歴代天皇 - 内外の権力闘争に明け暮れた天皇たち(院政) -
崇徳天皇(すとく)は、出生にただならぬスキャンダルがあり、生まれたときから父・鳥羽上皇に嫌われ、すべてを奪われる悲運の天皇です。
弟の後白河天皇と戦争をして負けて島流しされてしまい、最後は大魔王になって祟ります。
日本三大怨霊になっているところに、この人の人生が詰まってる。
中世 平安時代 - 末期 -
- 皇居
平安宮
(へいあんのみや)
- 生没年
- 1119年5月29日 ~ 1164年8月26日
元永2 ~ 長寛2
46才
- 在位
- 1123年2月28日 ~ 1142年12月7日
保安4 ~ 永治元
19年
- 名前
- 顕仁
(あきひと)
- 別名
讃岐院
(さぬきいん)
- 父
第74代 鳥羽天皇
(とば)
- 母
藤原璋子
(ふじわら しょうし)待賢門院
(たいけんもんいん)藤原公実の娘
(ふじわら きんざね)
- 皇后
藤原聖子
(ふじわら せいし)高嘉門院
(こうかもんいん)藤原忠通の娘
(ふじわら ただみち)
生まれたときから人生が決まっていたかもしれない
崇徳天皇は出生の事情から波乱です。
父は先代・鳥羽天皇ですが、じつは、ひい爺さんのはずの白河法皇がほんとうの父親だというのです。
これは公然の秘密でした。
太上天皇(だいじょうてんのう)
退位した天皇のこと。
上皇(じょうこう)
太上天皇の短縮した言い方。
太上法皇(だいじょうほうおう)
出家した上皇のこと。たんに法皇という。
院(いん)
上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。
くわしくは『太上天皇とは何か?』へ
鳥羽天皇もそう思っていて、いつも崇徳天皇に冷たく当たります。
また鳥羽天皇は、白河法皇から無理やり退位させられて次に即位したのが崇徳天皇だったので、崇徳天皇が鳥羽天皇の地位を奪ったことになりました。
崇徳天皇は5才で即位。白河法皇が生きているうちはよかったのですが、法皇が亡くなってからは一変します。
鳥羽上皇の復讐劇がはじまる
後ろ盾を失った崇徳天皇と鳥羽上皇は、10年くらいはお互いそれなりに平穏にすごしていました。しかし、上皇は反撃の狼煙を上げます。
まず、お気に入りの皇后・美福門院 得子(とくし)が生んだばかりの息子を崇徳天皇の皇太弟にします。のちの近衛天皇ですが、このときわずか生後3か月。
これで崇徳天皇の後継者を封じました。そして崇徳天皇に退位を迫ります。鳥羽上皇がお気に入りの美福門院が生んだ皇子を天皇にするため。
崇徳天皇は23才で退位して、親子ほど年がはなれた幼い弟に天皇を譲位し上皇になりました。近衛天皇は3才で即位します。
これで崇徳上皇の立場はなくなりました。近衛天皇の後見人は父・鳥羽上皇で、もちろん、院政の主人公は鳥羽上皇です。
崇徳上皇の出番はありません。崇徳上皇は政治の実権を奪い返されました。
皇太弟(こうたいてい)
天皇の弟が次の天皇に指名されたときに使う。
皇太子は、天皇の子供が指名されたときに使うので、弟の場合は使えない。
譲位(じょうい)
天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。
第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。
はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。
大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇。
持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。
(制度化されてから2/3が譲位)
なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。
それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。
譲位の理由はいろいろ。
次世代が育つ。 |
そのときの権力者の都合。 自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。 (権力闘争に利用される) |
病気。 |
仏教徒になりたい。 |
幕府に抗議するため。 |
天皇の意思。 |
理由なし。 あたりまえだと思っていた。 |
崇徳天皇には皇子がひとりいる。重仁親王(しげひと)。近衛天皇から1才4か月おくれて生まれた。
崇徳天皇が即位したときまだ生まれていない。運がないですね?
それを待たない鳥羽上皇もスゴイが。
崇徳上皇に復活のチャンスが訪れる
このまま鳥羽上皇 - 近衛天皇政権がつづけば、おそらく平穏無事にすすんでいたでしょう。崇徳上皇の出番は永遠になかったかもしれません。
しかし崇徳上皇に復活の兆しが見えてきます。近衛天皇が17才で亡くなり、しかも近衛天皇には子供がいませんでした。
このとき崇徳上皇は37才で引退するには若すぎます。まだまだやる気を失っていませんでした。自分が再び重祚して天皇に返り咲くか、自分の息子を天皇にしようとします。
しかし、鳥羽法皇(近衛天皇が即位した年に出家)が許しませんでした。
重祚(ちょうそ)
一度退位した天皇が再び天皇になること。二度目のときの名前は新しくつけられる。
男性天皇は1人も重祚していない。女帝だけ。
復活の芽を完全に潰された
近衛天皇の死について、近衛天皇の母・美福門院が、
と言いはじめました。
それもあったのか鳥羽法皇は、崇徳上皇と母が同じで8才年下の弟・雅仁親王(まさひと)を天皇にして、雅仁親王の息子を皇太子にします。
嫌いな崇徳上皇とお気に入りの美福門院のどっちの意見を聞くか? になると、当然そうなるでしょう。
それでも崇徳上皇は決してムリなことを望んでいません。かんたんにまとめました。
雅仁親王のポジション |
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12才下の弟・近衛天皇に皇位が移った時点で、 すでに後継ラインから外れていた。 |
皇太子の経験がない。 |
息子は寺に入れられていた。 (雅仁ラインはないと言ってるようなもの) |
崇徳上皇のポジション |
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37才でまだまだ若い。 |
皇位継承ラインから外れたことがない。 |
息子・重仁親王もいる。 |
ね? これを見ると崇徳上皇にアドバンテージがあります。
じつは、継承ラインから外れて民間人にした人を戻すことはありえません。あるとしたら天皇のなり手がいないときです。
このときは、まだ若い崇徳上皇がいます。息子の重仁親王もいます。雅仁親王を皇位につけるほうがむしろ、鳥羽上皇がむりやりねじ込んだ印象すらあります。
後鳥羽上皇の強引なライン変更
結局、鳥羽上皇の強引なねじ込みで雅仁親王が即位しました。このとき後白河天皇は29才。
これで崇徳上皇の復活の芽は完全になくなりました。
崇徳上皇にとって後白河天皇が即位したことよりも、後白河天皇の息子を皇太子にしたことが決定的でした。皇位継承のラインが崇徳から後白河に移ってしまったからです。
鳥羽法皇の目的は強引なライン変更にありました。崇徳上皇はこれに強引な手で大逆転を狙います。
クーデターを計画し挙兵
崇徳上皇は強引な手でひっくり返そうとクーデターを計画します。
鳥羽法皇が亡くなった翌日、平忠正(たいらの ただまさ)や源為義(みなもとの ためよし)ら武士を率いて挙兵しました。
忠正は平清盛の叔父さん、為義は、頼朝・義経兄弟、木曽義仲のお祖父ちゃんです。これが保元の乱。
保元の乱が本当の『天下分け目』
保元の乱は、日本の政治勢力のすべてが二分された戦いです。
皇族は崇徳上皇と後白河天皇に分かれ、これに藤原氏の摂関家の内紛が加わり、それぞれ上皇派と天皇派に分かれました。
また、存在が大きくなりつつあった武士がそれぞれ分かれます。
よく『天下分け目の関ケ原』といいますが、関ケ原は武士同士の争いで、貴族、天皇は関係ありません。保元の乱がほんとうの天下分け目でしょう。
武士の分かれ方が面白い
このときの武士の分かれ方が面白いです。同じ一族はひとつにならずに、それぞれ上皇派、天皇派に分かれます。どちらにも平氏や源氏がいました。
しかも、親、兄弟、いとこなど、家族・親戚がそれぞれ分かれました。こういう複雑なところが、保元の乱があまり知られない原因なのかなと思います。
本当は、関ケ原よりも保元の乱の方がスケールの大きい対立なんですが。
ちなみに、この戦に平清盛(たいらの きよもり)と源頼朝(みなもとの よりとも)の父・源義朝(みなもとの よしとも)も参戦しています。
どちらも後白河天皇派でした。あとあと源平合戦で対立するんですが、このときは仲間だったんですね?
クーデターはあえなく失敗
鳥羽法皇はこの大乱を予想してたようです。自分の御所の警護をしていた源氏・平氏などの有力武士に、自分が亡くなった後は後白河天皇を助けるように命じていました。
クーデターはあえなく失敗。まちかまえていた後白河天皇派の武士から逆に奇襲攻撃を受けてあえなく後退します。
崇徳上皇は讃岐(香川)へ配流されました。そのため、崇徳上皇は讃岐院(さぬきいん)と呼ばれます。
強大な怨念をもった大魔王になる
京をはなれた讃岐院は、戦死者の供養と反省をするために仏教に帰依して熱心に写経をはじめます。そして、この写経を寺に収めてほしいと朝廷に差し出しました。
後白河天皇は、
と疑って写経を突き返します。怒り狂った讃岐院はその写経に、
と、自分で舌を噛み切った血で書いて海に捨てました。
それ以来、讃岐院は爪や髪を伸ばしつづけ悪魔のような姿に変貌します。そして46才で亡くなりました。火葬の煙は都に向かってなびいたと言います。
その後、平治の乱など京都では不幸なことがつづきました。人々はそれを讃岐院の祟りだとウワサします。
江戸時代後期に書かれた、『雨月物語』(うげつものがたり)の「白峯」(しらみね)には、讃岐院が朝廷に呪いの言葉をはく様子が書かれています。江戸時代後期になっても語られるほどインパクトがあった事件なのでしょう。
崇徳上皇は日本三大怨霊のひとりで、日本最大級の怨霊になったことで有名です。
最大級の怨霊にビビった人たちは、『讃岐院』から『崇徳院』へ呼び方を変えました。
島流し先の讃岐を名前からとって鎮めようとしたんですね?
崇徳上皇を里帰りさせたのは明治天皇
明治天皇は即位したとき、使者を讃岐に送り崇徳上皇の霊を京都に連れて帰らせ、白峯神宮を創建してそこに祀りました。
明治天皇も『雨月物語』を読んだのかもしれません。自分の手で崇徳上皇の怒りを鎮めたいという思いに駆られたのでしょう。
こういうことを聞くと、大昔の話で日本昔話のようなエピソードでも、ぐっと現実の世界のような感覚になります。
歴史のつながりってスゴイなぁと思います。
崇徳上皇は芸術の才能があった
崇徳上皇の詠った歌は百人一首に選ばれています。
瀬をはやみ 岩にせかるるたき川の われてもすゑに あはんとぞおもう
百人一首
(川の流れが早いので、岩にせき止められた急流が、ふたつに分かれてもまたひとつになるように、私たちもきっと結ばれるでしょう)
という恋歌です。大魔王とは正反対のやさしい歌ですね?
父や弟に排除されなければ、もっと別の人生があったかもしれません。父の鳥羽法皇もそうですが、結局、白河法皇に翻弄された人生でした。