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源平藤橘(げんぺいとうきつ)・四姓(しせい)って何だ? ほかの氏族と何がちがう?

源平藤橘・四姓

源平藤橘(げんぺいとうきつ)は四姓(しせい)とも言い、源氏、平氏、藤原氏、橘氏(たちばな)の4つの氏族のことを言います。

これ以外にも有名で力の大きい氏族があったのに、どうして彼らは特別視されたのか? 彼らは何がちがうのか? なんでマイナーの橘氏が入っているのか?

源氏は貴族と武士の両方で天下を獲った。

源氏は天皇から姓をもらった皇子たちから始まります。初期の平安時代、第52代 嵯峨天皇の息子から始まりました。

天皇からもらった姓は特別でステータスがあり、賜姓(しせい)と言う。

四姓(しせい)と同じ読みでややこしい。

このころは古代の皇親政治から藤原氏の摂関政治への転換期です。源氏は皇親政治のほころびを補うために作られました。

元皇子の源氏は政権トップの左大臣を歴任しました。皇子の代わりに民間人になった元皇子の源氏に天皇を支えてもらおうという算段。

平安時代は藤原氏の時代に見えますが源氏だって負けてません。平安中期までは源氏と藤原氏のツートップ政治と言ってもいいほどです。

ただ源氏は、藤原氏の勢いに押され政権トップに人材を出せなくなります。多くは国司になっていきました。

(皇親政治が終わり摂関政治が始まる。)

この国司が武士の前身。源氏は武士だと思われてるのは、こっちのほうが有名で長年トップで居続けたから。鎌倉・室町・江戸のすべての幕府の将軍は源氏です。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

源氏のおまけで作られた平氏。

平氏も源氏と同じ時期から作られた賜姓氏族(天皇から姓をもらった氏族)です。源氏と同じように元は天皇の孫。

源氏を作った嵯峨天皇の父・第50代 桓武天皇の孫から始まりました。

『それなら源氏は平氏の先輩か?』と思いがちですが、平氏を作ったのは嵯峨天皇の息子・第54代 仁明天皇の時代です。

(だから桓武天皇の息子ではなくから始まる。世代が代わっていた。)

あまり期待されない平氏。

嵯峨天皇の息子たちは源氏になって左大臣などになり、バリバリ働いていました。宙ぶらりんになっていた桓武天皇の孫たちにも何か与えたかったのでしょう。

ついでのように平氏は作られます。なんでこんなネガティブなことをと思うでしょうが、平氏は4人の天皇からしか生まれてません。

(源氏は21人の天皇。)

そのうち3人の天皇からは源氏も生まれてます。平氏オンリーなのは桓武平氏だけ。源氏や藤原氏と同等に期待されたわけでもなく政権中枢に入れません。彼らは源氏よりも先に国司になって広がりました。

ここから先は源氏と同じ道。武士へとなっていきます。むしろ先に国司になっていたので武士としては平氏のほうが先輩。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

平氏の最高潮は平安末期の平清盛(たいら の きよもり)でしょう。というか、これしかありません。どこまでも源氏の影に隠れた存在です。

日本の歴史上、最も天皇の側にいた藤原氏。

藤原氏は四姓の中で唯一、天皇の子孫じゃありません。神々の神話の時代にアマテラスに仕えていたカミの子孫と言っているので、事実確認のしようがないころからの臣下。

このころは中臣氏(なかとみ)です。代々、神道の神事のプロデュースをする氏族でした。

日本は、古代の飛鳥・奈良時代に律令政治に大きく転換しますが、そのときにスーパー官僚として天皇を支えたのが中臣氏。

スーパー官僚の功績から、藤原不比等(ふじわら ふひと)が天皇から姓をもらって藤原氏が生まれました。

藤原氏の祖は藤原鎌足こと中臣鎌足(なかとみ の かまたり)。

しかし、鎌足は個人で藤原姓をもらっただけでその子孫まで藤原を名乗っていいとはなっていなかった。

子々孫々まで藤原を使っていいと言われたのは鎌足の息子の不比等。

皇親政治のヘルプから主役へ。

日本の律令政治は皇親政治なんですが、奈良時代にはほころびがボロボロ出てきます。それを補ったのが藤原氏。次第に主役への野心を隠さず権力闘争が激しくなりました。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

平安時代になると、皇親政治の復活のために作られた源氏を押しのけて摂関政治を始めます。

ここから藤原氏の天下。

院政、鎌倉・室町・江戸の3幕府では政治権力から遠ざかっていきますが、摂政関白はキープしてつねに天皇の側にいるようになります。

明治になっても天皇の一番側にいた氏族の威力は健在で、西園寺公望(さいおんじ きんもち)や近衛文麿(このえ ふみまろ)は総理大臣になりました。

藤原氏のブランドがなくなったのは戦後。ここ最近の話です。

疾風の如く現れて消えた橘氏。

最初に橘の姓を天皇からもらったのは女性です。県犬養三千代(あがたいぬかい の みちよ)。

本格的に律令政治が始まった第40代 天武天皇のころから宮廷に使えた女官でした。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

第30代 敏達天皇の子孫の美努王(みの の おう)に嫁いだ後、夫の出世が頭打ちになるとあっさり離婚し、藤原不比等(ふじわら ふひと)の妻になります。

三千代は藤原氏に嫁いだのに橘姓を名乗りました。

このようにちょっと事情がちがうからなのか、橘氏の祖は三千代じゃありません。初代は美努王と間に生まれた息子の葛城王(かずらきおう)。

改名した橘諸兄(たちばな の もろえ)です。

諸兄は混沌としていた皇親政治左大臣になり太政大臣までなった大物。

藤原氏の成り上がりで没落した代表格

橘氏は初代の橘諸兄から藤原氏とバチバチでした。諸兄の最後は失脚なんですが追い落としたのは藤原氏です。

2代目の息子・橘奈良麻呂(たちばな の ならまろ)も藤原氏に反抗して逆賊になり、官位の剥奪、姓の剥奪、非人にまで落とされます。

非人(ひにん)  

身分階層の中で最下層の人たち。

『人に非ず(あらず)』のとおり、人間扱いすらしないということ。

罪人としてペナルティを受けた人、特定の職能の人(死者を扱う人、芸人など)、ホームレスなどがこの階層に当てられた。のちに被差別部落になっていく。

罪人のペナルティーとして非人に落とされたことが文献に出てくるのは、842年の『承和の変』で天皇からもらった姓を剥奪され、非人の姓にされたうえ島流しになった、伴健岑(とも の こわみね)と橘逸勢(たちばな の はやなり)が最初と言われる。

非人は死刑判決みたいなもの。橘氏は事実上ここで没落しました。

皇后を二人も出した有力氏族ですが、藤原氏との権力闘争に敗れて歴史の表舞台から完全に消えてしまいます。

奈良時代末期から平安初期にかけての短い期間でしか活躍できませんでした。

四姓の特長

とりあえずダイジェストで四姓を追いかけました。この氏族にはいくつかの共通点があります。

天皇から姓をもらっている、賜姓氏族。

天皇の子孫や皇后を出すなど、天皇と親戚関係。

政権トップになる人がいる。

四姓や源平藤橘という言葉は、日本の中世、平安以降に使われた言葉です。なので、歴史というより伝承に近い昔の氏族は数えられず、比較的時代が新しい徳川氏も入っていません。

律令政治は官僚政治でなんでも文書で残していきます。記録に残ってなおかつ人の記憶にもインパクトのある氏族が源平藤橘でした。

橘氏よりもインパクトを残した氏族はありましたが、皇后を出して天皇の親戚になり、天皇から姓をもらうのをコンプリートできてません。

鎌倉以降は姓を自称する習慣が、ステータスの高い人たち、とくに武士に広まり、貴族の固定化も進んだので新興勢力が同じことをするのが難しくなっていました。

『三大』でもいいのに...。

三大、三傑、という言葉があるくらいなので源平藤、三姓でもいいのに姓は4です。

四天王という言葉があるので不思議はないですが、日本の政治は律令がベースにあるのでどうしても四にしたかったのでしょう。

(律令システムは四等官があるように4で区切るのが好き。)

歴史を振り返ってみると、古墳時代には平群氏(へぐり)、葛城氏(かずらき)、蘇我氏(そが)がいました。江戸時代には徳川氏もいます。

これらは源平藤橘に負けず劣らず、むしろ大きかった氏族もあります。でもこれらの氏族は天皇から姓をもらっていません。

徳川は自称・源氏の末裔なので四姓に入ってるという解釈なのかな?

豊臣がもう少し続けば入ったのかも。そういえば、橘氏を滅亡させたのは豊臣秀吉です。橘氏の末裔の当主が秀吉に懲罰を食らって憤死しました。

(没落した橘氏はひっそりと続いていた。)

自称・源氏の徳川氏は江戸時代になると源氏の棟梁を名乗った。

歴代の徳川将軍は、内外に源氏長者であることを宣言していた。

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