歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -
継体天皇(けいたい)は、歴代天皇の中で一番血統が遠いところから即位した天皇です。即位したときは都にすら住んでいませんでした。
本人も福井にいたかったらしく、一度は断りしぶしぶ即位します。
継体天皇の系統がいまの今上天皇まで続いていますが、あまりに遠くから来たので王朝交替説もあります。
先史・古代 古墳時代
- 皇居
樟葉宮
(くすばのみや)筒城宮
(つつきのみや)弟国宮
(おとくにのみや)磐余玉穂宮
(いわれのたまほのみや)
- 生没年
- 450年 ~ 531年2月7日
允恭天皇39 ~ 継体天皇25
82才
- 在位
- 507年2月4日 ~ 531年2月7日
継体天皇元 ~ 継体天皇25
24年
- 名前
- 男大迹王
(おおどのおおきみ)
- 別名
彦太尊
(ひこふと の みこと)
- 父
彦主人王
(ひこうしの おおきみ)応神天皇の5世の孫?
- 母
振媛
(ふるひめ)
- 皇后
手白香皇女
(たしらか の ひめみこ)仁賢天皇の皇女
- 皇妃
目子媛
(めのこひめ)尾張連草香の娘
(おわり の むらじ くさか)
- 妻
その他
もともと福井の王だった
先代の武烈天皇は17才で亡くなったので子どもがいませんでした。ここで皇統が断絶しかけます。
そこで大連の大伴金村(おおとも の かねむら)が、都からはなれて住む天皇の子孫たちを探します。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
まずは、丹波(京都・大阪・兵庫の境界付近)にいた第14代 仲哀天皇の5世の孫・倭彦王(やまとひこ の おおきみ)に武装した使者を送ります。
倭彦王は『殺される!』とビビッて山の中に逃げてしまいました。
次に金村は、越前の三国(福井県)にいた第15代 応神天皇の5世の孫・男大迹王に即位をお願いします。
男大迹王は、疑いながら河内の樟葉宮(大阪府牧方市)に移りましたが、
断っちゃいました。そこで金村たちは、
粘りに粘ってようやく即位しました。継体天皇は57才でした。
後継者がいない原因は第21代 雄略天皇。
気に入らないことがあると、ことごとく人を殺すような性格で、天皇に即位するために兄を殺した。
まわりの人を殺しまくったので、天皇になれるような人が都にいなくなる。
もはや赤の他人?
『5世の孫』というワードにピンとこないと思います。
継体天皇は先祖の応神天皇が11代前の天皇で、今の天皇から見ると、暴れん坊将軍・徳川吉宗の時代の第115代 桜町天皇くらいはなれています。
江戸時代中期に皇統からはなれた、どこかの地方に住んでいる人を、いまから天皇として連れてくるようなもの。
ちなみに5世の孫は、あの平将門(たいら の まさかど)と同じ。平将門が急に京都に連れてこられて天皇になると考えると、どれだけ遠いんだ? というのが分かります。
正直、『お前だれ?』でしょう。赤の他人です。写真も映像もない、おそらく紙もない、情報が極端に少ないので余計に。
世代の数え方(1世, 2世...)
『〇世』は、本人を1世として数える。5世は玄孫。
本人 | 1世 |
こども | 2世 |
孫 | 3世 |
ひ孫 | 4世 |
玄孫(やしゃご) | 5世 |
『〇世の孫』は〇世孫のことで、本人の次(こども)を1世として数える。5世の孫は『玄孫のこども』。
『5世の人の孫』ではないことに注意。
本人 | - |
こども | 1世の孫(1世孫) |
孫 | 2世孫 |
ひ孫 | 3世孫 |
玄孫 | 4世孫 |
来孫(らいそん) | 5世孫 |
天皇に即位してから19年ヤマトに入れない
継体天皇は即位してから19年間、首都のヤマト(奈良)に入っていません。大阪で転々と引っ越しをくり返します。
507年 | 樟葉宮に入る。(大阪) |
511年 | 筒城宮に入る。(大阪) |
518年 | 弟国宮に入る。(大阪) |
526年 | 磐余玉穂宮に入る。(奈良) |
これには、ヤマトの相当な反発があったと想像できます。だって『だれだ? お前。』ですから。
そして継体天皇は、すでに妻や子供がいるのに皇后を迎えます。手白香皇女(たしらか の ひめみこ)です。
手白香皇女は先代・武烈天皇の姉。
それだけ継体天皇の血統があやしいので、ヤマトの人を納得させるための入り婿の結婚でした。
継体天皇はマスオさんです。
人柄はパーフェクト
継体天皇は人柄がよく、農業や養蚕(ようさん)をサボると国が栄えないと、福井から連れてきた妻と一緒に自分からすすんで作業したといわれます。
(皇后は迎えたけど元からの妻と離婚していない。正妻の座ですらなくなったのかもしれない。これはこれで屈辱だが。)
そのおかげで継体天皇の時代は好景気だったようです。また、ヤマトの臣下の評価は上々でした。
べた褒めです。
筑紫磐井の乱
継体天皇といえば朝鮮半島の外交です。朝鮮半島では新羅(しらぎ)が百済(くだら)を攻めて領土を奪いました。
その百済から任那の4県を譲ってほしいと頼まれて、大伴金村は了承します。しかし今度は、任那が急激に弱くなり新羅に降伏しました。
任那(みまな)
もともと朝鮮半島中南部に小国家群(馬韓)があり、3~6世紀中ごろは加羅(から)、もしくは伽耶(かや)と呼ばれた。
その一部にあった倭人の支配エリアを任那という。
任那は日本からみた呼び名で、加羅全体を指しているのか、倭人エリアだけを指しているのかよく分からない。
前はヤマトの飛び地(ヤマト領)といわれたが今ははっきりしない。少なくともヤマトに強く影響を受けた倭人が支配していたらしい。
ヤマトは何度か朝鮮半島に兵を送り戦争をしているが、任那の支配権をめぐって新羅や高句麗と対立したのが原因。
百済は親・任那だったので、ヤマトと連合を組むことが多かった。
継体21年、新羅に対抗するため近江の毛野臣(けな の おみ)が率いる6万の兵を任那へ送ります。
一方、新羅は交流のあった筑紫(福岡)の国造磐井(くにのみやつこ いわい)にワイロを贈って決起をすすめます。
磐井は前からヤマトに反逆するチャンスを待っていました。
国造と県主(くにのみやつこ。あがたぬし)
第13代 成務天皇の時代に作られたといわれる。日本ではじめて作られた地方の行政組織。(当時はヤマト王権)
国造 | 県知事。地方裁判所の最高判事。県警本部長。 |
県主 | 市長。 ヤマト周辺では王権の直轄地の長。 |
ヤマト王権から派遣する、もともと地方にいた豪族や集落の長を任命するなど、ケースバイケースで決めていた。
都道府県、市区町村のような地方の区割りもできた。
国 (くに) | 都道府県 |
県 (あがた) | 市区 ヤマト周辺は王権の直轄地 |
邑里 (むら) | 町村 |
山や川で国と県を分け、東西南北の道で集落を邑里にまとめた。もともとの豪族の領域、集落などを分断したものではない。
(ある程度はあっただろうが。)
磐井は決起して毛野軍を止めます。それに対し天皇は、物部麁鹿火大連(もののべ の あらかひ の おおむらじ)を派遣して磐井を討ちました。
これが古代の有名な戦『磐井の乱』です。
結局、筑紫の鎮圧だけで終わり朝鮮半島には渡れませんでした。3年後、継体天皇は病気で亡くなります。
継体天皇は王朝交代?
継体天皇には王朝交代説があります。あれだけはなれた血統は、ふつうは赤の他人だと思うから。
でも継体天皇はマスオさんです。マスオさんは磯野家を乗っ取っていません。それと同じです。継体天皇は入り婿。
(サザエさんは磯野家とフグ田家の同居で、ほんとうは入り婿じゃないけど。)
ぼくはこれを『第2マスオさん期』と呼んでいます。継体天皇の福井時代の2人の息子も天皇になりますが、2人の皇后も仁賢天皇の娘(武烈天皇の姉?妹?)です。
仁賢系統に引き入れようと必死。このときの天皇は『仁賢家』にこだわっています。
ただし、まわりの評価はどう見ていたかは別。ちなみに、このページの最初の画像が肖像画ではなく銅像なのに気づいたでしょうか?
継体天皇と福井時代の二人の息子(安閑天皇・宣化天皇)には肖像画がありません。
後世の人間が、正当な皇統としてどこか認めていないところがあるのかも。
継体・安閑・宣化の皇后は仁賢天皇の娘だが、この仁賢天皇もマスオさん。
仁賢天皇は幼い頃、命の危険から逃亡し大阪で豪族の使用人になっていた。大人になってから都に戻り天皇になった波乱万丈の人。
この人の素性も怪しく、マスオさんじゃなきゃいけなかった。
だから『第2』マスオさん期。
いまの天皇の皇位継承の問題で、天皇は男のDNA(家)で受け継がれてきたと言い張る人たちがいますが完全なまちがい。
だってこの時代は、男の家よりも女の家のほうが大事だったので。はっきり言って『女系』のほうが強い。
ただ女系の結婚相手として男系にもこだわっている。わざわざ臣下が天皇の血筋を求めて日本中旅をしているくらいなので。
ほかにも肖像画がない天皇はいる。その天皇は何かしらワケあり。
在位期間が短い。暗殺されたなど。
中国の男系主義から見れば、継体天皇で王朝交代が起きています。婿入りを認めるかどうかがポイント。