。

皇族が仁和寺に入ることは、天皇になる可能性が消えるどころか皇族からはなれ、お坊さんになるのを意味する。

もちろん、当人の子孫も皇族という特別な身分を失う。

『あなたは民間人。あなたの子孫も民間人』と言われて、皇族からリストラされるようなもの。

しかし、父が思いがけず天皇になったので、守仁親王も皇室に戻って皇太子になります。

生まれてすぐ、お祖父ちゃん・鳥羽法皇のお気に入りの妃だった美福門院(びふくもん いん)の養子になって育てられたので戻れたのかもしれません。

寵妃(ちょうひ)

もっとも愛された妃。夫にとても大事にされた妃のこと。

父よりも本命視されて即位

皇太子になってから4年後に即位します。16才でした。

お祖父ちゃんの鳥羽法皇は、美福門院の養子になっていた守仁親王を天皇にするのを一番望んでいました。それにつなぐため父の雅仁親王(後白河天皇)を即位させたほど。

二条天皇が即位したとき鳥羽法皇はすでに亡くなっていましたが、後白河天皇は無視できたはずなのに約束を守ります。

ただ後白河天皇にとっても、上皇になって院政を始めるメリットがあったのであえて従ったともいえる。

六条天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

二条天皇はなぜ父親の後白河上皇を嫌ったのか?

二条天皇が即位しても後白河上皇院政をはじめたので、二条天皇の側近たちの不満がたまっていきます。

公家 image
鳥羽法皇の考えは二条天皇の親政だったはずだ!

といって、後白河上皇の院政を堂々と批判しはじめました。

二条天皇は一本気な性格で、奔放な性格の後白河上皇とは真逆でした。

後白河上皇は京の都の伝統的な貴族文化よりも、庶民の文化・文芸に興味をもって、庶民文化・文芸の振興を奨励しています。

二条天皇からすると伝統の破壊者に見えたのかもしれません。

また二条天皇は、後白河上皇のことを『能もなく芸もなし』と最低の評価をしていた鳥羽法皇のもとで幼いころ過ごしています。父を同じように見ていても不思議ではありません。

このように、後白河上皇と二条天皇はことごとく対立します。

(どちらかといえば、二条天皇派の貴族が過激。)

親子の仲の悪さは世間に知れ渡っていた

この親子の仲の悪さは当時でも、すでに知れ渡っていたようです。

藤原氏・九条家の始祖で摂政関白をつとめた九条兼実(くじょう かねざね)は、日記『玉葉』(ぎょくよう)のなかで

天皇は賢主であるが、親に孝行するところが欠けている。

と書いています。

戦に勝ったのに権力闘争に負ける

二条天皇の即位の翌年には『平治の乱』が勃発します。二条天皇派は戦で後白河天皇派に勝ちました。

でもそのあとの政治闘争で、あっという間に後白河上皇に権力が集中しました。

即位2年目に後白河上皇の院政下に置かれ、天皇親政の夢はなくなります。また平治の乱では、天皇なのに、藤原信頼(ふじわら のぶより)、源義朝(みなもとの よしとも)によって大内裏に幽閉されました。

六波羅への脱出劇も経験します。『平時物語絵巻』(へいじものがたりえまき)では、天皇はこのとき女装して牛車に乗って逃げたといいます。

後白河上皇らしからぬ弱さ?が出るほどの親子対立

1164年、後白河上皇は念願だった千手観音を千体安置する堂を建立します。落慶(らっけい)の供養を行いましたが二条天皇は無視しました。

落慶(らっけい)

寺社新築の落成式のようなもの。

後白河上皇は二条天皇が参加するのを望んでいたらしく、

後白河天皇 image
なにが憎いの?なんの恨みがあるの?

と悲しさのあまり涙を浮かべていたそうです。

あの怪物、妖怪、人は平気で裏切るような後白河上皇の意外な一面です。後白河上皇もひとりの父親だったのでしょう。

翌年の1165年には、二条天皇は病で皇位を息子(六条天皇)に譲り同じ年に亡くなります。23才でした。

(父・後白河上皇よりも先に亡くなった。)

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天皇・皇室の本

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『天皇について基本的なことを知りたい』『過去の天皇の人物像を知りたい』という人におすすめの本を選びました。

内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

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