歴代天皇 - 存在は確認されるが本当のことは分からない天皇たち -
清寧天皇(せいねい)は生まれつき白髪で、妻をひとりも持たず子どももいませんでした。
ビジュアル的には一番カッコいい天皇に思えますが、個人的には実在があやしいと思っています。
古代の名門・吉備氏は清寧天皇の即位に不満をもった皇子に呼応して没落しました。
先史・古代 古墳時代
- 皇居
磐余甕栗宮
(いわれのみかくりのみや)
- 生没年
- 444年 ~ 484年1月16日
允恭天皇33 ~ 清寧天皇5年
? 才
- 在位
- 480年1月15日 ~ 484年1月16日
清寧天皇元年 ~ 清寧天皇5年
5? 年
- 名前
- 白髪武広国推稚日本根子尊
(しらか の たけひろくにおし わかやまと ねこ の みこと)
- 父
第21代 雄略天皇
(ゆうりゃく)
- 母
葛城韓媛
(かずらき の からひめ)葛城円の娘
(かずらき の つぶら)
- 皇后
なし
唯一の皇位継承者
先代で父の雄略天皇は、ライバルの皇子たちをみな殺しにしたので、後継者の候補は息子・白髪武広国推稚日本根子尊(しらか の たけひろくにおし わかやまと ねこ の みこと)のひとりだけでした。
でも清寧天皇は雄略天皇の第3皇子で二人の兄がいます。星川稚宮皇子(ほしかわ の わかみや の みこ)と磐城皇子(いわき の みこ)。
この二人に皇位継承の資格がありませんでした。少なくとも父・雄略天皇はそう考えていたようです。
皇太子は武広国推だったので。
妻のランクは息子に影響する
二人の兄が皇位継承から外れていた理由は2つあります。
ひとつは母のランク。雄略天皇には、おもに3人の妻がいました。
名前 | 人物像 | 子ども |
---|---|---|
草香幡梭姫皇女 (くさか の はたひひめ の ひめみこ) | 第16代 仁徳天皇の娘。 雄略天皇の叔母。 | なし |
葛城韓媛 (かずらき の からひめ) | 葛城氏の娘。 | 白髪武広国推稚日本根子尊 |
吉備稚媛 (きび の わかひめ) | 吉備氏の娘。 雄略天皇とは再婚。 その前に同じ吉備氏の夫がいた。 | 前夫との間に二人の男子。 星川稚宮皇子。 磐城皇子。 |
ダントツトップは皇后の幡梭姫皇女です。当時は、皇后は皇族から出すのがあたり前でした。
その次が、広国推の母・韓媛です。葛城氏は豪族ですが天皇の子孫です。これまで皇后を出したこともありました。
(仁徳天皇の皇后など。)
そしていちばん下のランクが稚媛です。吉備氏は吉備(岡山)地方の大豪族ですが天皇の子孫ではありません。
(ずっとヤマト王権を支えてきた名門ではある。)
雄略天皇と吉備氏は対立していたので和解のための政略結婚でしょう。
稚媛には皇子でない息子が二人いる
もうひとつは、稚媛は雄略天皇と結婚する前、同じ吉備氏の男と結婚して二人の男子がいたことです。
星川稚宮と磐城皇子は稚媛が雄略天皇と結婚してからの息子なので皇族ですが、上の兄は皇族でなく吉備氏の一族でした。
将来天皇になると争いの元になると考えたのでしょう。おそらくこれが一番の原因です。和解したとはいえ、つい最近まで敵対していたので。
兄が豪族のままで弟が天皇とかややこしいし。
吉備氏が天皇の兄の立場を利用するんじゃないか? とヤマトは警戒したんじゃないか?
代々天皇の一番近くの席が定位置だった武内宿禰の子孫氏族も吉備氏の台頭は許せません。
(このときトップは平群氏(へぐり)。聞いたことない氏族だが、当時、かつての葛城氏やのちの蘇我氏のような勢いがあった。)
兄・星川稚宮皇子のクーデター
弟が皇太子になったのに不満をもった人がいます。吉備稚媛と星川稚宮皇子です。
雄略天皇が亡くなると、稚媛は星川稚宮に大蔵(いまの財務省)を占拠させました。
そこで大連・大伴室屋(おおとも の むろや)は兵を送り、稚媛と星川稚宮を焼き殺します。
(やっぱりヤマト王権は吉備氏を恨んでいた?)
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
そして皇太子が即位しました。清寧天皇です。
磐城皇子はどうなったか分からない。
もともと存在感がなく、星川稚宮がクーデーターを起こそうとしたとき、『そんなことはできない』と言ったところしか登場しない。
殺されたのか、逃げたのか...。そもそも存在しない人なのかも?
吉備氏の没落
このクーデターに吉備氏も参戦しています。吉備(岡山)から40隻の船団を送り出しました。
クーデターが失敗して吉備氏は領地を没収され、大豪族の吉備氏はこれをきっかけに没落しました。
何百年も後に吉備真備(きび の まきび)を輩出するなど滅亡まではしてませんが、『かつての名門』という立ち位置で、せいぜい中堅がいいところ。
雄略天皇の和解は、戦国武将さながらの思惑が両者に働いていたのでしょう。
いつかヤマトを越えてやるという吉備氏の野心と、チャンスがあれば吉備氏を潰してやろうというヤマトの思惑が早くも激突しました。
古代の日本は、天皇を中心としたヤマトに並ぶ氏族として出雲(いずも。島根)と吉備氏(きび。岡山)がありました。
清寧天皇の即位は、ヤマトが長年のライバルを蹴落として吸収した瞬間を象徴しています。
生まれつき白髪。ほんとうか?
清寧天皇は5世紀後半に活躍したと考えられています。生まれつき白髪で、ビジュアルで『何かスゴイものをもっている』と思われたようです。
名前に出ています。
白髪武広国推稚日本根子尊
白髪 | 見たまま。 |
武広国推 | 名前の部分。 |
稚 | 幼いという意味。 少年少女。 |
日本根子 | 『やまと』がつくのは壮大な名前。 初代・神武天皇にもついていた。 |
尊 | 天皇になる皇子につく。 『様』の最上級。 |
たいした業績はないのに名前だけは一級品です。このへんが不思議なんですよね?
在位期間も5年で短いし。(その年数すら怪しい)
ほんとうにいたのか怪しいから名前でごまかそうとしていると思うのはボクだけでしょうか?
妻も子どももいない。皇統はどうなる?
清寧天皇は、父・雄略天皇が皇子たちを根こそぎ殺したのにもかかわらず、妻をもちませんでした。子どももいません。
『皇統が自分の代で終わってもいい。』と思っていたんじゃないかと疑いたくなります。
救世主現る
ある日、父・雄略天皇が殺した第17代 履中天皇の皇子・磐坂市辺押磐皇子(いわさか の いちのべ の おしは の みこ)の二人の息子が都をはなれて生きていることが分かります。
清寧天皇は、『ちょうどいい。後継者ができた』と都に呼びよせました。
億計王(おけ の みこ。のちの仁賢天皇)と、弘計王(をけ の みこ。のちの顕宗天皇)です。
これまた適当ですね? この二人の皇子は、父が殺されて自分たちも危ないと身をかくしていました。
避難先では身分すらかくして、そこの豪族に仕えています。見つかったとき、ただの下人でした。
下人(げにん)
主人に仕える身分の低い人。
それをかんたんに皇子に復帰させるとか適当すぎます。『自称・皇子』だったらどうするのでしょうか?
この時点で、男系継承は途切れてるんじゃないか? と疑います。
古事記では、清寧天皇はだれも後継者を作ることなく亡くなる。
臣下たちが困って、履中天皇の娘・飯豊女王に政務を任せた。そのあと、二人の皇子が生き残っているウワサを聞きつけ、急遽、都に呼び戻す。
男系男子継承は重要でない?
ボクはひとつの仮説を立てています。
男系継承は大事じゃなかった?
男帝にもこだわっていなかった?
さっき、天皇の妻にはランクがあると言いました。
1 | 皇族 |
2 | 天皇の血筋をもつ臣下(豪族) |
3 | 天皇の血筋をもたない臣下 |
4 | その他、天皇のお気に入りの娘。 |
古墳時代の皇后は皇族があたりまえなので、その血筋があればいいじゃないか?と思っていたように感じます。
そして、男がいなかったら女でもいいじゃないか? と思っていたとも感じます。
じっさい、次の第23代 顕宗天皇が即位するまで、天皇がいない空白期間がありました。そのあいだ、代わりをつとめたのが飯豊女王(いいどよ の ひめみこ)。
顕宗天皇は飯豊が亡くなってから即位しています。古事記では天皇のあつかいで日本書紀も否定していません。
(飯豊天皇と呼ばれる)
まるで天皇じゃないか? とも思いますが、ボクはある理由で天皇にできなかったと考えています。
ほんとうにいたのだろうか?
清寧天皇は皇后をもたず、妻をもたず、子どももなく、そして生まれた日も死んだ日もはっきりしません。
年齢すら不詳。
(最初のプロフィールはそう言われている日)
おまけに白髪ときたら、『この人はゲームのキャラクターでしょうか?』と言いたくなるくらいナゾの男。
(熱狂的な女性のファンがつきそう。)
ただ、ないないづくしが嫌だったのか、白髪部舎人(しらかべ の とねり)や白髪部膳夫(しらかべ の かしわで)などの役人を諸国に置いています。
(舎人は警備員。膳夫は料理人。)
名を残すために、自分の名前がついた役職を作りたかったのでしょう。
皇族だけじゃない。臣下の急激なメンバーチェンジ。
一番最初の日本の三大勢力といえば、天皇がリーダーのヤマトの加え、出雲大社のある出雲(いずも。島根)、そして吉備氏の本拠地がある吉備です。
ヤマトは宗教的に出雲とライバル関係にありました。神々の時代からの対立関係。
神々の神話ではその和解が何度も行われています。第10代 崇神天皇の時代には、ヤマトは出雲も大事にする宗教的なルールが確立していました。
そして、第13代 成務天皇以降は、武内宿禰の子孫氏族も一大勢力に加わりました。
この4大勢力でヤマトは運営するようになってます。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)
大連は、古代のヤマト王権の最高の役職。連(むらじ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。大伴氏(おおとも)や物部氏(もののべ)。
大臣も古代のヤマト王権の最高の役職。臣(おみ)の姓をもらった氏族の実力者が代々つとめた。葛城氏(かつらぎ)や蘇我氏(そが)など。
大臣は300年4代の天皇に仕えたとされる伝説の臣下、武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫たちが多い。
大連はヤマト王権では軍事・警察を担当。
大臣はもともとヤマトと同格の氏族でヤマトの協力者、大連は昔からヤマトに仕えた臣下といわれるが、武内宿禰はあてはまらない。
ちなみに、大臣は妃を出せるが大連は出せない理由も、もともと同格の大臣からは出せて臣下からは格が違うから出せないと説明される。
しかし、武内宿禰は第8代 孝元天皇の子孫だとされるので、由緒ある家柄だから嫁に出せたという理由の方が説明がつく。大伴・物部氏の祖先は天皇ではない。
連も臣も氏姓制度で設けられた姓。
いまでも政治の最高実力者は総理大臣、外務大臣など大臣(だいじん)というが、ここに由来があるのかは分からない。
(個人的にはあるような気がする。)
吉備地方は神武の東征神話でいち早くヤマトに味方した勢力で、初代・神武天皇の天下統一に大貢献したところ。
その子孫が吉備氏で、それが理由で大豪族になり天皇に嫁を出す氏族として重宝されていた。
ヤマトの大勢力の中で天皇と血縁関係がないのは吉備氏だけ。
ちなみに、出雲のカミの祖先と伊勢のカミは姉弟なので血縁関係はある。人間の話じゃないけど。
(アマテラスとスサノオは姉弟。スサノオの子孫がオオクニヌシ。)
皇族の大混乱は臣下にまで影響した?
第16代 仁徳天皇のあと、今まで定位置にあった人たちが立て続けに没落しています。
それは、清寧天皇の叔父さんの安康天皇の暗殺、父・雄略天皇の皇子皆殺しに呼応するように。
これまで4大勢力だった武内宿禰の子孫氏族の葛城氏(かずらき)は雄略天皇の時代に没落し、長年、ヤマトに匹敵する勢力だった吉備氏(きび)は清寧天皇のときに没落しました。
そして新たに出てきたのが、葛城氏と同門の平群氏(へぐり)。
このころはヤマト全体の転換期でした。これ以降は葛城氏や吉備氏は天皇の嫁に出す家ではなくなっていきます。
そして、平群氏のあとに出てくるのが、これまた同門の蘇我氏(そが)。
この混乱期が、その後のヤマトの方向を決めたと言っても過言じゃありません。
(といっても混乱はまだ収まらない。とくに天皇のなり手が安定しない。)