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姓、氏、名字、苗字の違いは何か?日本人は感覚で使い分けている。

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ご覧のページは 8 / 9 です。先頭ページはこちら。

名字から氏へ、そして姓をもらうストーリー

名字から氏になり、そして天皇から姓をもらうまでの一連の流れを見るには、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が分かりやすいです。

この人ほど名前のステップを1歩ずつふんで最高点まで到達した人はいません。

Step 1. ファーストネームしかない

木下 藤吉郎 秀吉

秀吉は農民出身なので名字をもっていませんでした。木下は嫁さんの実家の名字。もちろん氏も姓もありません。

藤吉郎は若いころの名前です。当時は昔の名前や幼名をミドルネームに使っていました。出世すると使わなくなります。

Step 2. 名字を自分でつくる

羽柴 藤吉郎 秀吉

羽柴 筑前守 秀吉

出世しはじめた秀吉です。

羽柴は上司の丹羽長秀(にわ ながひで)と柴田勝家(しばた かついえ)から一字ずつもらって自分でつけました。

ヨイショですね?

また、当時の武将に流行っていた国司の役職名をつけるようになります(筑前守)。

(鎌倉時代から武士が国司名を名乗る習慣はあった。)

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

筑前守はいまでいう福岡県知事。当時の秀吉はまったく筑前と関係ありません。『かっこいい』と思ったか織田信長につけてもらったのでしょう。

国司は現地は部下に任せ、京都まわりに常駐する人もいた。一度も現地に行かなかった国司もいる。

戦国武将が関係ないのに名乗れるのは、国司はすでに形骸化していたから。

(国司は律令制のもので幕府政治になると影響力が小さくなっていった。)

江戸幕府になると、武士の階級として正式に採用され国司の名称だけは残った。

Step 3. 名字から氏になる

出世街道まっしぐらの中で名字から氏になります。天下を取った秀吉はこの『羽柴』の氏を有力武将に与えはじめました。

前田利家(まえだとしいえ)は有名な武将ですが、最後の名前は『羽柴 筑前守 利家』。秀吉から『羽柴』をもらったうえに『筑前守』までもらいました。

これは意外と知られていません。

利家はそれだけ秀吉に信頼されていた証拠。秀吉が亡くなったあと、利家は豊臣政権で唯一、徳川家康を抑え込む力があった人です。

秀吉からすると敵になると怖かったのかも。

これもヨイショ。秀吉は相手のふところに飛び込む天才です。

前田利家は若い頃から織田信長の彼女? 彼氏? だったという話がある。

この時代は、ただの都市伝説で片付けられないほど武将のバイセクシャルは一種の嗜み(たしなみ)だった。

来日したキリシタンは、大友宗麟(おおとも そうりん。キリシタン大名)の嗜みに激高して本国に知らせていたほど。

もちろんその内容は『コイツらの習慣ヤバイよ、ヤバイよ』で、出川哲朗調だったとかなかったとか。

秀吉からすると、師匠の姉さんには頭が上がらなかった?

Step 4. スーパー氏を手に入れる

藤原 秀吉

近衛 秀吉

これも意外に知られていません。秀吉には藤原の時代があります。

秀吉は天下を取ったのはいいけれど農民出身がバレバレでした。家康のようにウソをついて源氏を名乗れません。

そこで秀吉は、室町幕府の最後の将軍・足利義昭(あしかがよしあき。源氏)の養子になって征夷大将軍になろうとします。が断られてしまいます。

将軍をあきらめた秀吉は、『それなら別ルートで朝廷のもっと上を目指そう!』と考え、近衛前久(このえさきひさ)の養子になってステータスのある藤原氏になりました。

この最高級の氏を手に入れた秀吉は関白になります。

藤原氏は、古代国家の建設に貢献した中臣鎌足(なかとみ の かまたり)が亡くなったとき、天智天皇が贈った名誉ある姓(氏)。

秀吉は最高の姓もゲットしていた。

近衛前久は藤原氏の筆頭の家柄・近衛家の当主で、左大臣太政大臣関白を歴任した超大物です。

Step 4. 天皇から姓と氏をもらう

豊臣 朝臣 秀吉

秀吉の最後の名前です。藤原は出世するためのレンタルだったので、藤原に匹敵する氏を天皇からもらいました。それが『豊臣』です。

(豊臣は、天皇からもらってるので姓でもある。)

そして太政大臣になりました。太政大臣官位の中で最高の位。

太政大臣になった秀吉は、とうとう八色の姓の最高位『朝臣』をもらいました。名前だけを見ても名字もない、氏もない、姓もないところからトップまで上り詰めたことが分かります。

木下藤吉郎秀吉名字もない。氏もない。姓もない。
名字はレンタル。
藤吉郎は幼名。
羽柴藤吉郎秀吉
羽柴筑前守秀吉
出世しはじめたのでオリジナルの名
字をつける。
氏・姓はない。
藤原(近衛)秀吉トップを目指すために氏をレンタル
する。
羽柴を氏として有力武将に与えはじ
める。
豊臣秀吉関白になったのでオリジナルの氏を
天皇からもらう。
豊臣朝臣秀吉太政大臣に上り詰めたので最高位の
八色の姓をもらう。

名字なし。氏なし。姓なし。役職なしから最高の氏、最高の姓まで上り詰めた人は後にも先にも秀吉ひとり。

名前のサクセスストーリーでは日本最高の男。

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