歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -
第57代 陽成天皇(ようぜい)は9才で即位した幼帝です。そして、歴代天皇の中でもトップレベルのぶっ飛んだヤバイ奴とも言われます。
悪王と呼ばれた天皇は他にもいますが古すぎて事実か怪しいので、ちゃんと記録に残ってる中ではこの人がトップかもしれない。
古代・中世 平安時代 - 初期 -
- 皇居
平安宮
(へいあん の みや)
- 生没年
- 869年12月16日 ~ 949年9月29日
貞観10 ~ 天暦3
82才
- 在位
- 876年11月29日 ~ 884年2月4日
貞観18 ~ 元慶8
9年
- 名前
- 貞明
(さだあきら)
- 父
第56代 清和天皇
(せいわ)
- 母
藤原高子
(ふじわら たかいこ)藤原長良の娘
(ふじわら ながら)
- 皇后
藤原高子
(ふじわら たかいこ)藤原長良の娘
(ふじわら ながら)
- 皇后
綏子内親王
(やすこ)姣子女王
(よしこ)第58代 光孝天皇の皇女
(こうこう)
9才で即位した子どもの天皇
陽成天皇は父・清和天皇から9才で皇位を受け継ぎました。
(清和天皇は初めて子どもで天皇になった人。)
父が即位したときと同じ年齢で天皇になりました。藤原氏の摂政が出てきて必ずしも天皇に政治のリーダーシップが必要でなくなったからできたこと。
陽成天皇の摂政は藤原基経(ふじわら もとつね)。藤原北家、数ある藤原家系で勝ち残った家の当主です。
基経は平安時代の政治システムの完成をひとりで体現しました。これぞ藤原氏のパーフェクトヒューマン。
藤原基経は陽成天皇の母・高子(たかいこ)の実兄。
陽成天皇の叔父さん。
摂政・関白・太政大臣コンプリート
平安時代の政治のポイントは、まず天皇の側に摂政・関白・太政大臣がいて、左大臣・右大臣・大納言・中納言がじっさいの政治を行います。
藤原基経の養父・藤原良房(ふじわら よしふさ)が、父・清和天皇のときに皇族以外で初めての摂政になり太政大臣になりました。
当時、関白はなかったので完全制覇目前で亡くなります。
未完成の父・良房のあとを継いで完成させる
良房が亡くなると、右大臣だった基経は清和天皇の摂政を引き継ぎました。陽成天皇が即位しても子どもで政治ができるはずもなく、そのまま摂政をつづけます。
880年(元慶4)、陽成天皇が13才で元服すると藤原基経は最初の関白になりました。摂政と関白のちがいは、『政治ができない天皇の代理』と『政治ができる天皇の補佐』。
基経は1ヶ月後、太政大臣にもなります。
天皇が子どものとき摂政だった人が成長した天皇の関白になります。ここで平安時代の政治のしくみが完成しました。
時代が経ってくると政治権力を失い形だけのものになりますが、このしくみは明治の初めまでつづきます。
陽成天皇のとき、日本の政治でいちばん長く使われたシステムが完成した。
(平安時代の政治システムの完成。)
それを最初に務めたのが藤原基経。
陽成天皇 = ヤバい人
陽成天皇の評判は最悪です。歴代天皇の中でもトップレベルのヤバさ。
『神皇正統記』では、
性悪で帝王の器にふさわしくない。
『愚管抄』では、
もののけによる災いがひどく、狂気のふるまいは言葉にできないほどだった。
愚管抄にいたっては、妖怪(もののけ)呼ばわり。BPO審議が毎日行われるレベルでしょう。
神皇正統記(じんのうしょうとうき)
室町の南北朝時代に書かれた歴史書。南朝側の政治家で歴史家の北畠親房(きたばたけ ちかふさ)が書いた。
神代(かみのよ。カミサマの時代の神話)から第97代 後村上天皇が即位するまでの通史。
後村上天皇が幼いころに帝王学を学ばせるために書かれたとも言われ、天皇のあるべき姿、立ちふるまいなど、哲学書、指南書でもあると言われる。
親房の『天皇はこうあるべき』という主観が強いとも言われ、純粋な歴史書としては見れないという意見もある。
が、室町末期に書かれた歴史書の中で一級資料とされている。
『愚管抄』とならび、中世日本の最も重要な歴史書とも。
一言で『奇行・乱行(らんぎょう)がひどかった』と表現されることも多く、『何か吸ってる?』と言いたくなるくらいイッちゃってる扱いのヒドいもんです。
殺人容疑の少年A。15才で天皇をクビ
そんな陽成天皇に、摂政・藤原基経など臣下たちは毎日ハラハラ・ドキドキしていたようで、何度も何度も天皇を辞めてくれと言っていました。
そんな中、宮中で殺人事件が起きます。
天皇の側仕えしていた源益(みなもと の まさる / すすむ)が何者かにボコボコに殴られて殺されました。
限られた人しか入れない宮中の内裏(だいり)で起きた事件で、前代未聞すぎて口外禁止になったくらいです。
これに陽成天皇が関係していたと言われます。これまでの奇行・乱行の積み重ねもあって、関白になっていた・藤原基経が天皇をクビにしました。
陽成天皇は皇族でない臣下に天皇をクビにされた最初の人です。
(一応おもて向きは、病気で自発的な退位になっている。)
藤原基経の敵は性根が腐ってる?
陽成天皇は、父・清和上皇、母・高子、叔父・藤原基経の3人の身内が後見人でしたが、父が亡くなると、高子と基経の兄妹の仲が最悪になっていきます。
(もともと仲がいいとは言えなかったらしい。)
基経は、天皇らしくして欲しいのに陽成天皇がそうでないのに不満で、高子は、叔父とはいえ部下・基経の上から目線でかわいい我が子に教えてやるという態度にイライラしていたそう。
...というのもボクの想像で、仲の悪さの原因はこれだっていうのがありません。
ただ言えるのは、険悪だったのは事実で後見人同士の権力闘争があったのは間違いないということ。
(基経が娘を陽成天皇に嫁がせようとしたのを高子が拒否したとか、いろいろあったみたい。)
関白・太政大臣の出社拒否
じつは宮中殺人事件が起きたとき、関白・藤原基経はさじを投げて宮中に出なくなっていました。
完全な仕事放棄。サボタージュ。
総責任者がいなくて政治の空白状態です。政府内はどうしていいか分からなくなっていました。
あの優秀な基経がもういいやってなるくらい、陽成天皇・高子の親子がダメな奴ということらしい。
(個人的には基経の能力を疑ってる。気に入らないことがあるとよく仕事放棄していたから。)
本当の話? 陽成天皇の悪行三昧
陽成天皇にはエゲツない話があります。
人を木に登らせて、それを狙い撃ちして射殺。
(シューティングゲーム?)
女官を縄でしばり、そのまま池に放り投げて死なせる。
(ゲームの面白みが分からない。ただのサディスト?)
etc...(今では凶悪犯罪になるもの多数。)
???
コレを聞いたとき、『第25代 武烈天皇の悪王エピソードのパクリじゃね?』って思いました。
グロすぎるのも似ているし、若干内容も似ているし。
セクシー女優さながらの母・高子
負けず劣らずの悪評が立っているのが母・高子です。
高子は夫・清和天皇より8才年上で、少年天皇に物足りなくなって絶世のモテ男と愛の逃避行、不倫旅行に行ってしまったというエピソードがあります。
その相手が歌人・在原業平(ありわら の なりひら)。
結局連れ戻されて、無事、清和天皇やそのほかの皇子女を産んだとのこと。
また、清和天皇が生まれたときの祝いの席で、元カレ・業平を招待してイチャイチャするもんだから、事情を知っていた周りは知らんぷりするのに困ったとか。
さらに50代に入り皇太后のとき、パトロンになって建立した東光寺の住職とデキちゃったとか。
(住職だけでなく、イケメン坊主たちとの乱交パーティ説もある。)
若妻ものから熟女ものまで、セクシー映像オールラウンダーのごとく、なぜか下のほうへ下のほうへ悪評が立っている母です。
天皇になってもおかしくない血統・在原業平(ありわら の なりひら)
在原業平は父が阿保親王(あぼ)で母は伊都内親王(いと)。
阿保内親王の父は第51代 平城天皇で、伊都内親王の父は第50代 桓武天皇。父方、母方どちらをたどっても天皇の孫です。が、本人は民間人。
お祖父ちゃんの平城上皇は、弟の第52代 嵯峨天皇の時代にもう1回天皇に返り咲こうとして阻止され、おイタしちゃった人です。
父・阿保親王は天皇の息子なのに反乱軍の汚名を着せられて左遷。
都に戻ってからも肩身は狭いし出世はしないしということで、第53代 淳和天皇のときに息子たちは臣籍降下させてくださいとお願いします。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
もう二度と歯向かいませんという意思表示ですね?
それの割を食ったのが業平。ちなみに兄・在原行平(ゆきひら)もいっしょに臣籍降下しています。
大歌人・在原業平
在原業平は六歌仙と三十六歌仙にも入っている、平安時代を代表する歌の名人・大スターです。
また兄の行平もかなりの歌人で、古今和歌集に収録されているし『中納言行平』として百人一首にも選ばれています。
稀代のモテ男・在原業平
業平は超絶モテモテ色男で、平安時代ではトップクラス、日本の歴史上の人物でも1,2位を争うほどのイケメンです。
源氏物語の光源氏のモデルの一人とも言われ浮いた話は数知れず。
ありあまる才能、あふれる色気。大人気ロックバンドのボーカルみたいなもんでしょうか?
(もっとすごいか。天皇の孫だし。)
文春砲もないしやりたい放題。ゲスな恋愛スキャンダルに利用されやすい人ではあります。
後世の人はそこまで真に受けてない?
このように陽成天皇・高子親子は、週刊誌ネタが尽きない人なんですが、おもしろエピソードにしようと盛られたように思います。
歴代天皇には第107代 後陽成天皇(ごようぜい)がいます。安土桃山時代の豊臣政権から江戸時代の徳川政権にかけての時代。
こんな悪王に縁のある『陽成』を使うはずありません。後陽成天皇にそんなエグい話はないし。
お気に入りの女官が起こした乱痴気騒ぎ、猪熊事件(いのくまじけん)があったが、天皇自身が悪いわけではない。
高子については、不倫相手のはずの在原業平に左遷、島流し、処刑などの処分がありません。最後まで中堅貴族の人生を全うしました。
天皇の嫁を横恋慕した大罪人なのに。
ただ高子は、僧侶との不倫を疑われたのは事実で、『皇太后』の称号を剥奪されています。
(そのときの天皇は第59代 宇多天皇。)
そして、50年後の第61代 朱雀天皇のとき天皇の勅で皇太后の称号が復活しました。
(もちろんこのとき高子は亡くなっていた。)
上奏(じょうそう)と勅(ちょく)・詔(みことのり)
上奏
政治の最高責任者から天皇に行なう報告。天皇への意見や相談。
勅・詔
天皇の命令。勅書(ちょくしょ)・詔書(しょうしょ)は命令書。詔勅(しょうちょく)ともいう。
勅と詔はケースバイケースで使い分けているが、ルールがよく分からないので同じものと思っていい。
1945年の玉音放送は、詔書。
天皇の命令を強調すると勅令(ちょくれい)、意見を強調すると勅語(ちょくご)という。
明治の教育勅語は天皇の意見。当時、天皇が国民に強制するものではない、勅令ではダメだということで勅語になった。
勅語は意見なので国民が絶対に聞かないといけないものではない。
藤原基経に媚びて盛りに盛ったか?
藤原基経は関白で太政大臣だったので、ふつうの貴族ではありません。左大臣でも十分すごいですが、それをはるかに超える天上人です。
そんな基経に媚を売りたい人たちの、やりすぎおもしろエピソードのような気がします。
後の時代の人はそこまで信じてなさそうなので。いつの時代でも他力でだれかをディスる人のタガは外れるもんです。
自分の力じゃないのでコントロールが効かない。
82才の大往生
15才で退位した(廃位された)陽成天皇は82才まで生きています。67年の上皇生活でした。
もちろん、上皇と言っても天皇の後見はまったくしていません。政治もノータッチ。
そんな陽成上皇は優秀な歌人になります。百人一首にも選ばれるくらい。
そんな人が稀代のぶっ飛び野郎には思えません。個人的にはやっぱり、よけいな悪評が盛られた天皇じゃないかと思います。
悪行の数々が、若気の至りとか反省して更生するというレベルをはるかに超えているのに、りっぱな恋歌を詠めるんだろうか?
(絶対に詠めないと言いきれないけど。)
9才から15才の少年なんて大人から見ればぶっ飛んでても不思議はなく、それを超えるものだったんだろうか?
(ヤンチャなのは間違いないと思うけど。)