歴代天皇 - 内外の権力闘争に明け暮れた天皇たち(院政) -
怪物政治家の白河天皇の息子・堀河天皇(ほりかわ)は、政治ではほとんど表舞台に立たず、学問と芸術にエネルギーを注いだ天皇です。
政治の実績もなく若くして亡くなり、また前後の天皇が強烈な個性をもっていたので存在感のない天皇になってしまいました。
それでも在位期間は22年と長い。(だけに存在感の薄さが目立つ。)
中世 平安時代 - 末期 -
- 皇居
平安宮
(へいあんのみや)
- 生没年
- 1079年7月9日 ~ 1107年7月19日
承暦3 ~ 嘉承2
29才
- 在位
- 1087年11月26日 ~ 1107年7月19日
応徳3 ~ 嘉承2
22年
- 名前
- 善仁
(たるひと)
- 父
第72代 白河天皇
(ごさんじょう)
- 母
藤原賢子
(ふじわら けんし)源顕房の娘
(みなもとの あきふさ)養父は藤原師実
(ふじわら もろざね)
- 皇后
篤子内親王
(とくし)第71代 後三条天皇の皇女
(ごさんじょう)
- 女御
藤原苡子
(ふじわら いし)藤原実季の娘
(ふじわら さねすえ)
- 妻
その他
父親の院政のために8才で即位
父・白河上皇の政治的な思惑で8才で即位します。11才で元服したとき、30才近い叔母の篤子内親王(とくし。後三条天皇の皇女)を皇后に迎えました。
妻というより母のようで、この皇后から教育され『末代の賢王』と呼ばれるまで成長します。
でも、政治の表舞台にほとんど立つことはありませんでした。それに代わって、学問、和歌、管弦にエネルギーを注ぎます。
この時代は父の白河上皇の院政もそれほど力がなかったので、関白・藤原師通(ふじわら もろみち)の補佐で政治が行われました。
もともと丈夫な体じゃなかったのか、27才で病に倒れ29才で亡くなります。
それなりに在位期間 (22年) があった天皇で、肖像画のない天皇は堀河天皇ぐらいです。それぐらい存在感のない人でした。
このページトップの画像もとりあえず『和』を感じさせるもので代用しました。
太上天皇(だいじょうてんのう)
退位した天皇のこと。
上皇(じょうこう)
太上天皇の短縮した言い方。
太上法皇(だいじょうほうおう)
出家した上皇のこと。たんに法皇という。
院(いん)
上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。
くわしくは『太上天皇とは何か?』へ
脱・藤原道長の完成
藤原道長(ふじわら みちなが)は、言わずとしれた藤原氏最強の男です。
3人の娘を連続して天皇の皇后に出し栄華を極めました。ただ道長は、天皇をイジメて退位させ、退位する三条天皇とのバーター取引でなった皇太子もイジメ倒して辞退させます。
その天皇をなんとも思わない藤原氏の態度を止めさせたのがお祖父ちゃんの後三条天皇で、父・白河上皇は、道長の子孫たちとの親戚関係を薄くして院政をはじめました。
堀河天皇はその道長ファミリーとの親戚関係を完全に解消します。
皇后は後三条天皇の娘で、次の鳥羽天皇を産んだ女御は道長の遠縁になるが子孫ではない藤原苡子(いし)。
(その藤原公季(きんすえ)の子孫を閑院流(かんいんりゅう)という。)
摂関家 vs 上皇
院政をはじめた白河天皇は、最初から盤石というわけじゃありませんでした。
堀河天皇の関白には、あいかわらず藤原道長(みちなが)の嫡流(長男の家系)が代々つづいています。
とくに藤原師通は、堀河天皇が成人したタイミングで関白になった藤原氏のニューリーダーで、院政をはじめた白河上皇に批判的でした。
堀河天皇を中心にした天皇親政を目指したから。
ただ、師通は38才の若さで死んでしまいます。師通の子・忠実は大納言で、左右大臣の経験がなく、関白にはなれませんでした。
(内覧になり7年後に関白になる。)
そのスキに白河上皇の院政が強力になっていきます。
このときに堀河天皇は政治家としての戦闘力がゼロになったらしい。やる気を失った天皇は文化・芸術に生きることにしました。
藤原氏の摂関家はつづくが
これからあとも、というか明治維新が来るまで、摂政・関白は藤原師実(ふじわら もろざね)の子孫だけでつづきました。
堀河天皇の最後の関白・藤原忠実(ただざね)の孫の代になると、近衛家、九条家が始まり、そこから枝分かれした3家が生まれて五摂家へと進化します。
五摂家(ごせっけ)
平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。
鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。
- 近衛(このえ)
- 九条(くじょう)
- 二条(にじょう)
- 一条(いちじょう)
- 鷹司(たかつかさ)
くわしくは『摂関政治とは何か?』で。
五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。
1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。
これらの藤原氏はすべて藤原道長(みちなが)の嫡流です。
(道長の子孫のことを御堂流(みどうりゅう)という。)
この嫡流から天皇の外祖父になる人は多く出ますが、天皇をイジメて退位させるとかぶっ飛んだことまではしなくなりました。
堀河天皇の外戚から外されて反省したということなのかな?
(五摂家に分裂するほどなので、独自の家にこだわり始めて内部闘争にエネルギーを取られたからというのもある。)
これぞ反社の仏教。師通を呪い殺した?
堀河天皇の時代は、美濃(みの。岐阜)で、比叡山・日吉社の荘園を没収した国司の美濃守・源義綱(みなもと の よしつな)の島流しの刑を求めて強訴が起きます。
(この没収は、お祖父ちゃんの後三条天皇が制定した荘園整理令にならったものなので不法荘園の可能性がある。)
国司(こくし)と郡司(ぐんじ)
国司
古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。
地方のすべての権限を持っていた。
京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)
送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)
今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。
もってる力は絶大。
偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。
長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。
それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。
受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。
平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)
鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。
戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。
- 織田 上総介(かずさのすけ)信長
- 徳川 駿河守(するがのかみ)家康
織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。
織田信長が一番偉くないのが面白い。
郡司
市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
強訴(ごうそ)
仏教徒が朝廷に要求するときに軍勢を率いて恫喝すること。
要求というより反乱に近い。
比叡山の僧が起こすことが多かった。
比叡山は仏教徒の中でも僧兵が多く、既得権益もたくさんもっていて、宗教勢力というより反社みたいなものだった。
戦国時代の比叡山は日本経済の半分を占めていたほどで、平安時代でもすでに相当の経済規模をもっていた。
この騒動を藤原師通(もろみち)は軍で鎮圧しました。その恨みで比叡山・日吉社の僧が呪詛します。
(師通を呪った。)
4年後に師通が亡くなると、日吉社の僧は『オレたちがやったったぞ!』と自慢して言いふらしていたそう。
現在人からするとたまたまとしか言いようがないですが。
唐突なエピソードをぶっ込みましたが、それくらい堀河天皇の時代は天皇のエピソードがありません。
当時の社会はこんなことあったよ、という意味で入れました。