歴代天皇 - (律令)国家・日本を作った天皇たち -
第45代 聖武天皇(しょうむ)は、東大寺の大仏などを建立した有名な天皇ですが、病弱で天皇の仕事は先代の元正上皇に丸投げでした。
仏教オタクといってもいいです。そのオタクぶりが、いまの日本の大切な遺産になっています。『オタクが世界を変える』の典型の人。
古代 奈良時代
- 皇居
平城宮
(へいじょうきゅう)
- 生没年
- 701年?月?日 ~ 756年5月2日
大宝元 ~ 天平勝宝8
56才
- 在位
- 724年2月4日 ~ 749年7月2日
神亀元 ~ 天平勝宝元
26年
- 名前
- 首親王
(おびと の しんのう)
- 別名
天璽国押開豊桜彦天皇
(あめしるしくに おしはらき とよさくらひこ の すめらみこと)勝宝感神聖武皇帝
(しょうほう かんしん しょうむ こうてい)
- 父
第42代 文武天皇
(もんむ)
- 母
藤原宮子
(ふじわら みやこ)藤原不比等の娘
(ふじわら ふひと)
- 皇后
藤原安宿媛
(ふじわら あすかべひめ)光明子
(こうみょうし)光明皇后
(こうみょう こうごう)藤原不比等の娘
(ふじわら ふひと)
待ってましたの即位
先代・第44代 元正天皇、その前の第43代 元明天皇のふたりの女帝は、首皇子(おびと の みこ。のちの聖武天皇)を即位させるために天皇になり、ふんばりました。
(元明天皇は在位9年。元正天皇は10年。)
聖武天皇は7才で父を失い、元明政権のとき14才で元服し皇太子になります。(714年, 和銅7)
そして24才のとき即位しました。(724年, 神亀元)
藤原氏にとっても『待ってました』
聖武天皇は、はじめて藤原氏の母をもつ天皇です。藤原不比等の孫で、そのとき不比等は右大臣。
(右大臣の上には左大臣、太政大臣があるが、このときは実質、不比等がトップ。)
太政官(だいじょうかん)
律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。
四等官 | 官位 |
---|---|
長官 (かみ) | 太政大臣(令外官) 左大臣 右大臣 内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活) |
次官 (すけ) | 大納言 中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活) 参議(令外官) |
判官 (じょう) | 少納言など |
主典 (さかん) | 省略 |
左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。
最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。
最初の太政大臣は大友皇子。
(その後、平清盛、豊臣秀吉など)
太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。
明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。
明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。
内閣の一員 -> 大臣(だいじん)
官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)
日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。
首相 = 総理大臣
財務相 = 財務大臣
○○相 | イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳 |
○○大臣 | 太政官の名残り。日本だけ。 |
政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。
ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。
大臣は『天皇の臣下のリーダー(大)』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。
不比等は聖武天皇が即位したときにすでに亡くなっていましたが、藤原氏が待ちに待った即位です。
聖武天皇の時代は、天皇の藤原の血筋を利用して不比等の息子たちが皇族の政治家たちを押しのけて権力をつかんでいきます。
もともと聖武天皇は政治でリーダーシップを取る人ではないので、どうでもいいと思っていたようですが。
聖武天皇が生まれてすぐ、母・宮子(みやこ)は心を病んでしまい、別々に暮らしていた。
再会したのは聖武天皇が38才のとき。
母は、はじめて藤原氏から出した皇夫人なので、いろんなイジメを受けていたのかもしれない。
当時の藤原氏は、権力をもっていたのは不比等だけで、そこまで大きな力をもっていなかったので。
(皇夫人は天皇の正妻のひとつ。皇后よりワンランク低いが側室ではない。)
聖武天皇の政権は院政
聖武天皇は子どものころから病弱で、政治ができないほどだったと言われます。政治は先代・元正上皇に丸投げ。
元正上皇は聖武天皇が退位する1年前まで生きていたので、聖武天皇の時代はほぼ元正上皇の時代です。
そのため皇族が政治をする皇親勢力と藤原氏の権力闘争、そして仏教の話が多く、政治家・聖武天皇が見えません。
見えないのではなく、そもそも政治家・聖武天皇はいませんでした。
だって、政治を見ていたのは女帝の元正上皇だから。それはまるで、平安時代の院政そのものです。
(その上皇も、政治は皇親勢力と藤原氏におまかせだったが。)
皇親勢力は、皇親政治の中心だった皇族の政治家たちのこと。
聖武天皇の時代は皇親政治から、のちの藤原氏中心の貴族政治への転換点で、皇族の政治家と藤原氏の貴族が混在していた。
皇親は旧勢力で藤原氏が台頭してきた新勢力。
上皇が死んだらすぐ退位
聖武天皇は政治を丸投げした上皇が亡くなると(748年, 天平20)、1年も経たないうちに退位します。
(749年, 天平感宝元)
藤原氏が皇親勢力をつぶし、その藤原氏の上の人たちが疫病で立て続けに死んで、今度は藤原氏の復権を狙った挙兵があったりと、『政治はめんどくせー』と思っていたのでしょう。
自分がひとりで前面に出て、リーダーシップを取るのが嫌だったのかも知れません。
父の丸投げは娘へ
聖武天皇が政治を丸投げする相手は女性ばかりです。叔母さんの上皇が亡くなったあとに天皇にしたのは、娘の阿倍内親王(あべ の ないしんのう)でした。
孝謙天皇の即位です(女帝)。このとき32才。
(退位した聖武上皇は49才。)
阿倍内親王は20才で皇太子になっていました。まだ元正上皇がいたので、最終的に皇太子を決めたのは上皇でしょう。
阿倍内親王は、歴代天皇の中ではじめて女性が皇太子になりました。すぐに即位してないので緊急登板でもありません。
(歴史上、女性皇太子はこれ以外に現れていない。ただ一人。)
一応、聖武は天皇の後見として上皇になりましたが、天皇時代に人任せだったので、そこまで積極的に政治をしたとは思えません。
(仏教のことになるときだけ積極的だった?)
聖武天皇は、なぜ男の子を皇太子にしなかったのか?
聖武天皇は皇太子をひとり亡くしてます。基王(もといおう)です。生まれてすぐ皇太子になりましたが、1才にならないうちに亡くなってしまいました。
この時代の皇太子は政治のトップでもあるので、幼児を皇太子にするのは珍しい。
というか初と言ってもいい。これが平安時代の当たり前につながる。
そのあと、718年(養老2)に阿倍内親王(あべ 。のちの孝謙天皇)が生まれ、10年後、安積親王(あさか)が生まれます。
この安積、聖武天皇の唯一の息子なのに皇太子になっていません。皇太子になったのは姉の阿倍。(738年, 天平10)
このとき阿倍は20才。
いろんな理由があったにしても、この時代は天皇の子どもで男女の序列はありません。
聖武天皇は早く退位したくて、あと10年、待てなかったのでしょうね?
(もしくは、早めの皇太子には基王のトラウマがあったか?)
当時の皇太子は政治経験が必要なので、すぐには即位しないこともある。10年以上の修行期間はあたりまえ。
(皇親政治は皇太子がトップを務める。)
また聖武天皇は、母が藤原不比等の娘で皇后も不比等の娘。叔母さんと結婚した。
ここまで藤原色が強い天皇は聖武天皇が最初。
(平安時代にはあたりまえになる。)
安積は、光明皇后(こうみょう。藤原不比等の娘)が産んだ子ではないので、優先順位が低かった、藤原氏の血が入ってないのが許されなかったなどの理由があるよう。
(安積の母は県犬養広刀自(あがたの いぬかい の ひろとじ))
安積は大阪の旧都を訪れる旅の途中で17才で亡くなる。
あまりの急死に、非藤原系を排除したい当時の最大実力者・藤原仲麻呂(ふじわら なかまろ)が下した暗殺説もある。
基王はいなかった説がある。
『天皇の息子は親王のはずで、なんで王?』
『名前すらなくて、某王(なにがし)の誤字じゃないか?』
など言われている。
昔は天皇の子どもに男女の区別がないところが、いまの皇位継承問題で、ボクが女性天皇・女系天皇・女性宮家に賛成する理由のひとつ。
聖武天皇の功績は仏教
日本全国には、国分寺(こくぶんじ)という寺、地名、駅名があります。この国分寺を全国に作るように命令したのが聖武天皇。
国を守る力が仏教にはある。
(鎮護国家(ちんごこっか))
災いを鎮めて幸せをもってくるのも仏教。
(鎮災到福(ちんさいとうふく? 読み方がワカラン。))
を広めるために。聖武天皇の狙いは仏教の力で国をまとめることでした。
その割に自分の政権はコントロールできませんでしたが、天皇は天皇なりに政治をがんばろうとしていたのが分かります。
(大好きな仏教を絡めたからやる気になったか?)
また、東大寺の建立をはじめたのも聖武天皇です。奈良の大仏の産みの親ですね?
(完成したのは次の孝謙天皇のとき。)
嫁が大好き聖武天皇
聖武天皇の仏教マニアぶりは、皇后の光明子の影響が大きいと言われます。東大寺と国分寺の建立も皇后の助言があったからとか。
大好きな嫁のことは何でも聞いてたみたいですね?
だから、『あたいの兄さま、甥っ子も頼むわよ』と言われて断れなかったのでしょう。
藤原氏が政権を取るのにこんなに心強いことはありません。だから当時、皇族の政治家のリーダーだった長屋王(ながや の おおきみ)はムカついていました。
掟破りの皇后・光明子
これまで天皇の皇后は、皇族から出さなければいけませんでした。
(皇族以外の天皇の正妻は皇夫人。皇夫人は正妻でもランクは皇后の下。)
それを破ったのが聖武天皇です。即位してすぐ、藤原不比等の娘・安宿媛(あすかべひめ)を皇后に迎えました。
(ちなみに、聖武天皇の母・宮子(みやこ)は文武天皇の正妻ですが、藤原不比等の娘で皇夫人。皇后になってない。)
このとき不比等はすでに亡くなっていて、不比等の息子たちにはまだ、これをプッシュする力はありません。
それに、左大臣になってイケイケの長屋王がいました。また宮子は、聖武天皇を産んですぐ精神を病んだしまったので、発言力がありません。
臣下から出た初の皇后・光明子(こうみょうし)に、藤原氏の圧力はないと思います。近親結婚はあまり良くないことに気づいていたのかも?
なんで四文字元号?
光明皇后は、中国の唯一の女帝・武則天(ぶそくてん)にあこがれていたと言われ、それが元号にも影響しました。
(690年即位。40年前ぐらいの話)
武則天は、則天武后(そくてんぶこう)とも呼ばれる。
690年、息子の皇帝・睿宗(えいそう)から皇位を奪って即位した。
国名も唐から周(武周)に変える。
武則天は4文字の元号を3回も使います。
(中国の元号は文字数に決まりはない。なんとなく2文字。)
日本の元号もほとんど2文字ですが、光明皇后の影響がある時代だけ4文字です。
年号 | 天皇 | |
---|---|---|
神亀 (じんき) | 聖武 | 聖武天皇の即位で改元。 |
天平 (てんぴょう) | 聖武 | 『天王貴平知百年』 (天皇の政治は貴く(とうとく)、平和で百年続く) が書かれた亀が献上された。 これがめでたいとなって改元。 |
天平感宝 (てんぴょうかんぽう) | 聖武 | 陸奥国(むつ。とうほく)から黄金が献上された。 これがめでたいとなって改元。 |
天平勝宝 (てんぴょうしょうほう) | 孝謙 | 孝謙天皇の即位で改元。 |
天平宝字 (てんぴょうほうじ) | 孝謙 淳仁 称徳 | 蚕(かいこ)がめでたい文字を書いたので改元。 |
天平神護 (てんぴょうじんご) | 称徳 | 称徳天皇の重祚で改元。 |
神護景雲 (じんごけいうん) | 称徳 | おめでたい雲が出てきたので改元。 |
宝亀 (ほうき) | 光仁 | 光仁天皇の即位で改元。 聖武系(天武系)から天智系に移る。 聖武天皇のひい祖父さんの孫が光仁天皇なので、血縁 は遠い。 |
重祚(ちょうそ)
一度退位した天皇が再び天皇になること。二度目のときの名前は新しくつけられる。
男性天皇は1人も重祚していない。女帝だけ。
皇后もだんなが大好きだったようで、聖武天皇が改元した『天平』の2文字を使い続けました。
皇后は760年(天平宝字4)に亡くなるので、天平神護、神護景雲には関わっていません。でも称徳天皇は、孝謙天皇と同一人物で、聖武天皇と皇后の娘です。親に似て仏教マニアでした。
神護景雲は、孝謙天皇時代から気分を一新するため思い切って『天平』をはずしたのか?
聖武系の終わりが分かっていたので『もういいや』になったのか?
(4文字は継承。)
聖武系が終わった光仁天皇から2文字になります。これから令和まで、ずっと2文字。
第47代 淳仁天皇(じゅんにん)は、淡路廃帝(あわじはいてい)とも言われ、長い間、天皇として扱われていなかった。
(淳仁天皇は、舎人皇子(とねり)の息子・天武の孫で天武系だが、聖武系ではない。)
クビにしたのは孝謙上皇。
(このとき、恵美押勝(えみ の おしかつ。名前を変えた藤原仲麻呂)を斬首。)
淳仁天皇は幽閉先から脱出したが翌日に亡くなる。暗殺説もある。
歴代天皇に加えられたのは明治3年。
聖武天皇も上皇になって院政
聖武天皇は26年も天皇でしたが、最後の1年間をのぞいて元正上皇がいました。そして、聖武天皇も次の孝謙天皇の上皇になり後見人になります。
孝謙天皇の10年の在位のうち8年も聖武上皇はいました。これも院政です。
院政は平安末期のことを一般的には言いますが、大宝律令が完成してから、天皇の早めの引退がはじまっています。
聖武天皇もそれにならいました。ただ、もともと病弱で政治でリーダーシップを取るタイプではないので、どのくらい後見していたかは分かりません。
孝謙天皇は女帝ですが、政治でリーダーシップを取るタイプなので、ほんとうに後ろで見ていただけかも?
聖武上皇は、756年(天平勝宝7)に56才で亡くなります。亡くなる4年前に東大寺大仏の完成した姿を見れたので、仏教マニアとしては幸せな最後だったでしょう。
聖武は、男帝ではじめて譲位をし上皇になった人。
聖武天皇が力を入れた仏教で花開いたものを天平文化(てんぴょうぶんか)と言う。
はじめて出家した上皇
聖武天皇は退位して上皇になってすぐ出家したと言われます。
当時はまだ、『太上法皇(法皇)』(だじょうほうおう)という称号はありませんが、神道の祭主が仏教徒になるという、とんでもないことをしました。
平安時代になると、
天皇の生前退位。
上皇になる。
出家して法皇になる。
の流れがあたり前のように起きますが、これがなければ『法皇』という常識もできなかったでしょう。
歴代の天皇では出家して仏教徒になるのが普通。
その常識が無くなったのは、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で神道と仏教を分けるようにしたため。
仏教徒の天皇経験者を見れない今のほうが歴史では稀(まれ)。
『オタクが世界を作る』の典型
エジソン
ビル・ゲイツ
スティーブ・ジョブズ
イーロン・マスク
彼らに共通しているのは、誰も見向きもしないころから一つのことに没頭して、イケると思った瞬間、資金を集めて一気に作り上げて非常識を常識にするところです。
聖武天皇もそんなタイプ。ただ聖武天皇は、最初から『天皇』の地位があったので資金を集めて実行するのがかんたんでした。
興味がない、自分に向いていないことは人任せにするところも同じです。聖武天皇ではそれが政治でした。天皇の一番の仕事なのに。
だから、親戚の皇親政治と家族の藤原氏の政治のちがいはどうでもよかったのかも?
どこまでも藤原氏に有利なことをする
聖武天皇は、藤原氏の台頭を許し(むしろ歓迎してたっぽい)、藤原氏のために動く人でしたが、政策でもしました。
743年(天平15)、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を施行します。
これまで土地はすべて国家のもので、それを民にレンタルして税を徴収していましたが、この法律は自力で開墾したものは自分の土地にできるもの。
力のあるものはどんどん私有地を増やしていけます。藤原氏にはこんなありがたいものはありません。
民がサボって土地が荒れ果てたから。
という理由で作りましたが、じっさいは民のモチベーションを下げる政策にあります。
三世一身法
この法律の20年前、土地についての法律が変わっていました。三世一身法(さんぜいっしんのほう)の施行です。
(元正天皇のとき。723年, 養老7)
これは民へのレンタル期間が1代限りだったのを3代まで保証したもの。
(自分がレンタルされたら孫まで。子を1世としてひ孫までという説もある。)
1代だと、せっかく良い畑を作ってもすぐに返さないといけないので、民のモチベーションがだだ下がりでした。
ただ、この法律は『開墾と一緒に灌漑施設(水路など)を作ること』というハードルの高い条件つきなので、ふつうの民には手が出せません。
結局、藤原氏や寺社などの力のある人が、逃げ出した民を雇って大規模工事をしていました。
墾田永年私財法は現状の後追い
三世一身法で得をしていたのは力のある人だけだったので、私有地みたいなものになっていました。
墾田永年私財法は、これを法律で許しただけ。
だいたい20年で三世一身法の効果は分かりません。3世代の相続は20年を軽く超えるはずなので。
『民がサボって荒れ果てた』じゃなくて、『民が手を出せないからやる気を失った』でしょう。
ヒドいです。恩恵を受けない人のせいにして、さらに民には関係のない法律になりました。
墾田永年私財法は、藤原氏の調子こきのエネルギー源、荘園(しょうえん)の登場・発展のきっかけになりました。
『金は力なり』とはこういうこと。
荘園(しょうえん)
743年に私有地を持てる法律ができたことから始まる、上皇・貴族・寺社勢力・豪族の私有地のこと。
農園と言われるが鉄の生産など工業も行われた。
室町時代くらいから武士などの地方の有力者に奪われ失われていく。
豊臣秀吉の太閤検地などの土地制度改革で、私有地はいったん国に返すことになったので消滅する。