歴代天皇 - 内外の権力闘争に明け暮れた天皇たち(院政) -
高倉天皇(たかくら)は後白河法皇と平清盛の後ろ盾で即位しました。
当時最強の布陣だったでしょう。しかし、最強の2人が対立したため、どうしていいか分からず苦悩の日々を過ごすことになります。
早死したのはメンタルが絶えられなかったんじゃないかと思うほど。
中世 平安時代 - 末期 -
- 皇居
平安宮
(へいあんのみや)
- 生没年
- 1161年9月3日 ~ 1181年1月14日
永暦2 ~ 治承5
21才
- 在位
- 1168年2月19日 ~ 1180年2月21日
仁安3 ~ 治承4
13年
- 名前
- 憲仁
(のりひと)
- 父
第77代 後白河天皇
(ごしらかわ)
- 母
平滋子
(たいら の しげこ)建春門院
(けんしゅんもんいん)平時信の娘
(たいら の ときのぶ)平清盛の妻の妹
(たいら の きよもり)
- 皇后
平徳子
(たいら の とくこ)建礼門院
(けんれいもんいん)平清盛の娘
(たいら の きよもり)
- 皇妃
藤原殖子
(ふじわら しょくし)七条院
(しちじょういん)藤原信隆の娘
(ふじわら のぶたか)
- 妻
その他
最強の後ろ盾で即位するが…
後白河法皇の第7皇子・憲仁親王(のりひと。のちの高倉天皇)の即位は、父の後白河法皇と平清盛の強力な後押しがありました。
太上天皇(だいじょうてんのう)
退位した天皇のこと。
上皇(じょうこう)
太上天皇の短縮した言い方。
太上法皇(だいじょうほうおう)
出家した上皇のこと。たんに法皇という。
院(いん)
上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。
くわしくは『太上天皇とは何か?』へ
先代の六条天皇の親政をめざす二条天皇派を抑える必要があったため、早めに六条天皇を退位させます。このとき六条天皇は5才、即位した高倉天皇は8才でした。
平清盛の妻は高倉天皇の叔母さんです。清盛は高倉天皇の岳父(がくふ)といっていい存在になりました。
岳父(がくふ)
義理の父
1172年、12才で清盛の娘の徳子(とくこ)を皇后に迎えます。清盛は高倉天皇の義父になりました。
しかし後白河法皇は、清盛が自分よりも大きな力を持ちはじめているのではないか? と警戒します。そして徐々に対立していきます。
高倉天皇からすると実父と義父の仲たがいになるので困りました。同時に後ろ盾が不安定になります。
後白河法皇と平清盛がガチで対立していく
1178年、徳子が入内してから6年後、平家待望の言仁親王(ことひと。のちの安徳天皇)が生まれます。
平清盛は天皇の外祖父へひとつステップアップ。だれが見ても平安時代の全盛期を誇った藤原氏と同じことをしようとしていました。
しかしこのときすでに、後白河法皇と平清盛の対立はごまかせないくらい悪くなっていました。
言仁親王が生まれる前の年に『鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀』が発覚しています。
鹿ケ谷の陰謀は、後白河法皇の近臣による平家打倒計画のこと。本当はおめでたいはずの皇子の誕生が、実父と義父の対立を加速させる原因になってしまいました。
なぜ後白河法皇は清盛を警戒するのか?
なぜ、後白河法皇は清盛を警戒するのでしょうか?
そもそも院政という統治システムは、藤原氏の横暴をやめさせて政治権力を皇族に戻そうというところからはじまりました。
後白河法皇のひいひいお祖父さん・第71代 後三条天皇の荘園整理令からはじまり、110数年かけて少しずつ進んできています。
後白河法皇には、清盛の行動が元に戻そうとしているように見えました。藤原氏が平氏に代わるだけに見えたのです。
じっさい清盛はそれを目指していました。だからそれだけは絶対に阻止しなければなりませんでした。
後白河法皇と清盛の衝突で退位させられる
1179年、あとを継いでいた平清盛の息子・重盛(しげもり)が亡くなります。
その重盛の所領を後白河法皇が没収したことに清盛はブチ切れ、法皇を鳥羽殿に幽閉しました。
1180年、清盛の独断で高倉天皇は退位させられます。そして、高倉天皇の息子で清盛の孫・言仁親王(安徳天皇)が即位します。
ここから、1121年の承久の乱で事実上、院政が消滅するまでの約40年、朝廷の院政と武家政権(平家政権、鎌倉政権 -> 鎌倉幕府)の並立体制で日本は統治されます。
日本で初めての武家政権です。このとき高倉上皇は20才でした。即位した安徳天皇は4才です。
調停役が死んでだれも止められない
後白河法皇の女御で平清盛の妻の妹・滋子(しげこ)は、安徳天皇が生まれる3年前急死します。また、清盛の後継者で息子の重盛は、清盛と同じ考えではありませんでした。
女御(にょうご)
位の高い朝廷の女官。天皇の側室候補でもあったので、天皇の側室という意味もある。
清盛は院政を廃止して天皇親政を目指し、その天皇に大きな影響力をもつことで政治の実権を握ります。
重盛の目指すところは後白河法皇との協力体制で、院政を維持しながら上皇と平家のふたつで天皇を支える並立体制です。
滋子と重盛は法皇と清盛のあいだを調整できる貴重な人で、法皇と清盛が対立するのを防いでいました。
1179年、重盛が亡くなってそれが完全に崩壊します。
清盛から幽閉された後白河法皇は平家と距離を取りはじめ、源氏に近づいていきます。
心労で亡くなった原因は実父と義父の仲たがい?
『平家物語』には、高倉院の失恋話があります。
小督(こごう)は大納言・隆房の妻でしたが、高倉院に見初められました。
隆房は未練を断ち切れず、小督に手紙で思いを伝えようとしました。しかし、小督は高倉院の気持ちをおもってその手紙を受け取りませんでした。
二人から愛された小督は苦しんで、ひそかに内裏を抜け出して嵯峨に身を隠してしまいます。
すると高倉院は嘆き悲しみ、臣下の源仲国(みなもとの なかくに)に命じて小督を連れ戻そうとしました。
ところが、それを知った清盛は小督を出家させてしまいます。そして、苦悩の高倉院は病にかかりついに亡くなってしまいました。
これは、平家の横暴さを表現したつくり話といわれます。
しかし、高倉天皇が後白河法皇と清盛との間で、苦しい毎日を過したのが本当だからつくられたのでしょう。
高倉院は退位した翌年に亡くなります。21才でした。