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第42代 文武天皇。日本誕生の手柄をもらったラッキー男。25才で早死して好環境を活かせず。

emperor monmu image

歴代天皇 - (律令)国家・日本を作った天皇たち -

第42代 文武天皇(もんむ)は大宝律令の天皇として有名ですが、これらのシステムを作り上げたのは先代でおばあちゃんの持統上皇です。

政権の人材もおばあちゃんが用意してくれ至れり尽くせりの好環境だったのに、25才で亡くなってしまい活かせませんでした。

古代 飛鳥時代

  • 皇居
  • 藤原宮
    (ふじわらのみや)

  • 生没年
  • 683年?月?日 ~ 707年6月15日
    天武天皇12 ~ 慶雲4
    25才
  • 在位
  • 697年8月1日 ~ 707年6月15日
    文武天皇元 ~ 慶雲4
    11年
  • 名前
  • 軽(珂瑠)
    (かる)
  • 別名
  • 倭根子豊祖父天皇
    (やまとねことよおほぢ の すめらみこと)

    天之真宗豊祖父天皇
    (あめのまむねとよおほぢ の すめらみこと)

  • 草壁皇子
    (くさかべ の みこ)

  • 皇夫人
  • 藤原宮子
    (ふじわら みやこ)

    藤原不比等の娘
    (ふじわら ふひと)

  • その他

文武天皇 系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

最強ばあちゃんのレールに乗っかる

文武天皇の父・草壁皇子(くさかべ の みこ)は、皇太子で先々代・天武政権のトップでした。

摂政だったと言われる。)

しかし、草壁は20代で亡くなってしまいます。それを引き継いだのが草壁の母で文武天皇のおばあちゃん、持統天皇

持統天皇は孫に皇位をゆずるために国づくりを進めました。そして、完成の目処が立ったので退位します。

文武天皇の即位です。このとき15才。

持統天皇は上皇になり文武天皇のバックアップをします。

若年での即位のはじまり

15才の即位は、そのあとのことを知っているボクたちには違和感がないですが、この若さでの即位は異例中の異例。

古代の天皇は『長老であること』が基本です。35才が即位の適齢期ともいわれるほどで、30才前後でも若年、経験不足を理由に即位辞退した人もいるくらい。

聖徳太子のお祖父ちゃんの欽明天皇は、30才間近で即位の打診を辞退しました。そして代わりに推したのは皇太后。

女帝の擁立をいうほど嫌がっています。古代の皇位継承には女帝の擁立に躊躇しません。

史上初の女帝は推古天皇ですが、それより前にも、欽明天皇も含めこういう話は当たり前に出てきます。

『天皇は男じゃないとダメ。』と伝統を振りかざす人がいますが、笑うしかない。歴史を知らなすぎる。

話がそれました。

文武天皇の即位は、若年でも天皇になれる前例を作りました。平安時代にはそれがスタンダードになるほど。

これができたのは持統上皇が用意した律令制度のおかげ。律令制度は法治だから天皇の裁量はそこまで必要ない。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

文武政権はほとんど持統政権

持統上皇は文武天皇に皇位をゆずっても、天皇の隣にすわり政治を行ったと言われます。

(玉座がふたつ並べられていたとも言われる。)

文武政権は11年ですが、そのうち5年は持統上皇がいました。

15才の天皇に政治が分かるはずもありません。持統天皇は戦争の参謀をつとめるほどだったので、政治は上皇の力でしょう。

大宝律令を施行してすぐに上皇は亡くなりました。孫の政権がひと区切りしたのを見て安心したかのように。

文武政権は至れり尽くせり

先々代・天武天皇の政権は天武の息子を中心にした皇親政治です。持統政権もそれを引き継ぎました。

持統政権では経験の浅い皇子たちでしたが、文武政権では成長し中心になっていきます。

持統天皇は国家づくりだけでなく、政権の人材育成まで孫のために用意していました。

文武政権メンバー
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工 ※ 青印は文武朝の政権メンバー。 ※ バツはすでに死亡。
忍壁皇子
(おさかべ の みこ)
文武政権のナンバー1。
残った皇子の最年長者。

大宝律令の撰定作業の責任者。
知太政官事になる。
穂積皇子
(ほずみ の みこ)
文武政権のナンバー2。
忍壁の死後、知太政官事になる。
舎人皇子
(とねり の みこ)
天武の息子でないため突き抜けられなかったか?
次の元明政権では知太政官事になる。

『日本書紀』の編集長。

能力はハイスペックだったらしい。
磯城皇子
(いそき の みこ)
大宝律令の位階を受けてない。

文武政権のはじめに死亡?
もしくは持統時代に死んでいたか?
葛野王
(かど の おおきみ)
天武系の敵の大将・大友皇子(おおとも の みこ)
の長男。

優秀だったようだが上に行けない。
新田部皇子
(にいたべ の みこ)
藤原鎌足の孫。

藤原不比等の出世にリンクして成り上がったか?
不比等は娘・宮子を文武天皇の正妻に送り込む。

藤原氏は文武天皇から力をもち始める。
長皇子
(なが の みこ)
天武の子、天智の孫で、血筋はピカイチだがぱっ
としない。

母の身分が低い兄たちを追い抜くほど優秀ではな
かったか?
弓削皇子
(ゆげ の みこ)
文武政権の最初の頃に27才で亡くなった。

軽皇子(文武天皇)を皇太子にする会議で、葛野
王に一喝されたエピソードをもつ。
(長皇子を推したか?)
施基皇子
(しき の みこ)
天武天皇からの最古参メンバーなのに、ひとりだ
位階をもらってない。

文化人として生きた。
この皇子の子孫がいまの皇族。
知太政官事(ちだいじょうかんじ)

第42代 文武天皇から第45代 聖武天皇の間に置かれた令外官

律令政治の太政官を監督するマネージャー職。

左大臣よりも上。)

有力な皇族が務めた。

だれが?就任時期
忍壁皇子
(おさかべ の みこ)

天武天皇の子。
703年(大宝3)~ 705年(大宝5)。

第42代 文武天皇
穂積皇子
(ほずみ の みこ)

天武天皇の子。
705年(大宝5)~ 715年(和銅8)。

第42代 文武天皇
第43代 元明天皇
舎人皇子
(とねり の みこ)

天武天皇の子。
720年(養老4)~ 735年(天平7)。

第44代 元正天皇
第45代 聖武天皇
鈴鹿王
(すずか の おおきみ)

高市皇子の次男。
天武天皇の孫。
737年(天平9)~ 745年(天平17)。

第45代 聖武天皇

このときすでに太政大臣があったが、前例の大友皇子(おおとも の みこ)、高市皇子(たけち の みこ)のように、皇太子に匹敵する人でないとなれなかった。

太政大臣を置くと皇太子と並び立つので、皇位継承争いを避けるため知太政官事を置いたとも言われる。

じっさい、知太政官事がいたときの太政大臣は不在。

藤原氏の台頭で皇親政治が終わると同時に無くなった。

(その後、太政大臣は皇族でなくてもなれるようになる。)

結局、歴代知太政官事は第40代 天武天皇の子が務めた。

(最後の鈴鹿王だけ孫。)

本格的な律令政治を始めた天武天皇の威光があるうちだけの役職だったとも言える。

(天武天皇は皇親政治を始めた人でもある。)

令外官(りょうげのかん)

律令制度の令(行政法)にない官位のこと。特別職。臨時職。

にある(令にない)位』。摂政関白太政大臣内大臣など。

正式な官位じゃないので比較的自由な立場で仕事ができた。また、正式な官位と兼務ができた。

第50代 桓武天皇は軍政改革で、征夷大将軍検非違使を新たに作った。

律令制は法が現実に合わなくなってもそのままにして、新しい法を追加して臨機応変に変えていくので、それにならって令外官も都度追加された。

ただ、正式な官位よりも重要なものも多い。

文武天皇の即位は想定外?

文武天皇は駆け足で天皇になります。697年3月に皇太子になり5ヶ月後には即位しました。

おそらく持統政権の人材不足が原因だと思われます。持統政権では天武天皇からの人材が上から順にいなくなっていました。

1草壁皇子
(くさかべ の みこ)
言わずとしれた政権ナンバー1。
28才で病死。

文武天皇の父。
2大津皇子
(おおつ の みこ)
草壁に負けず劣らずの優秀な人。
謀反の疑いをかけられ25才で死亡。

草壁の1才違いの弟。
3高市皇子
(たけち の みこ)
持統政権の太政大臣

草壁の兄で天武の長男。
母の身分が低いため弟たちの下にい
た。

史上二人目の太政大臣
このときの太政大臣は、皇太子と同
格に見られるくらいの威力がある。

696年、42才で亡くなる。

高市皇子が亡くなったとき、持統天皇は55才くらいなのでショックだったはずです。はるかに年下の人が死んでいくので。期待していたその上の皇子は二人とも若死にだし。

(大津を殺したのは持統天皇なので自業自得でもあるが。)

持統天皇のスケジュールは破綻しまくりでした。

草壁天皇、その補佐を大津。 -> 大津の謀反で挫折。

草壁天皇から文武へ。 -> 草壁の病死で挫折。

持統・高市で粘りに粘って文武へ。 -> 高市の病死で挫折。

ここまで想定を外した人はなかなかいません。

高市が亡くなってすぐに皇子たちを集め、皇太子をだれにするか話し合えと命令をしているので、このとき覚悟したでしょう。

『孫のとなりにいて、天皇と皇子たちをまとめて教育しよう』と。

持統天皇は、院政のかたちを最初にした人とも言われる。人材不足を補うための苦肉の策だった。

近親結婚が終わる

文武天皇から天皇の近親結婚が終わります。正妻は藤原不比等の娘・宮子(みやこ)。

『近親結婚は寿命が短いから』と言われますがボクも同じ意見です。天武天皇の息子たちはたくさんいるのに、長生きした人は多くありません。

天武・持統・文武政権を見てもわかります。長生きしてトップを務めた人は母の身分が低い皇子ばかり。

草壁28才で病死。
大津25才で殺される。
舎人59才で亡くなる。
天武の子・天智の孫のなかでは長生きした。
40代半ばから50代前半か?
長生きのわりに実績ゼロ。
弓削27才?
若死にだったらしい。
天武の子で天智の孫。近親婚の皇子たち。緑が早死。
高市42才?
母の身分はかなり低い。
持統政権の太政大臣
忍壁壬申の乱にも参加したので古株?
40代から50代まで生きたか?
母の身分はかなり低い。
文武政権のトップ。
磯城大宝律令施行前の30才前後で亡くなる?
長生きしていない。
忍壁の同母弟。
新田部藤原鎌足の孫。
第45代 聖武天皇の時代まで生きた。
のちに藤原四兄弟と争った皇親勢力の中心に
なる。
穂積天智政権の左大臣蘇我赤兄(そが の あか
え)の孫。

40代前半まで生きた?
文武政権で知太政官事までなったので優秀。
天武の子で母の身分が低い皇子たち。緑が早死。
壬申の乱(じんしんのらん)

天智天皇の弟・大海人皇子(おおあま の みこ)と息子・大友皇子(おおとも の みこ)のだれが天皇になるのかの争い。

古代最大の内乱。

両軍ともに皇位継承権のある皇族が大将になり指揮した戦で国を2分した。日本の歴史上、ここまで国を分けた戦いはない。

大海人皇子は皇太弟、大友皇子は太政大臣だった。

天智天皇は大海人皇子を指名したが、皇子が断って吉野(和歌山)に引っ込んだことが原因。

672年(天武元)7月24日、大海人皇子は、大友皇子に反乱の罪をきせられると思い、先手を打って挙兵、勝利して第40代 天武天皇になる。

どっちが裏切ったのか、正義があるのかは意見が分かれる。

古代の資料は日本書紀・古事記からだが、天武天皇が号令をかけて作られたので、大海人皇子に都合の悪いものは書けなかったともいわれる。

(ここに書いた内容も日本書紀から。)

大友皇子は、歴代天皇に入ってなかったが、明治3年、明治天皇が『弘文天皇』という諡をおくって歴代天皇に加わった。

いまは、どっちがよかった、悪かったという評価ができるほど事実が分かっていない。

近親結婚を終わらせたのは持統上皇?

文武天皇は即位してすぐに宮子を正妻に迎えているので、それを決めたのは持統上皇です。

天武の子で優秀なのは母の身分が低い。

天智の孫は優秀な人が少ない。

(もしくは文武のライバルなので外した可能性あり。)

天武の子は全体的に短命。

持統上皇は『将来は文武天皇の息子を天皇に』と考えるのが自然で、周りの皇子たちを見て、元気で賢そうな子供を産みそうな人を選んでも不思議ではありません。

藤原氏は、中臣氏のころから天皇に仕えていた古株の氏族ですが、天皇の妻に娘を送るような氏族ではありませんでした。

持統上皇は、新しい血を入れたら変わると思ったのかも知れません。

文武天皇が短命

文武天皇は在位11年、25才で亡くなります。やっぱり天武の血筋は短命ですね?

もちろんですが想定外でした。ここでウルトラCが炸裂します。

次の天皇は文武天皇の母・元明天皇。元明天皇は持統上皇の妹です。

子から親への皇位継承は歴代天皇の中でもこれしかありません。

『あれだけいる皇子たちはどうした?』と思いますが。

文武天皇は文武両道

文武天皇はゆったりとした性格で怒ることもなく、儒教や歴史書を読むのが大好きな人だったようです。

かと思いきや弓の達人で、ただのインドア派ではない優秀な人でした。病弱なわりに。

文武両道(ぶんぶりょうどう)という言葉がありますが、文武天皇はまったく同じ字。

諡(おくりな)になるほどなので、『名が体をなす』の人だったようです。

文武天皇には暗殺説を唱える人もいる。歴史学では認められてないと思うけど。

この時代は皇子たちの殺し合いが多く、また文武がいなくなれば、天皇になれそうな人たちが政権に何人もいたから。

圧倒的なリーダーの持統上皇がいなくなってすぐに文武天皇は亡くなったので、暗殺されても不思議はないが証拠はない。

藤原氏の成り上がり

先代・持統政権では藤原氏はあまり目立ちません。不比等は優秀だったようですが、天皇の息子たちの政権では出る幕がなかったのでしょう。

でも、文武天皇に娘を嫁がせてグイグイやってきます。

(文武天皇の息子・第45代 聖武天皇は藤原氏の血筋をもった最初の天皇。)

これが、平安時代に藤原氏が調子に乗りまくるきっかけになります。

大宝(たいほう)ってなんだ?

大宝律令の大宝は元号です。大宝律令の撰定がはじまった701年、対馬から金がでたという話があり、それはおめでたいことだとなって、『きな』の大宝に元号を改めました。

大宝律令の施行はその次の年なので縁起がいいと思ったのでしょう。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

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天皇・皇室の本

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