摂政は『せっしょう』と読みます。
『天皇に代わって政を摂(と)る』で天皇の代理です。政(まつりごと)は政治の昔の言い方で、『摂る』は担うという意味。
摂政は時代によって意味・役割が少しずつ変わり、今でも制度として残っています。
昭和天皇が若かりし頃、摂政だったことはあまり知られていません。
摂政は天皇に代わって仕事をする人
摂政は『天皇の代理』ですが、正式な役職ではなく令外官 です。そして時代によって少しずつ役割、意味が変わります。
よく摂政は、
天皇に政治を行なう能力がないときに設置する
と説明されます。たとえば、女帝や、幼い年齢の天皇、天皇が重病などのとき。
たしかにそうなんですが、少しだけちがうとぼくは思っています。とくに女帝に能力がないという説明には納得しません。
女帝にはとんでもないリーダーシップを発揮した人がいます。しかも、日本という国家が生まれたばかりで、大変な時期に多くいました。
そしてこのころ男性皇族の摂政がいました。女帝に能力がないなら代わればいいのにそうしていません。
多くの男性皇族、しかも政治経験のある男性皇族がたくさんいたにもかかわらずです。
これは女帝がリーダーにふさわしかったということでしょう。
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
古代の摂政は皇族がなるもの
最初の摂政は、古代・飛鳥時代の聖徳太子(しょうとくたいし。厩戸皇子(うまやどのみこ))と言われます。第33代 推古天皇のときです。
古代の摂政は天皇を補佐する立場でした。このときは、皇太子など将来天皇になるような人が務めます。
当時は天皇が直接政治を行っていたので、政治をコントロールする能力が求められます。摂政はその修業期間でもありました。
聖徳太子は、あえて生涯・摂政だった
推古天皇は初の女性天皇でした。そしてこの頃は、日本が先進国の仲間入りを目指して無我夢中に頑張っていたときで天皇の仕事は膨大です。
女帝だから頼りないというよりも、大変なので2人体制にしたというのが本当のところでしょう。また当時、蘇我氏が強大な力をもっていたのでそれを抑える必要がありました。
なぜそう言えるのか?は、聖徳太子は皇太子なのに天皇にならず、28年間、摂政・皇太子のままだったから。
女帝が頼りないなら、政治の経験が豊富な太子が天皇になってもいいはずです。しかし、推古天皇・聖徳太子は2人体制をつづけています。必要だったからでしょう。
当時はまだ天皇が退位する例が過去になく(死んだら交代がスタンダード。)、皇位を譲るという発想がなかったとも言えますが。
蘇我氏を抑えるのは大変だった?
推古天皇の伯父さんは蘇我馬子(そがの うまこ)です。推古天皇ひとりだと馬子がやりたい放題できます。
(実際それなりにやりたい放題だった)
聖徳太子を摂政にすることで、少しでも蘇我氏の暴走を止めようとしていました。当時は天皇を中心とした中央集権国家を目指していたので、一豪族の蘇我氏のワガママを許せません。
推古天皇も聖徳太子も母の実家が蘇我氏なので、親戚の中で主導権争いがありました。
中央集権国家(ちゅうおうしゅうけんこっか)
権力が、都など中心になる場所に集まった国家。
日本は東京に権力が集中しているのでこれに当てはまる。
平安時代は藤原氏の独占状態(人臣摂政)
平安時代に入ると藤原氏が政治の実権を独占します。この時代は藤原氏が天皇の外祖父、外叔父になって大きな権力をもちました。
摂関政治(せっかんせいじ)ですね?
その藤原氏の実力者が摂政になります。皇族でない人が摂政になるので人臣摂政(じんしんせっしょう)と言います。
この時代は幼い天皇を即位させて、その天皇の後見人になった藤原氏が政治の実権を握りました。そのために利用したのが摂政です。
人臣摂政の特長は『天皇の代理』ではなく、『天皇の補佐』の役割が大きくなったこと。
もっている権力は絶大でも立場はあくまで『天皇の臣下』なので、表面上は『天皇の代理』とは言えなかったのでしょう。
また人臣摂政は正式な官位との兼務もできました。左大臣や右大臣などいろいろな役職の人が兼務します。
摂政になる人は元々偉い
摂政になる藤原氏の貴族はもともと位の高い人しかなれませんでした。左大臣・右大臣がほとんどで、なれるのは大納言・中納言くらいまで。
この人たちの貴族のランクはナンバー2, 3, 4, 5 のトップランクです。このトップランク人たちのことを公卿(くぎょう)と言います。
(正二位~従三位。)
公卿は無条件に天皇と面会して話ができて政権の中枢の中枢の人たち。今でいうと内閣の重要閣僚みたいなもの。
ちなみにナンバー1は太政大臣ですが、太政大臣は常設ではなくトップランクの中でも圧倒的になった人がなるもの。
(太政大臣は正一位・従一位。)
平安時代には関白もできますが、関白になると自動的に太政大臣にもなるスタンダードができます。
少し遅れて関白ができる
平安時代にはもう一つ、関白(かんぱく)という役職もできました。摂政とのちがいを簡単にまとめると、
摂政 | 政治を仕切る能力がない(幼い)天皇を補佐 |
関白 | 政治を仕切る能力がある(成人の)天皇を補佐 |
摂政と関白のちがいがよくわからない原因は、人臣摂政の役割が『天皇の補佐』になり、その役割は関白も同じだからです。
くわしくは『摂政と関白の違い。どっちが偉いのか?』にまとめました。
藤原氏が天皇から政治権力を奪ったかのような表現をしている。
しかし今は、天皇が藤原氏を必要として権力を渡して、また、藤原氏も天皇を必要としていたというのが通説。
でも、藤原氏は天皇を小馬鹿にしていたような印象がどうしてもあるので、このような表現をした。
最初の人臣摂政は藤原良房
皇族以外で初めて摂政になったのは藤原良房(ふじわらの よしふさ)。(866年)
良房は、古代の蘇我入鹿(そがの いるか)暗殺に参加した中臣鎌足(なかとみの かまたり。藤原鎌足)の子孫です。
その藤原氏の中で、もっとも力をもった藤原北家(ふじわらほっけ)の流れを汲む人で太政大臣を務めるほどの実力者でした。
(実は人臣初の太政大臣でもあった。)
この良房の子孫が代々、摂政・関白を務め、その子孫たちはやがて摂関家と呼ばれるようになり五摂家へと発展します。
太政官(だいじょうかん)
律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。
四等官 | 官位 |
---|---|
長官 (かみ) | 太政大臣(令外官) 左大臣 右大臣 内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活) |
次官 (すけ) | 大納言 中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活) 参議(令外官) |
判官 (じょう) | 少納言など |
主典 (さかん) | 省略 |
左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。
最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。
最初の太政大臣は大友皇子。
(その後、平清盛、豊臣秀吉など)
太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。
明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。
明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。
内閣の一員 -> 大臣(だいじん)
官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)
日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。
首相 = 総理大臣
財務相 = 財務大臣
○○相 | イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳 |
○○大臣 | 太政官の名残り。日本だけ。 |
政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。
ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。
大臣は『天皇の臣下のリーダー(大)』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。
五摂家(ごせっけ)
平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。
鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。
- 近衛(このえ)
- 九条(くじょう)
- 二条(にじょう)
- 一条(いちじょう)
- 鷹司(たかつかさ)
くわしくは『摂関政治とは何か?』で。
五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。
1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。
歴史上最後の人臣摂政は二条斉敬(にじょう なりゆき)。(1867年)
幕末に孝明天皇から関白に任じられました。その後、孝明天皇が亡くなったのでスライドして明治天皇の摂政になります。
15才の明治天皇は明治維新の動乱はひとりでまとめきれないと判断されたのでしょう。
二条斉敬は歴史上最後の関白でもあります。
明治以降の摂政
明治以降の摂政は天皇の補佐ではありません。元々の意味の天皇の代理です。
天皇と摂政の格は同じです。摂政の行いは天皇の行いと同じ意味をもち、摂政を立てるには厳しい制限があります。
天皇陛下と摂政が同時に国事行為等を行うことはありません。同格のふたりが同じことをすると、君主が二人いることになってしまうから。
摂政を立てるときは、
- 天皇が未成年
- 天皇が重大な身体・精神の疾患、もしくは国事行為が行えないほどの事故にあったとき
に限ります。つまり、天皇陛下が何らかの形で天皇の仕事ができないときに摂政を立てるということですね?
(昔からある称制に近い。)
歴史上最後の摂政は昭和天皇
歴史上最後(今のところ)の摂政は昭和天皇が務めました。
(意外と知られていません。)
大正10年、大正天皇が病気で寝たきりになって天皇の仕事ができなくなったので、皇太子時代の昭和天皇が、20才から天皇になるまでの5年間務めました。
いま、摂政になれるのは皇族の方だけです。古代に戻りました。
摂政は成人の皇太子が務めることになっている。
皇太子が未成年の場合、皇位継承順位が一位の成人皇族。
摂政は制度上、いまも存在する
摂政は過去の歴史の役職というイメージがありますが、いまでも制度はつづいています。
皇室典範という法律で、さっきの摂政の要件が定められています。今後、摂政を務める人があらわれる可能性は十分あります。
- 古代の摂政は天皇になるための修行期間。
- 藤原氏の人臣摂政がいちばん長く1200年もつづく。
- いまの摂政は天皇の代理で立場は天皇と同じ。(皇族しかなれない)
皇室典範(こうしつてんぱん)
明治22年、大日本帝国憲法と同時につくられた皇室のルールを定めた典範。
憲法の下の法律ではなく、憲法と同格のものとしてつくられた。
これを典憲体制(てんけんたいせい)という。
1947年(昭和22)、日本国憲法の発布にあわせて、いち法律として格下げされる。
明治の典範は国会・内閣に典範を改正する権限はなく皇族がもっていた。
戦後、いち法律になったことで国会と内閣に改正する権限が移る。皇族会議はあるが最終決定権は皇族にない。
皇位継承についても皇族はタッチできないので、自分の家について意見は言えるが何もできないという問題点がある。