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内臣(うちつおみ)/ 内大臣ってなんだ? 大臣だけど大臣じゃない不思議な立場。

大極殿

今は大臣というと内閣の閣僚のことでたくさんいますが、明治維新より前までの律令制ではたった4人しかいませんでした。

そのひとりが内大臣。古代の飛鳥時代は内臣でした。

この内大臣、できたときから特殊です。最終的に大臣であって大臣じゃないようなものになりました。

最初は中臣鎌足のために用意された官職の内臣

内臣は『天皇に最も近い身のような下』という意味です。最初になった中臣鎌足(なかとみ の かまたり)からしてそうでした。

鎌足は、中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)と一緒に当時の最大実力者・蘇我入鹿(そが の いるか)を暗殺します。

そしてその直後に大化の改新が始まりますが、そこで鎌足は内臣になりました。

当時はまだ、律令政治の導入がはじまったばかりで、以前の氏姓制度(しせいせいど)が色濃く残っていました。

大化の改新では左大臣・右大臣も設置されたんですが、政治家として実績のない中臣氏をいきなりトップにできなかったようです。

氏姓制度の官職は与えられる姓によって決まっていた。

中臣氏は神道の神事のプロデュースが仕事で政治家一門ではない。

鎌足はクーデーターの功績で政治家のトップになったが、政治家一門の氏族からは相当の反発があったよう。

大化の改新(たいかのかいしん)

645年の乙巳の変からはじまった政治改革。

第36代 孝徳天皇の時代に、中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)と中臣鎌足(なかとみ の かまたり)を中心に行った。

その後、斉明天智天皇へと引きつがれ、天武持統文武天皇のとき律令国家として完成する。

乙巳の変(いっしのへん)

645年、第35代 皇極天皇(こうぎょく)の目の前で、息子で皇太子の中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)が蘇我入鹿(そがの いるか)を殺害した事件。

これで蘇我氏は一気に衰退する。

これをきっかけに、天皇中心の国家建設を目指す政治運動が始まる。

大化の改新(たいかのかいしん)

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

でも鎌足は大化の改新の中心人物でした。出身ではリーダーになれない、でも実質リーダーということで天皇の一番身近な内臣になります。

この『ほんとうの官職は低いけど内臣になって実権を握る』が内臣のポジションになります。

歴史上、内臣になったのはたった4人。すべて藤原氏。

歴史上では内臣になった人はたった4人しかいません。理由はかんたん。3人目以降、内臣から内大臣への鞍替えが起き、それ以降は内大臣が定着するから。

内臣は『すぐに鞍替えがあるんならいらないんじゃね?』になって自然消滅します。

中臣鎌足乙巳の変の首謀者。
大化の改新の中心人物。
藤原氏の祖。
藤原房前
(ふじわら ふささき)
藤原氏が4家に分裂した北家の祖。鎌足の孫。

長屋王と藤原四子との権力闘争の中、待望の皇
太子(のちの第45代 聖武天皇)の後見人として
内臣になる。

正式な官職参議で高級貴族の最下層。
藤原良継
(ふじわら よしつぐ)
藤原式家
2回官職をクビになるなど出世が遅れて中納言

しかし、第49代 光仁天皇から『官職は中納言だ
けど待遇は大臣クラス』というお墨付きで内臣
になる。

6年後、内大臣へ鞍替え。
藤原魚名
(ふじわら うおな)
藤原北家。房前の5男。
良継の後継とみられる。

内臣に就任するが1ヶ月も経たないうちに官職名
が忠臣に改められた。
のちに内大臣へ鞍替え。
歴代の内臣

初代・内大臣はだれか?

最初の内臣の中臣鎌足は、亡くなったときに大臣を追贈された話から、これをもって内大臣になったと見る向きもあります。

良継・魚名の内臣から内大臣への鞍替えは鎌足の前例を習ったともいわれる。

(臣を上回る大臣(おおおみ)の名残がある。内臣に箔を付けたっぽい。)

大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)

大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。

大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。

大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。

大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。

大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。

ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。

しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。

連も臣も氏姓制度で設けられた姓。

いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。

(個人的にはあるような気がする。)

正式に律令制の官職になった初代は、藤原魚名の次の内大臣・藤原高藤(ふじわら たかとう)から。

これまでも天皇の鶴の一声で正式な官職だったが、行政組織の一部とはいいがたい。

内臣を廃止して内大臣が定着してからは、令外官として左大臣・右大臣の次の大臣として律令制の中で位置づけられました。

高藤は平安時代の基礎を作った藤原冬嗣(ふじわら ふゆつぐ)の孫で平安時代前期の実力者です。

魚名からは100年も時代が経っていて、その間、内大臣は不在でした。

じつは内大臣も内臣と同じく自然消滅していて、100年後に令外官として復活したんですね?

令外官(りょうげのかん)

律令制度の令(行政法)にない官位のこと。特別職。臨時職。

にある(令にない)位』。摂政関白太政大臣内大臣など。

正式な官位じゃないので比較的自由な立場で仕事ができた。また、正式な官位と兼務ができた。

第50代 桓武天皇は軍政改革で、征夷大将軍検非違使を新たに作った。

律令制は法が現実に合わなくなってもそのままにして、新しい法を追加して臨機応変に変えていくので、それにならって令外官も都度追加された。

ただ、正式な官位よりも重要なものも多い。

別の官職も内大臣として見られることもある。

第46代 孝謙天皇(第48代 称徳天皇)の時代は二人の実力者がいました。藤原仲麻呂(ふじわら の なかまろ)と弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)です。

仲麻呂は当時、天皇を超える権威のあった光明子(皇太后。孝謙天皇の母)から気に入られ、紫微内相(しびないしょう)になります。

757年に、光明子の意思伝達のために紫微中台(しびちゅうだい)が令外官として設置された。

その長官が紫微内相。

仲麻呂が別の官職になったのでたった1年で消滅。

道鏡は称徳天皇に気に入られ、太政大臣禅師(だじょうだいじん ぜんじ)になりました。

これを内大臣(内臣)と見ることもあります。

天皇・皇太后の最側近の大臣で、それはまるで内大臣に見えるから。

この2つの官職の共通点は定着しなかったこと。ふたつとも就任したのは歴史上一人だけ。

中臣鎌足
藤原房前
藤原仲麻呂
(ふじわら なかまろ)

ほんとうに内臣?
別名、恵美押勝(えみ の よしかつ)。

正式な官職は大納言ながら、光明子・天皇の信
頼が絶大だったことから一番の権力者になる。
弓削道鏡
(ゆげ の どうきょう)

ほんとうに内臣?
孝謙上皇(称徳天皇)からの絶大な信頼を得て、
朝廷の出世街道を一切経ず、いきなり新設された
大臣クラスの官職につく。

本職は僧侶。
藤原良継
藤原魚名
歴代の内臣

これを見ても、平安時代に100年ぶりに復活するまで、内臣(内大臣)は官職と言っていいのか怪しい。

たんに『天皇に一番近い臣下』の通称じゃないか?

だから初代の内大臣がはっきりしなんじゃないか?

内大臣は権力者にとって使い勝手の良いシート?

令外官として定着してからの内大臣は、左大臣・右大臣と同じ位階正二位従二位です。その上には太政大臣しかいないのでかなりの高官。

天皇に一番近い大臣なんだから当然っちゃ当然なんですが、じっさいは左大臣・右大臣の下に置かれました。

内大臣は政治を行うリーダーというより天皇の政治顧問だったから。

左大臣・右大臣を歴任したあとそれ以上になれず、栄誉職として内大臣になった人もいます。

正一位
従一位
太政大臣
正二位
従二位
左大臣
右大臣
内大臣
正三位大納言
内大臣のポジション

じつは歴代の徳川将軍はすべて内大臣を経験している

歴代の徳川将軍の官職も内大臣が多い(15人のうち5人)。朝廷に左大臣・右大臣がすでにいて、つまってるから内大臣のままにしとこうかの匂いがプンプンする。

6徳川家宣(いえのぶ)正二位
7徳川家継(いえつぐ)正二位
9徳川家重(いえしげ)正二位
13徳川家定(いえさだ)正二位
15徳川慶喜(よしのぶ)従一位
最終官職が内大臣の徳川将軍

すべての将軍が内大臣を経験しています。征夷大将軍よりもこっちのほうに権威があるんじゃないかと思うほど。

太政大臣左大臣・右大臣は燦々(さんさん)と光り輝く三台星(さんたいせい)と呼ばれるのに対し、内大臣は『かげなびく星』といわれました。

大臣といっても存在感が薄い日陰者ってことですね?

定着してからの内大臣の価値は『天皇に一番近い』だけになったからでしょう。内大臣が復活してから天皇が政治力を発揮したのは平安時代だけだから。

政治家の貴族からすれば、もう意味がない、たんなる栄誉にしか見えなかったのかもしれません。

徳川家康の『内府殿』は内大臣のこと

豊臣秀吉の時代の徳川家康は『内府殿』(ないふどの)と呼ばれます。テレビや映画でもよく聞くでしょう。

この内府は内大臣のいるところという意味で内大臣のこと。

家康は関白・秀吉の推薦で江戸幕府を開く前に内大臣になってました。

五大老でも筆頭格で秀吉に次ぐナンバー2だったのは内大臣だったから。

(関白は太政大臣になるのが慣例で、その下の位階は二位の左大臣右大臣内大臣しかいない。)

意外なところでも内大臣は出てきます。

徳川 = 内府のイメージがあったから、歴代の将軍は全員、一度は内大臣を務めたんじゃないか?

イメージを守るために。

律令制では偉い人がいるところ(職場)には『府』がつくものがある。

大宰府や国府、鎮守府など。

(国府は国司の拠点。鎮守府は東国を抑えるための軍事拠点。)

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

内大臣特有の拠点、役所(内府)はないが、内大臣の通称になっていた。

昭和にもあった内大臣

律令制は明治維新の近代化でなくなったんですが、内大臣は残りました。

内大臣府(ないだいじんふ)という組織があってそのトップになった。)

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

この内大臣は『大臣』がついても内閣の閣僚ではありません。

ややこしい。

牧野伸顕(まきの のぶあき/けんしん)や木戸幸一(きど こういち)が有名です。

牧野伸顕は大久保利通(おおくぼ としみち)の実子。

一度養子に出したあとすぐに出戻ったが、養子先の牧野姓を名乗らせた。

木戸幸一は木戸孝允(きど たかよし。桂小五郎)の孫。

2.26事件では、牧野はすでに内大臣を辞めて引退していたのに、襲撃されて殺されかけてます。

(襲撃した陸軍兵は殺したつもりだったが勘違いで助かった。)

木戸はアメリカとの戦争時代にこれでもかと出てくる。

この時代でも内大臣の役割・性格は変わってません。天皇の思いを一番知っている大臣でした。

閣僚よりも天皇に近い存在で、閣僚外なので政治はノータッチだけど、天皇の考えを政治家たちに伝えることで大きな影響力をもちました。

牧野がつねに陸軍の暗殺対象になっていた理由はここ。

陸軍は牧野がわざと自分たちの考えを天皇に伝えてないとキレてた。じっさいは天皇が陸軍の考えが嫌いだっただけなんだけど。

また牧野は、陸軍だけじゃなく海軍からも命を狙われていた。

5.15事件や2.26事件にかぎらず、昭和初期は軍のクーデター計画、じっさいに起こした事件が多い。

牧野はいつもそのターゲットにされていた。

昭和のクーデーターは牧野を殺すためにあったといっても過言じゃないほど。

宮内大臣と内大臣のちがい。

明治以降の議院内閣制では、内大臣とは別に宮内省のトップ・宮内大臣(くない だいじん)もいました。これも閣僚ではありません。

何がちがうんだ? と思いますが、内大臣のほうが天皇との距離が近く、天皇直属の秘書官のようになってました。

当然、天皇の考えを閣僚や総理大臣などに伝えるので政治家に見えなくもありません。

牧野伸顕がつねに暗殺されかかったり木戸幸一が昭和の歴史でよく出てくるのは、それだけ政治色が強かったから。

一方、宮内大臣は宮中のすべてを仕切る宮内省の行政トップの意味合いが強いです。

天皇の公私のすべてをサポートしないといけないので、職員数も千人単位だったし、それを統率するだけでも忙しい。

政治にかまってる暇はありませんでした。

戦後は宮内省が宮内庁に格下げされたので、宮内庁長官として残っています。

内大臣は内臣から数えて1300年以上使われてきたが、戦後の日本国憲法下で消滅した。

昭和天皇は存続を希望したがGHQがそれを許さなかった。

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