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姓、氏、名字、苗字の違いは何か?日本人は感覚で使い分けている。

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ご覧のページは 4 / 9 です。先頭ページはこちら。

氏(し、うじ)は自分から名乗ることもできた

氏はそれぞれの土地で力をもった豪族の血族集団、同族集団の家のことです。この『家』というものに大きな意味をもちます。

姓は天皇からもらうものですが、氏も同じように目上の人から名付けてもらいました。

さっき言った、天皇からもらう『姓と同一の氏』も氏のひとつです。

でも氏は、自分で勝手に名乗ることもありました。

  • 俺たちは天皇からもらった栄誉ある氏(姓)だぞ!!
  • 俺たちは同じ家に所属する仲間だぞ!!
  • この土地で力をもってるぞ!!

と、周りに示していました。有名な蘇我氏(そがし)も氏(うじ)です。

血統にこだわらない日本の氏(家)

日本の氏(家)には世界でも珍しい特長があります。それは、

血統にこだわらない。

これがややこしい。さっき『氏は血族集団』と言ったばかりなのに、日本では血統にこだわりません。

ふつう家(いえ)は同じ血統で引き継いでいくから『家』なんですが、日本の家は『○○家を継いでいく』が一番大事です。

血族で継いでいくために家がある。

ではなく、

まず家があって、それを血族で継いでダメだったら家だけでも守りたい。

を大切にします。

家がつづけば引き継ぐのはだれでもいいです。正確には『家を継がせたいほど優秀』ならだれでもいい。

日本の家は株式会社

養子縁組は典型です。世界では女性ばかりが生まれた家はつぶれますが、日本では養子縁組で優秀な男を入れることで家を継いできました。

(だから昔は世界共通で一夫多妻が多い。)

息子をほかの家に出したあとに継ぐ人がいなくなって、優秀な他人の養子に継がせるなんてこともありました。それが家を守るために必要だからです。

日本の○○家は『株式会社〇〇』のようなもの。だから高度成長期は『社員は家族』という言葉もありました。

日本では氏(家)は会社名です。創業家がダメになったらいつでもだれかに替えられます。

どうして源氏、平氏は武家の中でも特別なのか?

源氏平氏は、平安時代に天皇から八色の姓じゃない姓(氏)を与えられて民間人になった天皇の息子からはじまっています。

源氏・平氏は、天皇の子孫で栄誉ある氏だと知られていました。だから武士になっても格が上に見られます。

源氏も平氏も最初から武士だったわけではありません。武士というより貴族や高名な僧侶に多くいました。じっさいに左大臣右大臣を務めた源氏の人がいます。

源氏・平氏はもともと天皇の子孫で国司

源氏平氏の役人には、そこまで出世できず地方に飛ばされる人もたくさんいました。国司や軍事専門の役人(軍人)になる人も出てきます。

平安時代以降、日本の国軍は常備されず国司のもつ軍事力(国司は軍の軍団長)の寄せ集めなので、国司のもってる武力は絶大です。その中から赴任地をあたかも自分の領地のようにふるまう人が出てきました。

武士です。武士の成り立ちはこれだけではありません。ここでは省略します。

平清盛、源頼朝の祖先は国司です。

この人たちは、自分のもっている領地を守るために血族、同族を大事にするようになります。

だんだん氏の性質が強くなって、元皇族というより栄誉ある名前をもった豪族のほうがしっくりくるようになりました。

平氏も源氏も武士というイメージがあるのはそのためで、平氏・源氏は皇族からはじまり少しずつ豪族になり武士に変わっていった人たちです。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

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