歴代天皇 - 内外の権力闘争に明け暮れた天皇たち(院政) -
白河天皇(しらかわ)は『ミスター院政』です。天皇を退いてから力を発揮し、60年近く君臨した化け物。
息子、孫、ひ孫を天皇に即位させ、その後見人になって政治の実権を握りました。これが院政の本格的なはじまりです。
また、武士が政治勢力になるきっかけになったという意味で、歴史的に大きなことをしました。
中世 平安時代 - 末期 -
- 皇居
平安宮
(へいあんのみや)
- 生没年
- 1053年6月19日 ~ 1129年7月7日
天喜元 ~ 大治4
77才
- 在位
- 1073年12月8日 ~ 1087年11月26日
延久4 ~ 応徳3
15年
- 名前
- 貞仁
(さだひと)
- 別名
融観
(ゆうがん)六条帝
(ろくじょうてい)
- 父
第71代 後三条天皇
(ごさんじょう)
- 母
藤原茂子
(ふじわら もし / しげこ)藤原公成の娘
(ふじわら きんなり)
- 皇后
藤原賢子
(ふじわら けんし)源顕房の娘
(みなもと の あきふさ)養父・藤原師実
(ふじわら もろざね)
- 女御
藤原道子
(ふじわら どうし / みちこ)藤原能長の娘
(ふじわら よしなが)
- 妻
その他
天皇になるときも辞めるときも急だった
白河天皇は、父の後三条天皇が関白・藤原頼通(ふじわら よりみち)に嫌われていたのもあって、幼いころは冷遇されていました。
政治の実権を藤原氏から奪取する狼煙を上げたのは後三条天皇で、いろんな改革を行ないます。
ただ、父は在位4年半で退位します。それを引き継いだのが20才の白河天皇でした。
翌年に父は亡くなってしったので改革半ばにして大仕事を受け継ぎました。その白河天皇も在位15年で退位。とても急でした。
自分の第2皇子 善仁親王(たるひと)を皇太子に立てたその日に譲位します。善仁親王は8才。
なぜそのようなことをしたのでしょうか? これは天皇に政治権力を戻すための権力闘争が関係しています。
譲位(じょうい)
天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。
第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。
はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。
大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇。
持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。
(制度化されてから2/3が譲位)
なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。
それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。
譲位の理由はいろいろ。
次世代が育つ。 |
そのときの権力者の都合。 自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。 (権力闘争に利用される) |
病気。 |
仏教徒になりたい。 |
幕府に抗議するため。 |
天皇の意思。 |
理由なし。 あたりまえだと思っていた。 |
当時の政治システム
当時の政治システムは摂関政治(せっかんせいじ)という、摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)を中心にしたシステムでした。
摂政は天皇の代理人です。有名なところでは聖徳太子(しょうとくたいし)がいます。ただこの時代は皇族のかわりに藤原氏がなっていました。
一方、関白は天皇の政治を補佐する人です。じっさいに政治を実行する左大臣以下の人たちを管理するマネージャーみたいなものでしょうか?
左大臣は、いまの総理大臣みたいなもの。
摂政・関白は総理大臣の上なので雲の上の存在です。これらの役職は、天皇のまわりに藤原氏を中心に貴族がたくさんいて、藤原氏がもち回りで担当しました。
とりわけ、藤原道長(ふじわら みちなが)の子孫たち。
天皇は藤原道長の家族になっていて藤原氏に頼る以外ない状態で、家族の藤原氏にかつがれるだけの存在になっていました。
それまで天皇は操り人形に成り下がっていたのか?
天皇はこの状況をだまって見ているだけだったのでしょうか?
じつは平安時代には、平安初期の天皇の皇子から民間人になった人がたくさんいます。
それらを登用して、左大臣、右大臣に任命して自ら政治を行おうとする人もいました。
ちなみに、民間人になるときの姓は源(みなもと)が多いです。あの源氏(げんじ)と同じ。ただ、藤原氏を超える勢力ではありませんでした。
脱・藤原道長ファミリー
白河天皇は、50年以上続いていた藤原道長ファミリーと距離を取ります。
白河天皇の皇后・賢子(けんし)は、藤原師実(もろざね)の娘ですが養女で、本当の父は村上天皇のひ孫に当たる村上源氏の源顕房(みなもと の あきふさ)。
母も道長とは別系統の藤原氏です。
(道長の父・兼家(かねいえ)の弟・公季(きんすえ)の子孫。)
道長ファミリーが当時の摂政・関白をつとめる家で、かつ天皇の家族になる家だったので、摂関政治と距離を取ることにもなりました。
これが院政ができた一番のポイントでしょう。次の堀河天皇の頃にはさらに脱・道長ファミリーが進んでいきます。
藤原氏の中で道長の子孫を御堂流(みどうりゅう)、公季の子孫を閑院流(かんいんりゅう)という。
白河天皇は『摂政・関白は道長の子孫で天皇の家族』の『天皇の家族』を切り離した。
道長の子孫が盤石でなくなる。それに代わって台頭したのが閑院流。
以降の天皇の母・皇后は閑院流になる。院政は閑院流の隆盛と言ってもいい。
白河天皇は藤原氏の勢力図を御堂流から閑院流に変えた。
白河天皇の布陣は源氏政権
関白の藤原師実(ふじわら もろざね)は、かつての摂関政治をするほど力がありませんでした。
しょうがないです。白河天皇の家族じゃなくなってたし。名目上は義理の父でしたが。
賢子が次の堀河天皇を産むと、将来の天皇候補筆頭の皇子のお祖父ちゃんになった源顕房は出世していきます。
(元々、出世街道には乗っていた。)
白河天皇の時代の後期の布陣です。
院政の布陣は、摂関政治をかたちだけにしてしまう村上源氏の政権への影響が大きいです。
摂関政治が弱い証拠に、関白・藤原師実はこのとき太政大臣になっていない。
関白に就任するとすぐに太政大臣になるのがこれまでの慣例なのに、師実が太政大臣になるのは、次の堀河天皇の関白になってから。
権力闘争で太政大臣を別の人・藤原信長(ふじわら のぶなが)にしないといけない事情もあった。
摂関の内部抗争が激しく、外に力を向けることができなくなっている。
院政は政治の実権を藤原氏から天皇へ戻すためのシステム
院政(いんせい)は、天皇を早々と次の世代に引きついで上皇になり、自由な立場で政治を行います。
なぜこのようなシステムを作ったのでしょうか?
太上天皇(だいじょうてんのう)
退位した天皇のこと。
上皇(じょうこう)
太上天皇の短縮した言い方。
太上法皇(だいじょうほうおう)
出家した上皇のこと。たんに法皇という。
院(いん)
上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。
くわしくは『太上天皇とは何か?』へ
天皇にはまわりの藤原氏以外に政治家の仲間がいません。天皇ひとりでは何もできないのですが、このころは藤原氏の摂関政治がメチャクチャでした。
そこで、天皇を中心の親政に戻そうという流れができて、そのために院政が作られます。
武士の時代が来たのは白河天皇のおかげ
当時の武士は、貴族たちを守るボディーガードの存在にすぎませんでした。地方に行けば、自警団を作ってその土地で力をもった集団はありました。しかし、政治勢力の武士はいない状態でした。
地元で大手をふって歩くヤンキーみたいなもので、社会を動かすほどではありません。
そのヤンキーを引き上げた人が白河天皇です。上皇になっていた白河院は、自分を守る本格的な組織を作りました。
北面の武士
白河院の御所の北側を拠点にしたのでそう呼ばれます。この北面の武士の中に、平清盛の父やお祖父ちゃんがいました。また、源頼朝の父やお祖父ちゃんも参加しています。
北面の武士は、後の武士の世を作るスーパースター集団です。暴力で訴えてくる僧侶に対抗するため取り込んだ結果でした。
白河院は武士を社会的に引き上げたという意味で武士の生みの親です。この人がいなければただのヤンキーですから。
当時の仏教徒は、気に入らないことがあると暴力的な訴えをくり返した。強訴(ごうそ)という。
そして当時の僧は武装集団。対抗できるのはヤンキーの武士だけだった。
ヤンキーにしか抑えられないほど当時の僧侶はややこしい人たちだったんですね?
当時の寺社勢力は既得権者でもあった。大きい勢力は自治も認められている。
勝手に関所を作って金をとる。
商人や庶民からみかじめ料をとる。
やってることは反社会勢力。これも後三条天皇・白河天皇の改革の対象だった。
白河院が長生きしたから院政が作れた
旧勢力を抑え込んで新しいシステムを作るには長い時間が必要です。
江戸時代が長くつづいたのも、徳川家康が長生きして新しいシステムを作る時間がたっぷりあったことが大きいでしょう。
白河院も長生きしています。白河院の院政で天皇だった人は3人です。
42年、上皇として政治の中心でありつづけました。天皇時代の15年も入れると57年も日本のトップでした。
こんなに長い政治キャリアをもつ天皇は昭和になるまでありません。ちなみに昭和天皇は、20歳で摂政になってからトータルで69年トップでした。
これだけ長い時間をかけることで、摂政・関白の政治権力が失われていきます。
これ以降、摂政・関白は残りますが、平安時代の絶頂期ほど圧倒的な実権を握ることはありませんでした。
意図しない武家社会の下地を作った
鎌倉時代の初期まで院政はつづきますが、今度は、院政と武家のシステムが対立するようになって、お互いに勢力争いをはじめます。
天皇を中心とした親政を作るための院政が、結果的に武士の社会を作る下地になってしまったところが歴史の皮肉ですね?
女好きが院政の寿命を縮めた?
最後に下世話な話をひとつ。
『英雄色を好む』と言いますが白河院はこれを地で行くような人でした。相当な女好きだったのは有名です。
平清盛(たいら の きよもり)は白河院の落胤というウワサもあります。
落胤(らくいん)
正妻以外の女性に産ませた子供のこと。
女好きが大戦の火種に?
また、ひ孫の崇徳天皇は白河院の子どもだとも言われます。
孫の鳥羽院は崇徳天皇のことを
叔父子(おじご)
と呼んで冷たくあたっていました。叔父子は
お前は俺の子じゃないだろう? ほんとうは叔父さんだろう?
というキツイ皮肉。
崇徳天皇の母は藤原璋子(ふじわら しょうし)。璋子は子どものころからずっと白河院のところで生活していました。
鳥羽院は爺さんの彼女を押しつけられたと思っていたようです。
(ウソかマコトか不明。当人にしかわからない。)
この親子関係のぎくしゃくが 保元の乱の原因になり、崇徳上皇は讃岐に島流しされ非業の死を遂げます。
この戦で武士の力はさらに強まって、院政の最大のライバルになっていきます。