歴代天皇 - (律令)国家・日本を作った天皇たち -
第47代 淳仁天皇(じゅんにん)は、女帝に指名されて天皇になったのに、その女帝に天皇をクビにされました。
最後は幽閉されて、脱出した翌日に理由も分からないナゾの死。
長い間歴代天皇にも数えられず、淡路廃帝(あわじはいてい)という汚名まで着せられてしまいます。
古代 奈良時代
- 皇居
保良宮
(ほらのみや)平城宮
(へいじょうきゅう)
- 生没年
- 733年?月?日 ~ 765年10月23日
天平5 ~ 天平神護元
33才
- 在位
- 758年8月1日 ~ 764年10月9日
天平宝字2 ~ 天平宝字8
7年
- 名前
- 大炊
(おおい)
- 別名
淡路公
(あわじ の きみ)淡路廃帝
(あわじはいてい)
- 父
舎人皇子
(とねり の みこ)第40代 天武天皇の皇子
(てんむ)崇道尽敬皇帝
- 母
当麻山背
(とうま の やましろ)当麻老の娘
(とうま の おゆ)
- 皇妃
粟田諸姉
(あわた の もろね)
飛び級の即位
くわしくは孝謙天皇のところにおまかせして、ここではかんたんに。
孝謙天皇は女帝で32才で即位しました。もう結婚もしないし子どもも産まないだろうと思われてます。
これは、その前の聖武天皇も分かっていたでしょう。聖武天皇の時代には、次の天皇に黄文王(きぶみおう / きぶみ の おおきみ)しようとする人たちもいました。
その中で、最大の実力者の藤原仲麻呂(ふじわら なかまろ)が推したのが大炊王(おおいおう / おおい の おおきみ)です。
皇位継承争いが激しく、二人の王が殺されるほどでした。
孝謙天皇が退位して25才の大炊王が即位します。淳仁天皇です。
王は天皇になれない
淳仁天皇は王です。親王じゃありません。親王は『天皇になるかもよ?』と言われている人で、王は『皇族だけど天皇になれないよ?』と言われているようなもの。
孝謙天皇のときにはすでに親王がいませんでした。だから『もしかしたらオレが天皇になれるかも?』と思った王たちで激しい争いごとまで起きてます。
そのなかで大炊王は藤原氏の血をもたない王で、父・舎人皇子(とねり の みこ)が3才のとき亡くなっているので、天武天皇の孫なのに相手にされてませんでした。
(官位すらなかった。)
そこに目をつけたのが最大の実力者、藤原仲麻呂(ふじわら なかまろ)。
淳仁天皇は天智天皇のひ孫でもあるので、皇位継承争いに勝つウルトラCの抜擢でした。
(当時の皇子は天武・天智の血をひいてることが最大のアドバンテージになっていた。)
皇子と親王
淳仁天皇の父・舎人は、舎人親王(とねり しんのう)と呼ばれるのが一般的です。でも、舎人の兄・草壁は、草壁皇子(くさかべ の みこ)と呼ばれます。
天武天皇の子・孫世代は、呼び方の変わり目なのでワケが分かりません。
その基準は、大宝律令が作られる前後です。
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
草壁は律令国家完成前に亡くなっているので皇子、舎人は律令国家完成の立役者のひとりで、日本書紀の編集長をしてた人です。だから親王。
最後は、知太政官事という律令国家の総責任者にまでなりました。
合っているかどうか分かりませんが、日本書紀に登場する人は皇子、続日本紀(しょくにほんき)は親王のように、歴史の資料でも別れているのでしょう。
知太政官事(ちだいじょうかんじ)
第42代 文武天皇から第45代 聖武天皇の間に置かれた令外官。
律令政治の太政官を監督するマネージャー職。
(左大臣よりも上。)
有力な皇族が務めた。
だれが? | 就任時期 |
---|---|
忍壁皇子 (おさかべ の みこ) 天武天皇の子。 | 703年(大宝3)~ 705年(大宝5)。 第42代 文武天皇 |
穂積皇子 (ほずみ の みこ) 天武天皇の子。 | 705年(大宝5)~ 715年(和銅8)。 第42代 文武天皇 第43代 元明天皇 |
舎人皇子 (とねり の みこ) 天武天皇の子。 | 720年(養老4)~ 735年(天平7)。 第44代 元正天皇 第45代 聖武天皇 |
鈴鹿王 (すずか の おおきみ) 高市皇子の次男。 天武天皇の孫。 | 737年(天平9)~ 745年(天平17)。 第45代 聖武天皇 |
このときすでに太政大臣があったが、前例の大友皇子(おおとも の みこ)、高市皇子(たけち の みこ)のように、皇太子に匹敵する人でないとなれなかった。
太政大臣を置くと皇太子と並び立つので、皇位継承争いを避けるため知太政官事を置いたとも言われる。
じっさい、知太政官事がいたときの太政大臣は不在。
(その後、太政大臣は皇族でなくてもなれるようになる。)
結局、歴代知太政官事は第40代 天武天皇の子が務めた。
(最後の鈴鹿王だけ孫。)
本格的な律令政治を始めた天武天皇の威光があるうちだけの役職だったとも言える。
(天武天皇は皇親政治を始めた人でもある。)
25才の即位は期待されてない証拠
当時の天皇は、政治のリーダーをしないといけないので経験が必要です。でも、淳仁天皇は官位もなかったので政治の経験はゼロ。
当時は皇親政治で、皇族も政治家であり官位をもっていた。
皇族は各省のトップの卿(きょう)になるのが慣例。
このころの天皇は『長老』なので25才の若造にはムリです。まったく期待されていません。
先々代の聖武天皇が政治に興味がない人だったので、政治は藤原氏に丸投げでした。
藤原仲麻呂は、聖武天皇の皇后・光明子(こうみょうし)に気に入られ、大出世した人です。先代の孝謙天皇も頼りにしていました。
淳仁天皇は、光明皇后・孝謙上皇が政治を仲麻呂に丸投げした状態で即位したので、淳仁政権 = 藤原仲麻呂政権です。
これでも十分かわいそうですが、それだけでは終わりませんでした。
不幸のはじまりは弓削道鏡
淳仁天皇の不幸のはじまりは弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)です。
孝謙上皇が病気で寝込んでいたのを看病した道鏡に出会って、これまで頼りにしていた藤原仲麻呂よりも道鏡の意見を聞くようになります。
道鏡は野心マンマンの僧だったので、淳仁天皇は孝謙上皇に警戒するように意見しました。
すると上皇は天皇にマジギレ。上皇と天皇の仲が悪くなってしまいます。
道鏡と出会って1年後、上皇は淳仁天皇から天皇の仕事を取り上げてしまい上皇が政治を仕切ります。
(762年, 天平宝字6)
恵美押勝(えみ の おしかつ)
恵美押勝は改名した藤原仲麻呂です。淳仁天皇が『これからもよろしく』と期待を込めて、即位した年に名前を贈りました。
押勝は、自分の子どもや親戚をどんどん出世させて政権を自分の思い通りにコントロールします。
それを支えていたのが、聖武天皇の皇后・光明子。
光明皇后は、仲麻呂が政権に入る前から藤原氏でいちばんかわいがっていました。その力で仲麻呂は政権トップになります。
史上初! 人臣の太政大臣
このころの政治のトップは左大臣です。左大臣・右大臣のツートップ政治と言ってもいいでしょう。
でもその上にひとつ役職がありました。太政大臣(だじょうだいじん)。
太政大臣は令外官で必ずあるものではありませんでした。皇太子と同じ格だと見られるくらい圧倒的なものです。
もちろんそれを務めるのは皇族です。皇族の中でも次の天皇になってもおかしくない人がなるもの。
その太政大臣に恵美押勝がなりました。史上3人目の就任。しかも皇族以外の人臣がなったのは初めて。
初代 | 大友皇子 (おおとも の みこ) | 壬申の乱で天武天皇に敗れる。 明治3年に歴代天皇に加えられた。 (第39代 弘文天皇) |
2代 | 高市皇子 (たけち の みこ) | 天武天皇の長男。 草壁皇子の兄。 母の身分が低いため皇太子から外れた。 天武朝・持統朝の政権トップ。 この人が律令国家を作ったと言っても過 言ではない。 |
ただこのころは特殊で『太政大臣』という呼び方ではありませんでした。仲麻呂がなったのは『太師(たいし)』。
太政大臣は圧倒的すぎてビビったのでしょう。平安時代にはあたりまえに人臣が太政大臣になりますが、その過渡期です。
押勝の栄華は長くは続かず
太師になった恵美押勝の勢いは長くつづきません。5ヶ月後には最大の後ろ盾、光明皇后が亡くなりました。
(760年, 天平宝字4)
勢いが無くなってきたころに、道鏡に傾いていた孝謙上皇に淳仁天皇が意見する事件が起きます。
そして2年後には、孝謙上皇が淳仁天皇から天皇の仕事を取り上げました。
(762年, 天平宝字6)
あれだけ押勝を信頼していた孝謙上皇の心は、完全に道鏡に移っていました。
藤原仲麻呂の乱
後ろ盾の光明皇后を失ったうえに、孝謙上皇にそっぽを向かれてしまった押勝はブチ切れます。
764年(天平宝字8)9月、軍事訓練で決められた以上の兵を集めます。すでに淳仁天皇の弟・池田親王(いけだ)は独自に兵を集めていました。
そして、もうひとりの淳仁天皇の弟・船親王(ふね)も押勝に味方します。
淳仁天皇およびその兄弟と押勝 vs 孝謙上皇・道鏡の構図。
しかし、部下に裏切られて上皇に密告されクーデターは失敗しました。上皇は押勝の一族全員の官位剥奪、藤原氏姓の剥奪、財産の没収を宣言します。
押勝は平城京を脱出して宇治(京都)に向かい、近江国(滋賀)に逃げることにしました。
吉備真備の復活
孝謙上皇は、押勝に左遷されて地方をあっち行ったりこっち行ったり干されていた吉備真備(きび の まきび)を呼び戻して、追討の指揮をまかせます。
このとき真備70才。15年ぶりに戻ってきた押勝の最大のライバルです。
真備が編成した追討軍は逃亡した押勝を追いかけました。
あっさり敗北
押勝のクーデターは大きな軍事衝突だったので、長期戦になりそうな雰囲気がありました。
しかし、押勝軍の司令官が出会い頭に戦死して一気に崩れます。押勝は斬り殺され、家族も皆殺しされました。
ここまでたった1週間。
これを藤原仲麻呂の乱(ふじわらなかまろ の らん)、または恵美押勝の乱(えみ の おしかつ の らん)といいます。
孝謙上皇はかなり前から押勝を殺そうとしていたように思います。吉備真備の復帰もかなり前から準備していたのかも。
そうじゃないとこの瞬殺はありえません。
これで藤原4家のひとつ、藤原南家が滅亡する。
残りは北家と京家の二つ。
淳仁天皇は暗殺された?
淳仁天皇は押勝が処刑されてから1ヶ月後に捕えられました。そして、天皇をクビにされ淡路島に島流しされます。
(恵美押勝がクーデターを起こしたときに幽閉されたとも言われる。)
1年後に幽閉先を脱出しましたが次の日には死んでしまいました。理由は分かりません。33才でした。
でも状況を見るかぎり殺されたんじゃないかと思います。すでに『逃げたら殺せ!』の命令がないかぎり脱出してすぐ死ぬことはないんじゃないかな?
淳仁天皇は淡路廃帝(あわじはいてい)と呼ばれ、長い間、歴代天皇に入っていませんでした。天皇として認められたのは1870年(明治3)です。
淳仁天皇には有名な肖像画がありません。長い間、天皇じゃなかった証拠。
このページの画像もてきとうに和柄にしといた。
親王宣下をはじめた天皇
淳仁天皇は、歴代天皇の中でもトップクラスのかわいそうな最後だった天皇ですが、ひとつ大きな功績があります。
親王宣下をはじめたこと。
親王宣下(しんのうせんげ)
天皇から『親王になりなさい』と宣下を受けること。宣下は天皇からの命令。
正式に天皇の皇位継承権をもつことを意味する。宣下を受けた人は、親王、内親王を名乗る。
男性が親王。女性が内親王。
天皇の子ども・孫など直系子孫が宣下を受けた。
天皇の子孫でも宣下を受けてない人は王になる。民間人になると王の称号もなくなる。
はじめて親王宣下をしたのは奈良時代の第47代 淳仁天皇。
親王宣下のないころ、飛鳥・奈良時代の皇族は、天皇の子どもが親王(内親王)、孫から王(女王)だった。
大宝律令の中で制度化したと思われる。
(正確な決まりはない。)
親王宣下は皇族の生まれた立ち位置で自然に決まっていた制度を指名制に変えた。
宮家(世襲親王家)は、本来なら王や民間人になるような人だったが、宣下を受けて親王を名乗った。
明治以降、皇室典範で親王宣下のルールは決められている。
天皇の孫までは親王(内親王)、それ以上血統が離れると王(女王)。
範囲が子から孫へ広がったのは、昔は天皇の子どもが多かったのと、奈良時代は皇族が政権の役職・官僚のトップを務める皇親政治で、そのランクにも使われたので、範囲が広すぎると権力闘争で安定しないから。
これまでは、『天皇になるかも知れないから準備しといてね?』と言われる親王は、天皇の子どもだけでした。
これを、時の天皇・上皇が指名するようになったのが親王宣下です。
藤原仲麻呂の乱に参加した池田親王、船親王も親王宣下で王からランクアップした親王です。
(一般的には池田王、船王と呼ばれる。)
親王宣下はのちに宮家と言われる、天皇の子孫としては遠い人たちにも行われ、今でも続いています。
今は天皇の子・孫が親王(内親王)になると法律で決められ、天皇が追随するかたちで儀式として親王宣下を行う。
(ひ孫以降の皇族は王(女王)。)
なぜ親王宣下をはじめた?
先代・孝謙天皇のときはすでに親王がゼロで王たちばかりでした。
それのせいもあって、『王から天皇になれるかもしれない』と野心むき出しの王たちの間で権力闘争が起きてます。
(殺しあり。島流しあり。)
これを止めるために作ったのでしょう。淳仁天皇は即位して1年後には姉弟に親王宣下を行います。
(次の天皇候補を早めに決めた。)
権力闘争に思いっきり巻き込まれていた孝謙上皇の意向だったことも想像できます。
このとき親王宣下を受けた淳仁天皇の姉弟たちは、淳仁天皇がクビになったときに、全員、親王・内親王を剥奪される。
また、恵美押勝のクーデーターに参加した池田王・船王は、改名させられて島流しされてしまった。
戦に負けてしまった淳仁天皇派の一掃で、最初の親王宣下の親王たちは一瞬でクビになった。