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最初は失敗の連続。ポンコツの清和源氏
当時の軍警察のキャリアアップの話はこの辺にして本題に入ります。
武士の源氏は、清和天皇の孫・経基王(つねもと)が臣籍降下して源経基になったところから始まります。
経基は武蔵国(むさし。関東)の国司・武蔵介として関東に赴任しました。ナンバー2。副知事ですね?
国司(こくし)と郡司(ぐんじ)
国司
古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。
地方のすべての権限を持っていた。
京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)
送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)
今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。
もってる力は絶大。
偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。
長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。
それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。
受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。
平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)
鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。
戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。
- 織田 上総介(かずさのすけ)信長
- 徳川 駿河守(するがのかみ)家康
織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。
織田信長が一番偉くないのが面白い。
郡司
市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
経基が関東に赴任したとき、そこでブイブイいわしていたのはあの平将門(たいら の まさかど)です。
遅れてきた武将・源経基は百戦錬磨の将門に太刀打ちできません。
経基は歴史上初の武士の反乱と言われる平将門の乱・藤原純友の乱(承平天慶の乱)のメインキャストに入っていますが、新人だけに下手こきばっかりです。
関東に赴任するが将門にビビって京に逃げる。
将門反乱の鎮圧軍の副司令官になるが、出向いたときにはすでに終わっていた。
藤原純友の乱の鎮圧軍の副司令官になるが、これまた出向いたときには終わっていた。
歴史に残る大戦で『逃げる』『出遅れる』のヘタレ経基は、各地の国司を歴任し鎮守府将軍にまで出世します。
ポカを繰り返してもやっぱり天皇の孫。忖度の匂いがプンプンする。もしくは政治家としては優秀だったか?
たんに下手こいたことが目立つだけで、総合的には優秀な武将だったのかもしれない。
下手こいたときの経基の上司は征夷大将軍。
2代目ボス、源満仲(みなもと の みつなか)。キャリアアップに抜群のセンスを発揮
関東での清和源氏は、このままでは武将のちょい先輩・平氏に勝てません。そこで経基の息子の2代目源氏棟梁・源満仲(みつなか)は、政治でのし上がることにシフトチェンジします。
摂関政治で強大な力をもちはじめていた摂関家の藤原氏に近づき、都のすぐ近く、畿内の国司になって拠点を作るのに成功しました。
(最初の拠点は2回国司になった摂津国(せっつ。大阪・兵庫))
五畿七道(ごきしちどう)
古代から平安時代にかけての日本の首都圏と、幹線道路とその周辺の地方ブロック。
首都圏を畿内(きない)と言い5つに分けた。
道路は7つに分けた。〇〇道は道路周辺の地方も指す。州みたいなもの。
畿内 | 首都圏。 おもに、奈良、滋賀、京都、大阪。 |
山陽道 | 本州西部の瀬戸内海側。 おもに、兵庫南部、岡山、広島、山口。 |
山陰道 | 本州西部の日本海側。 おもに、京都北部、兵庫北部、鳥取、島根。 |
南海道 | おもに、四国、淡路。 |
西海道 | 九州全域。 |
東海道 | 本州東部の太平洋側。 おもに、三重、愛知、静岡、関東圏。 |
東山道 | 本州東部の山間部と東北全域。 山間部はおもに、滋賀、岐阜、長野、群馬、栃木。 |
北陸道 | 本州東部の日本海側。 おもに、福井、石川、新潟。 |
北海道、沖縄は入っていない。当時の日本人に領土意識がないから。奄美を含む南西諸島、小笠原諸島は微妙。
今でも『北海道』にその名残がある。当時は七道に入ってなかったのに。
そしてその拠点を息子たちに譲りました。その拠点から摂津源氏(せっつ)、大和源氏(やまと)、河内源氏(かわち)の系統に分かれます。
藤原氏をバックにもつ源氏と、もたない平氏
藤原氏と源氏は権力闘争をするほどのライバルでしたが家族でもありました。お互いに娘を出し合っていて血統や家系図を追っていくのがむずかしいほど。
さらに皇族との結婚まであったので、血統のトライアングル・ブレンド(勝手な造語)です。
清和源氏も摂関政治で力が大きくなっていく藤原氏の力で軍警察官僚のポジションをキープします。
ガチンコでやり合うとボロ負けする平氏に、政治力で役職だけは対抗できる力をすぐにつけました。
平氏からすると腹が立ったでしょう。藤原氏と近いというだけで、いきなり都まわりのいいとこに配置されたり、いいとこの国司の長官になったりするから。
同じ源氏の左大臣を失脚させる藤原氏へのよいしょ
清和源氏の2代目ボス・源満仲(みつなか)の摂関家・藤原氏への媚び方は徹底しています。
同じ源氏の左大臣・源高明(たかあきら)の失脚のためにデマを撒き散らしたりもしました。
そのおかげか、父と同じように各地の国司を歴任し鎮守府将軍にまでなり、摂津で土着して武士化しました。
高明の失脚のあと貴族の源氏はトップの座から落ちました。それ以降、藤原氏に対抗できる勢力ではなくなります。
藤原氏に代わって権力闘争をした国司源氏(のちの武士の源氏)が同族の貴族源氏を潰しちゃったんですね?
これをきっかけに源氏は武士へと変貌していきます。
中央政府にいる貴族の源氏は現天皇と血縁が近い家族だった。
一方、国司の源氏は過去の天皇の子孫ですでに地方勤務が定着し、現天皇との血縁は遠い。
同じ源氏でも別氏族と言っていいほどになっていた。
- P1 もともと源氏は藤原氏と双璧をなす貴族
- P2 国司になって軍団を使えるようになる
- P3 最初は失敗の連続。ポンコツの清和源氏
- P4 ひと味ちがう。河内源氏の祖・源頼信(みなもと の よりのぶ)
- P5 河内源氏のクライマックス。八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)
- P6 なぜ河内源氏だけが大きくなれたのか?
- P7 武士の源氏と八幡さま
- P8 その後の河内源氏