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摂関政治の衰退から院政へ
藤原道長(みちなが)の絶頂期は10年くらいしかありませんでした。道長が死んだから。
次に長男の藤原頼通(よりみち)が継いで摂政・関白になるんですが、すでに衰退の兆候が現れます。
第69代 後朱雀天皇の皇后は二人とも皇女。藤原氏の娘ではありません。頼通ができたのは皇女を養子に迎えてそこから嫁に出すことくらい。
摂関家は天皇の子孫ですが、藤原氏の娘を皇后にするのが藤原氏最強に必要な武器だったので、ちょっと勢いがなくなったかな? という印象です。
道長がやりすぎたのでしょう。亡くなって息子の代になった途端、こういうことが起きるのは、道長の御堂流への反発が相当あったと予想できます。藤原北家の内部でも。
もしかすると道長の孫・後朱雀天皇も道長のやり方に思うところがあったのかもしれません。皇后・禎子内親王(ていし)の父は道長がイジメ倒して辞めさせた三条天皇だし。
後三条天皇の登場で摂関政治の衰退へ
関白・藤原頼通も黙ってるわけはなく、第70代 後冷泉天皇の皇后には娘を出してます。ただ時代が味方しませんでした。
このころは末法思想が吹き荒れて、悪いことは終末思想のせいにされました。そういう考えになるくらい悪いことが起きてた。
頼通は世の中を落ち着かせるのに大変だったようです。平等院を作ったのも頼通。
藤原氏と外戚関係のない後三条天皇
第71代 後三条天皇は、第59代 宇多天皇以来、170年ぶりに藤原氏と外戚関係のない天皇です。母は三条天皇の娘で皇后は後朱雀天皇の娘。二人とも内親王。
藤原道長にイジメ倒された三条天皇の孫です。名前といい御堂流とは何かと因縁があります。
後三条天皇は権力が集中しすぎて乱れた宮中の改革を行いました。この改革が院政へとつながります。
そして注目すべきは、皇后を御堂流から迎えていないこと。摂関家と距離をとっています。関白・藤原頼通(よりみち)の娘を娶っていません。
(頼通の姪っ子を妻にしているが側室扱い。)
もう一つ注目すべきは、女御(側室)に九条流ではあるが御堂流でない、藤原兼家(かねいえ)の弟・藤原公季(きんすえ)の子孫から迎えていること。
この系統はこのあと天皇の皇后になる娘を一番多く出す家になっていくので、藤原北家・閑院流(かんいんりゅう)と呼ばれます。
白河天皇が院政を開始する
後三条天皇は4年半の在位で息子に皇位をゆずりました。第72代 白河天皇の即位です。
白河天皇は院政を代表する人です。この人の行動が院政の基準を作ったと言っていい。
院政が御堂流の摂関政治を衰退させたのはそうなんですが、もうひとつ衰退の原因がありました。
白河天皇の母は御堂流ではなく、さっき出てきた閑院流です。ここで、天皇の母や皇后は御堂流の摂政・関白の娘でなければという慣習がなくなりました。
閑院流も天皇の妻の家としての格を手に入れて、天皇の妻の選択肢が広がりました。もちろん、摂関から皇后を迎えてはならぬということもありません。
ただ結果論ですが、院政を代表する上皇たちの母はみな閑院流です。そこに何かの意図があったのか、ただの偶然なのか?
『今の時代(院政)は天皇の妻は閑院流でしょ?』という新しいスタンダードができていたのでしょう。
- P1 神話の時代から仕える側近中の側近
- P2 藤原氏の祖・藤原鎌足
- P3 律令国家建設の中心人物・藤原不比等
- P4 藤原四兄弟。藤原氏の流派が生まれる
- P5 藤原北家を復活させた藤原冬嗣
- P6 史上初。人臣摂政と人臣の太政大臣
- P7 摂関政治の完成。初代関白・藤原基経
- P8 歴代の藤原氏で最強の男・藤原道長の登場
- P9 摂関政治の衰退から院政へ
- P10 御堂流の分裂。五摂家の誕生。『藤原』を名乗るのをやめる。