歴代天皇 - 女帝中心の時代 -
孝徳天皇(こうとく)は、あの『大化の改新』をおこなった天皇です。日本で初めて元号を制定しました。『大化』。
でも、最後はみんなに嫌われて勝手に都を移されて、悲しみに暮れるなか孤独死します。
というか周りの人がヤバいと思うんですけど。
孝徳天皇は史上初の改元をした天皇でもあります。
古代 飛鳥時代
- 皇居
難波長柄豊崎宮
(なにわのながらのとよさきのみや)
- 生没年
- 596年 ~ 654年10月10日
推古天皇4 ~ 白雉5(はくち)
59才
- 在位
- 645年6月14日 ~ 654年10月10日
皇極天皇4 ~ 白雉5
10年
- 名前
- 軽
(かる)
- 別名
天万豊日天皇
(あめよろずとよひめ の すめらみこと)
- 父
茅渟王
(ちぬ の おおきみ)
- 母
吉備姫王
(きびつひめ の おおきみ)第29代 欽明天皇の孫
(きんめい)
- 皇后
間人皇女
(はしひと の ひめみこ)第34代 舒明天皇の皇女
(じょめい)
新しい国のかたちのリーダーとして即位
乙巳の変のあと、皇極天皇は皇太子の中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)に皇位を譲ろうとします。
しかし皇子は断ります。代わりに皇極天皇と両親がおなじで叔父さんの軽皇子(かる の みこ)を推薦しました。孝徳天皇の即位。
孝徳天皇は譲位で即位したはじめての天皇です。
孝徳天皇の時代の皇太子は引きつづき中大兄。3回目の皇太子就任。
スゴイですね? 皇太子は次の天皇になるためのものですが、中大兄は2回も天皇になっていません。
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
孝徳天皇は、中大兄の妹で天皇の姪っ子の間人皇女(はしひと の ひめみこ)を皇后に迎えました。
あとでわかりますが、これは皇極上皇・中大兄の意向がはたらいています。
分かってるよね? ピンチヒッターで、そのあとはまたこっちが引き取るよ?
というメッセージつきです。
孝徳天皇は日本ではじめて元号をたてました。そこからものすごい勢いで改革していきます。これが大化の改新です。
改革その1 天皇に忠誠を誓わせる
日本ではじめての元号は『天皇に忠誠を誓わせる』ためにつくりました。
乙巳の変のすぐあと孝徳天皇の新政権は、はじめに群臣を集めて決起集会を開きます。
ここで元号を使うこと、『大化(たいか)』であることを発表します。
大化は、『天子の広大な徳を人民に及ぼす』という意味。『徳を及ぼす』は人民に天皇の存在を知らせるという意味で、元号の制定は、
これから天皇を中心とした国家をつくるぞ!
それを国の隅々まで徹底するぞ!
という宣言。蘇我氏のように豪族が勝手なことをするのは許さないという決意表明でした。
改革その2 難波遷都
乙巳の変から半年後の大化元年12月には、難波(なにわ。大阪府)に都を移します。さすがに殺人事件を起こした場所では新しい出発はできないと考えたのでしょう。
孝徳天皇を支える人たちは暗殺を実行した人たちです。できれば思い出してほしくなかったのかもしれません。
『天皇の目の前で殺人を犯した犯罪者』という事実を。
改革その3 律令国家をめざす
孝徳天皇は、乙巳の変から間もない数か月のあいだに大改革を行います。蘇我氏のような豪族が勝手をしないような改革。そしてここで中国の律令制度を導入しました。
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
陵墓を自由に作らせない。 | 身分による陵墓を作るときのルールの見直 し。 天皇の陵墓は7日以内に作るなどして大きく ならないようにした。 古墳時代が終わる。 (天皇より大きな墓は作れない、7日で古墳 は作れないので、自然に墓は小さくなる) |
太政官の設置 | 左大臣・右大臣など新しい役職を作る。 大臣・大連は廃止。 特定の豪族が世襲で高位につくのをやめる。 氏姓制度が終わる。 |
冠位の改定 | 聖徳太子のころに制定された冠位十二階の変 更。 太政官を設置したので見直した。 |
その他いろいろ | 天皇を中心とした中央集権型の律令国家を作 るためのいろいろな改革。 |
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
古墳時代が終わり氏姓制度の廃止で、天皇が有力な豪族たちをまとめる政治体制も終わりました。大変革です。
ようは、力のある豪族のメンバーだからといっていい役職につけるとはかぎらないということですね? 制度上は個人の実力社会です。官僚社会ともいいます。
(といっても世襲はつづくのですが。)
ここで太政官という制度がはじめて登場しました。なじみのある左大臣・右大臣も登場します。
この太政官制度は明治の議会設置まで1200年以上つづきます。これに皇太子の中大兄を加えた布陣が孝徳天皇の新政権です。
皇太子 | 中大兄皇子 | 事実上の政権トップ。改革のすべて は中大兄が中心に行われた。 |
左大臣 | 阿部内麻呂臣 (あべ の うちまろ の おみ) | 推古天皇が亡くなったとき、田村皇 子(舒明天皇)と山背大兄皇子のど ちらを後継にするのかザワついてい た。 そのとき最大権力者の蘇我蝦夷(そ が の えみし)から相談されるほど の実力者。 乙巳の変には参加していない。 蘇我氏とその他の豪族と両方うまく やっていた中立の立場。 孝徳天皇の妃に娘・小足媛(おたら しひめ)を嫁がせていたので重用さ れたともいわれる。 小足媛は中大兄にだまされて殺され たとされる有馬皇子(ありま の み こ)の母。 |
右大臣 | 蘇我倉山田石川麻呂 (そが の くらやまだ の いしかわまろ) | 乙巳の変で朝鮮使節の親書を読み上 げて暗殺のタイミングをはかるため の時間稼ぎをした。 |
内臣 | 中臣鎌足 | うちつおみ/ないしん。 令外官。太政官にない官職。 中大兄を補佐するために作られた。 乙巳の変で活躍した鎌足のために設 けたと思われる。 のちの内大臣。 この格別の待遇が平安時代の藤原氏 の隆盛のきっかけになる。 |
太政官(だいじょうかん)
律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。
四等官 | 官位 |
---|---|
長官 (かみ) | 太政大臣(令外官) 左大臣 右大臣 内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活) |
次官 (すけ) | 大納言 中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活) 参議(令外官) |
判官 (じょう) | 少納言など |
主典 (さかん) | 省略 |
左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。
最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。
最初の太政大臣は大友皇子。
(その後、平清盛、豊臣秀吉など)
太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。
明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。
明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。
内閣の一員 -> 大臣(だいじん)
官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)
日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。
首相 = 総理大臣
財務相 = 財務大臣
○○相 | イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳 |
○○大臣 | 太政官の名残り。日本だけ。 |
政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。
ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。
大臣は『天皇の臣下のリーダー(大)』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。
この改革は半年くらいで一気に行ったので、たくさんの不満や反感を抱えました。
恐怖政治 殺人編 その1
中大兄皇子の政治は『敵は殺す』です。スタートからして乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺しました。
同じ年(大化元年)には、母ちがいの兄・古人大兄皇子(ふるひと の おおえ の みこ)を殺します。
古人大兄は蘇我入鹿に推されていた舒明天皇の長男で、母は蘇我馬子の娘。
(古人大兄は入鹿のいとこの息子。)
舒明天皇の長男ですが、皇后の息子でないので皇太子は弟の中大兄です。入鹿が生きているときは、大逆転の古人大兄の即位計画までありました。
それもあってか、乙巳の変のあと古人大兄の反乱計画を密告する人がでてしまい、中大兄は古人大兄を襲撃させ一族全員を滅ぼしました。
大兄(おおえ)
『いちばん上の兄ちゃん。将来のいちばん偉い人』の意味。名前に大兄がつく人は将来の天皇候補ナンバーワンになる。
身近な人のあいだでは『○○のアニキ』といったところ。
『兄』は目上の尊敬する人に使う『様』みたいなもので『大兄』の威力は絶大。
歴史の教科書に出てくる中大兄皇子(なか の おおえ の みこ)は皇太子で天智天皇になった。
ちなみに、中大兄は名前ではなく『真ん中のアニキ』『2番目のアニキ』のこと。
恐怖政治 殺人編 その2
649年(大化5)には、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂の中大兄暗殺計画が密告され、追いつめられた石川麻呂と妻や子供が自殺してしまいます。
(石川麻呂は、乙巳の変で朝鮮の親書を読んで時間稼ぎした暗殺部隊の主要メンバーで、新政権のナンバー3。)
でも、石川麻呂は濡れ衣を着せられていました。石川麻呂が嫌いなだれかが密告したのでしょう。
これを見ても、中大兄の政治は『密告すれば、とりあえず殺す』です。ザ・恐怖政治。何もしていないのに石川麻呂が自殺するくらいですから。
中大兄の政治は恐怖政治
史上初の改元
孝徳天皇は、はじめて年号を制定しただけでなく改元した天皇です。
密告・殺害がつづいたので気分を変えたかったのでしょう。大化6年には『白雉』(はくち)に改元します。
これが最初の改元。
白雉は、穴戸国(あなとのくに。いまの山口県)から朝廷に白い雉(キジ)が献上されたので、これはめでたいとなって新しい元号になりました。
と思うのはぼくだけでしょうか?
あまりにも殺伐としているので、なんでもいいからめでたいことにして強引に改元したんじゃないかと思います。
またまた遷都する
孝徳天皇の時代は動きがはやいです。たった5年で年号を白雉に改元し、その年におなじ難波(大阪府)の長柄豊崎宮に遷都します。
中大兄はこの遷都が気に入らなかったのか、もともと孝徳天皇が嫌いだったのか大和(いまの奈良)に帰りたいといい始めます。
ここから孝徳天皇の不幸がはじまりました。
イジメられてひとりになる
654年(白雉4)、ついに中大兄は、母の皇極上皇、妹で孝徳天皇の皇后・間人皇女、弟の大海人皇子(おおあま の みこ。のちの天武天皇)など、全員を連れて大和に帰ってしまいます。
孝徳天皇ひとりをのこして。
すごいです。ただのイジメ。イジメられたのが天皇。
ひとりぼっちになった孝徳天皇は天皇を辞めることまで考えます。
ショックを受けた孝徳天皇は翌年に病気になり、ひとりぼっちのまま死んでしまいました。
先代の皇極天皇も史上初を3冠達成した天皇でしたが、孝徳天皇も史上初を3冠達成した天皇です。
孝徳天皇の3冠
- 譲位を受けて即位
- 年号の制定
- 改元の実施
孝徳天皇はなぜ嫌われたのか?
中大兄は孝徳天皇のなにが嫌いだったのでしょうか?
ぼくは、孝徳天皇が『天皇らしくなった』のが原因だと見ています。
中大兄はどちらかというとオラオラ系です。密告があればちゃんと調べずに殺すくらいの。
『オラオラ』度数は、蘇我氏とたいして変わらないんじゃないかというくらい自分本位です。
これがピンチヒッター・孝徳天皇が嫌われた原因です。孝徳天皇が自分で政治をやりだしたら中大兄の出番はないですからね?
だったら、元号の大化を宣言したときに『天皇に従え!』なんて言わせなかったらよかったのに。
立場が人を成長させるんだから、そりゃ、孝徳天皇は天皇らしくなりますよ。