歴代天皇 - 藤原氏に権力を委ねた天皇たち -
醍醐天皇(だいご)は歴代天皇の中でただひとり民間人出身の天皇です。
父の宇多天皇は一時期、皇族を離れ民間人だったことがあり、そのときに生まれたのが醍醐天皇でした。
生まれたときは親王でなければ皇子でもありません。その一民間人が天皇になります。
大胆に改革を断行した天皇でした。
中世 平安時代 - 中期 -
- 皇居
平安宮
(へいあん の みや)
- 生没年
- 885年1月18日 ~ 930年9月29日
元慶9 ~ 延長8
46才
- 在位
- 897年7月3日 ~ 930年9月22日
寛平9 ~ 延長9
34年
- 名前
- 敦仁
(あつぎみ)
- 別名
維城
(これき。初名)金剛宝
(こんごうほう)延喜帝
(えんぎてい)
- 父
第59代 宇多天皇
(うだ)
- 母
藤原胤子
(ふじわら いんし / たねこ)藤原高藤の娘
(ふじわら たかふじ)
- 皇后
藤原穏子
(ふじわら おんし / やすこ)藤原基経の娘
(ふじわら もとつね)
- 皇妃
為子内親王
(ためこ)第58代 光孝天皇の皇女
(こうこう)
- 妻
その他
どうやって民間人から天皇になったのか?
醍醐天皇は生まれたとき皇族ではありませんでした。
父は第59代 宇多天皇で一時期、第58代 光孝天皇の意向で皇族をはなれ民間人でした。そのときは源定省(みなもと の さだみ)と名乗ります。
この民間人のときに生まれたのが醍醐天皇でした。そのときの名前は源維城(みなもと の これざね)。
両親が皇族でない人が天皇になったのは、歴代天皇で醍醐天皇だけ。
ちなみに、醍醐天皇のおじいちゃん・光孝天皇は、たくさんの子どもがいてそのほとんどを民間人にしちゃった人です。
(大量の光孝源氏が生まれた。)
源氏二十一流(げんじにじゅういちりゅう)
天皇の子孫の氏族の源氏には21の系統がある。その総称。
天皇の息子・孫を臣籍降下して民間人にするのに源(みなもと)姓は多く使われ、第52代 嵯峨天皇の息子から始まる。
平安時代の初期から中期にかけて、天皇は源氏を作るのが常識なほど一番多く作られた。
ペースは徐々に落ちていくが、戦国時代の第106代 正親町天皇の系統が江戸時代初期に作られたのが最後。
1 | 第52代 嵯峨天皇 | 嵯峨源氏 (さが) | 最初は、左大臣・右大臣など、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。 徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなる。 渡辺氏、松浦氏、蒲池氏など知る人ぞ知る武士に残った程度。 |
2 | 第54代 仁明天皇 | 仁明源氏 (にんみょう) | 嵯峨源氏と同じく、藤原氏と並ぶ政治家一門だった。 仁明源氏の中から平氏に枝分かれしたのもいる。 (仁明平氏) 徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。 |
3 | 第54代 文徳天皇 | 文徳源氏 (もんとく) | 前例と同じく藤原氏と並ぶ政治家一門だった。 徐々に藤原氏に押され有力政治家を出さなくなり、その後目立った人は出ていない。 |
4 | 第56代 清和天皇 | 清和源氏 (せいわ) | 政治家としてはパッとしない。 国司や軍事専門の地方役人などに多くの人を輩出する。 それらが武士となり、日本最高の武家一門に成長する。 源頼朝、足利高氏など有力武将は数知れず。 貴族としては公卿にギリギリ滑り込んだ程度。 唯一残っていた竹内家がつづき明治に華族になった。 21の源氏の中でもっとも有名になった家。 村上源氏以外でただひとり、足利義満が太政大臣になった。 |
5 | 代57代 陽成天皇 | 陽成源氏 (ようぜい) | 多くの公卿を輩出する政治家一門だったが、これまでの源氏と比べ見劣りする。 その後も目立った貴族、武士などはいない。 |
6 | 代58代 光孝天皇 | 光孝源氏 (こうこう) | 最初は、中納言を輩出するなど政治家一門だったがフェードアウト。 その中でひとり、康尚(こうしょう)が仏師になり日本仏教彫刻の最大勢力、慶派(けいは)を作っていく。 鎌倉時代の有名な彫刻家、運慶・湛慶(うんけい・たんけい)もその子孫。 その他、数々の天才彫刻家は数知れず。 慶派は幕末の動乱まで仏師の主流だった。 (日本の彫刻界の中心だったと言ってもいい。) |
7 | 第59代 宇多天皇 | 宇多源氏 (うだ) | 最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。 鎌倉時代には綾小路家・大原家など公卿の中堅に多くを出した。 明治になると多くが華族になる。 佐々木氏など有力武士も多いが天下取りを争うほどではない。 |
8 | 第60 醍醐天皇 | 醍醐源氏 (だいご) | 最初は左大臣を出すなど政治家一門だったがフェードアウト。 その後、貴族ではあったが地下家(じげけ)で上流貴族になれていない。 地方に散らばり武士になった人も多いがメジャーではない。 |
9 | 第62代 村上天皇 | 村上源氏 (むらかみ) | 多くの源氏が朝廷でフェードアウトする中、最後まで上流貴族を保った。 (天皇の子孫の意地を見せた。) 藤原氏にかくれているが、貴族の源氏と言えば村上源氏というくらいの勢力。 源氏で最大の3人の太政大臣を出す。 明治維新の岩倉具視(いわくら ともみ)を出した。 武士では北畠氏(きたばたけ)を出した。 |
10 | 第63代 冷泉天皇 | 冷泉源氏 (れいぜい) | 作られた当初から存在感がない。 本当にあったのか? と思うほど。 |
11 | 第65代 花山天皇 | 花山源氏 (かざん) | ギリギリ上流貴族の半家に白川伯王家(しらかわはくおう)が残っただけ。 1家で頑張ってきたが昭和になって断絶した。 |
12 | 第67代 三条天皇 | 三条源氏 (さんじょう) | 貴族では最初からパッとしない。 僧侶や天皇の妻などになり目立たない。 |
13 | 第71代 後三条天皇 | 後三条源氏 (ごさんじょう) | ひとりだけ源氏になった源有仁(みなもと の ありひと)は左大臣までなったが後継者がいなくて断絶。 武士の中には後三条源氏を名乗るものがいたが自称の可能性が高い。 |
14 | 第77代 後白河天皇 | 後白河源氏 (ごしらかわ) | 反平家の挙兵をした以仁王(もちひとおう)ひとりだけ。 皇籍を剥奪され懲罰で源氏になった。 討伐軍に追われて戦死。 |
15 | 第84代 順徳天皇 | 順徳源氏 (じゅんとく) | ひとり左大臣を出した。 室町幕府 第3代 将軍・足利義満(あしかが よしみつ)のときに最後の一人が出家してしまい断絶。 |
16 | 第88代 後嵯峨天皇 | 後嵯峨源氏 (ごさが) | 源惟康(みなもと の これやす)ひとりだけ。 鎌倉幕府 第7代 征夷大将軍になる。 親王のままの将軍は都合が悪いから源氏になった可能性が高い。 |
17 | 第89代 後深草天皇 | 後深草源氏 (ごふかくさ) | 鎌倉幕府 第8代 将軍・久明親王(ひさあきら)の孫が源氏になる。 大納言にまでなったがあとが続いていない。 |
18 | 代90代 亀山天皇 | 亀山源氏 (かめやま) | 特筆する人はない。 |
19 | 第84代 後二条天皇 | 後二条源氏 (ごにじょう) | 特筆する人はいない。 |
20 | 第96代 後醍醐天皇 | 後醍醐源氏 (ごだいご) | 後醍醐天皇の孫が源氏になったと言われるが、詳細がない。 (信憑性はないかも?) 武家の大橋氏、神社を代々守る社家の氷室氏など末裔を名乗る氏族はいる。 |
21 | 第106代 正親町天皇 | 正親町源氏 (おおぎまち) | 正親町天皇は織田信長・豊臣秀吉のころの天皇だが、江戸時代にその子孫が源氏になる。 広幡家(ひろはた) 摂関家に次ぐ清華家になるなど格別の待遇を受けた。 明治になると華族になる。 |
源氏として活躍したのは平安中期までに作られた源氏で、村上源氏で勢いは止まる。
その後は活躍する人が出ていない。鎌倉時代は幕府の将軍が大きく関係している。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
貴族の家格(かかく)
平安時代になると特定の家が要職を占めるようになる。
鎌倉時代になると貴族のランクが家単位で固まった。それを家格という。
1 | 摂関家 (せっかんけ) | 摂政、関白、太政大臣になる。 五摂家。 すべて藤原北家の流れ。 |
2 | 清華家 (せいがけ) | 摂政・関白はなれないが、太政大臣になる道があった。 江戸時代には最高位が左大臣に下げられる。 (江戸時代に太政大臣は摂関だけに限定。) 三条(さんじょう) 西園寺(さいおんじ) 徳大寺(とくだいじ) 久我(こが) 花山院(かざんいん) 大炊御門(おおいのみかど) 菊亭・今出川(きくてい。または、いまでがわ) の7家。 久我家は唯一、天皇の子孫の源氏の流れ。 (村上源氏) ほかはすべて摂関家に食い込めなかった藤原氏北家。 江戸時代に広幡家(ひろはた)と醍醐家(だいご)を追加した。 広幡家は第106代 正親町天皇の子孫の正親町源氏。 醍醐家は五摂家のひとつ一条家の分家。 |
3 | 大臣家 (だいじんけ) | 清華家の分家。 摂関家・清華家はなれない参議 -> 中納言とステップアップする家。 大納言・近衛大将を飛び越えて内大臣になる道もあった。 (まれに右大臣になる人もいた。) 太政大臣になることもできたが江戸時代に廃止。 正親町三条・嵯峨(おおぎまちさんじょう。のちにさが) -> 三条家の分家。藤原氏。 三条西(さんじょうにし) -> 正親町三条の分家。藤原氏。 中院(なかのいん) -> 久我の分家。村上源氏。 の3家。 |
4 | 羽林家 (うりんけ) | 近衛少将・中将になる。 参議 -> 中納言 -> 大納言にステップアップする家。 軍事を担当する。 江戸時代には大名家に与えられた。 藤原北家: 51家(上位や同じ羽林家からの分家) 藤原南家: 4家 村上源氏: 8家(久我の分家) 宇多源氏: 3家 数がいきなり増える。また、藤原南家、宇多源氏など、上位に見られない系統もある。 |
4 | 名家 (めいけ / めいか) | 序列は羽林家と同じ。 最高位も同じで大納言。 (例外で左大臣になる人もいた。) 天皇のお世話係の侍従・文書作成などの弁官から出世する。 羽林家は武門に対して名家は文官。 藤原北家: 25家 桓武平氏: 3家 平安末期にイケイケだった平家がひっそりと残る。 |
5 | 半家 (はんけ) | 大納言になった人がいるがほとんどが参議になってない。 (上流貴族でも政権中枢に入れない) 特殊技能を使って朝廷の仕事をした。 藤原北家: 2家 清和源氏: 1家 宇多源氏: 2家 花山源氏: 1家 桓武平氏: 2家 菅原氏(すがわら): 6家 清原氏(きよはら): 3家 大中臣氏(おおなかとみ): 1家 卜部氏(うらべ): 4家 安倍氏(あべ): 2家 丹波氏(たんば): 1家 大江氏(おおえ): 1家 いろいろな氏族が入っている。 菅原道真(すがわら の みちざね)の菅原氏、マイナーな源氏など。 清原氏は天皇の子孫。源氏よりも古く、飛鳥・奈良時代の天皇から分家した。 大中臣氏は藤原氏の祖先・中臣氏の流れ。藤原氏の本家筋。 古代から宮中祭祀を仕切る仕事をしてきた。 卜部氏は卜筮(ぼくぜい)という占い専門の集団。 安倍氏も天皇の子孫。第8代 孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこ の みこと)の流れで天皇の子孫でもダントツに古い。 (神話の話で信憑性も薄い。) 安倍氏の系統・土御門家(つちみかどけ)は陰陽道を駆使した。 陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい)がいた家。 丹波氏は、第15代 応神天皇のころに来日した渡来系氏族の末裔。 坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)を出した坂上氏の分家。 医療技術(薬剤を含む)を駆使し多くの医者を出した。 大江氏は、古代からの氏族・土師氏(はじうじ)の分家と言われる。 土師氏は埴輪(はにわ)を開発した野見宿禰(のみ の すくね)から始まる土木技術を得意とした氏族。 (ちなみに、野見宿禰は日本最古の力士・相撲取りとも言われる。) 上流貴族にギリギリ入り込んだランクではあるが、氏族・得意分野のバリエーションが多く魅力的な集団。 |
表の6つのカテゴリは堂上家(どうじょうけ)といい、天皇の住居兼オフィスの清涼殿(せいりょうでん)に入ることが許された貴族。
堂上家は太政官の政権中枢の役職(中納言・大納言・右大臣・左大臣)になれる貴族で公卿(くぎょう)ともいう。
堂上家に対して、昇殿を許されない貴族もいた(江戸時代には460家以上)。地下家(じげけ)という。
また、堂上家(公卿)じゃないのに昇殿が許された人を殿上人(てんじょうびと)という。
これらのカテゴリは貴族の位階で決まっていた。
正一位 従一位 正二位 従二位 正三位 従三位 | 堂上家 | 無条件に清涼殿への出入りが許される。 政権中枢の人しかいない。 今でいうと、代々内閣の閣僚を務める家。 |
正四位上 正四位下 従四位上 従四位下 正五位上 正五位下 従五位上 従五位下 | 殿上人 | 本来は清涼殿への出入りは許されないが、天皇が認めた者だけ許された。 実態は堂上家が認め天皇が追認。 この中には太政官以外の、国司や検非違使、六衛府の長官なども含まれる。 今でいうと、内閣府も含め各省庁の長官で天皇に謁見が許される人がいたということ。 |
正六位上 以下 | 地下家 | 清涼殿への出入りが許されない。 |
朝廷の官職は位階によって決まるので、自動的に家柄で役職が決まった。
位階と官職はリンクしているので2つセットで官位(かんい)という。
五摂家(ごせっけ)
平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。
鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。
- 近衛(このえ)
- 九条(くじょう)
- 二条(にじょう)
- 一条(いちじょう)
- 鷹司(たかつかさ)
くわしくは『摂関政治とは何か?』で。
五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。
1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。
民間人になった定省は天皇の父に仕えて支えました。その仕事っぷりと人格が認められて、たった3年で皇族に復帰して皇太子になり即位します。
父が皇族に復帰するのといっしょに醍醐天皇も親王として皇族になりました。名前も敦仁親王(あつぎみ)に変わりました。
じゃあ最初っから民間人にするなよ!っていう話です。
皇位継承の迷走
醍醐天皇のお祖父ちゃん・光孝天皇も天皇になるはずはありませんでした。
その前の第57代 陽成天皇(ようぜい)がおイタな人で、天皇をクビになったのでピンチヒッターで即位します。
自分の子どもたちをどんどん民間人にしたのは、自分は傍流で次は嫡流に皇統を返そうと思っていたから。
(嫡流は第56代 清和天皇の息子たち。)
しかしそれは、光孝天皇を即位させた関白・太政大臣・藤原基経(ふじわら もとつね)が難色を示したので、自分の息子を皇太子にして宇多天皇が即位しました。
基経は叔父さんの長良の養子で、清和天皇を産んだ義理の妹・高子とは犬猿の仲。
高子と距離をとって自分の娘を天皇に嫁がせるには清和系統に戻すわけにはいかなかった。
清和天皇の息子・陽成天皇にクビを言い渡したのも基経。
父が即位したあと、891年、敦仁親王は皇太子になります。
897年、13才のとき、父が退位して醍醐天皇が即位します。ついに民間人に生まれた源維城が天皇になりました。
醍醐天皇は、基経がNoと言わなければ光孝源氏として生きていくはずでしたが、まったく別の人生のはじまります。
醍醐天皇は官僚人生を歩むはずだった。左大臣・右大臣になった可能性も高い。
最初は宇多天皇のつづき
醍醐天皇は即位したとき13才だったので、実際は父・宇多法皇が実権をもっていました。院政みたいなもの。
(宇多上皇は出家して法皇になっていた。しかもまだ33才で若い。)
そこで、政権も法皇が用意してあげます。
宇多天皇の最側近、菅原道真をそのまま置き、その上に成長した藤原時平を置きました。
(時平は摂政・関白・太政大臣を歴任した藤原基経(ふじわら もとつね)の息子。)
関白・太政大臣はいません。宇多天皇は摂関政治を止めて天皇親政をしたので、それを息子にもつづけてほしかったのでしょう。
政権トップは左大臣の時平です。時平はくやしかったでしょうね? 関白・太政大臣になれなくて。
少年の醍醐天皇は勉強熱心で、法皇の言うことも素直に聞いていたそう。
自分を出したくて反抗期突入
ここでだまっている藤原時平ではありません。まだ20代後半のエネルギッシュな時平は、すでに55才になっていた菅原道真がうっとうしくなります。
経験、法皇からの信頼、役職以外はすべて上だったのでよけいに。
そして、醍醐天皇も同じで世代間ギャップがありました。醍醐天皇の皇后・穏子(おんし)は時平の妹です。時平は天皇の義理の兄でした。
天皇からするといろんな意味でアニキ的存在なので意見も合います。もしかすると道真はオヤジがつけた目付役に見えていたでしょう。
そんなとき事件が起きます。
菅原道真を左遷
藤原時平は菅原道真に対する誹謗中傷をくり返しました。901年1月、道真が天皇の弟・斉世親王(ときよ)を天皇にして醍醐天皇をクビにしようとしているという情報を流します。
(もちろんウソ。)
それに醍醐天皇はブチ切れました。斉世親王には道真の娘が嫁いでいたので信じたのでしょう。
(すでに道真とは対立していてクーデターとでも思ったか?)
道真を太宰権師(だざいごん の そつ。太宰府の長官)にして九州に左遷、道真の子どもたちを全員クビにしました。
それを聞いた宇多法皇は説得しようと宮中へ行こうとしますが、醍醐天皇は会おうともしません。
宇多法皇の影響力はなくなり、醍醐天皇は自分で政治を行おうとします。そこで頼りにしたのが時平。
時平がひとりで政治のすべてを引き受けることになりました。
斉世親王のその後は出家して、父・宇多法皇が住んでいた仁和寺に引っ込んだ。
延喜の治(えんぎのち)
醍醐天皇はただの反抗期ではありません。後世に語り継がれるほどの改革をどんどん実行していきます。
荘園整理令の発布 | 力さえあれば私有地(荘園)をどんどん 増やせるのを抑える政策。 不正が横行していた。 |
延喜格式 | いわゆる憲法改正。法律の制定・改訂。 |
『日本三大実録』の編纂 | 六国史(りっこくし)に数えられる正史 を作る。 |
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
また、紀貫之(き の つらゆき)に初の勅撰和歌集『古今和歌集』(こきんわかしゅう)を作らせました。
これらの政策は天皇親政の教科書とも言われるくらいで、室町時代の第96代 後醍醐天皇も参考にしました。
(だから後醍醐天皇。)
醍醐天皇のこれらの治世を『延喜の治』と言います。平安時代の有名な政治改革のひとつ。
強大な怨霊に呪われて死亡
菅原道真は左遷された九州で悔しい思いをしながら亡くなりました。そのあと不幸がつづきます。
39才の若さで左大臣・藤原時平が亡くなる。 |
21才の若さで皇太子・保明親王(やすあきら)が亡くなる。 |
皇太孫・慶頼王(よしよりおう)が5才で亡くなる。 皇太孫は皇太子の孫バージョン。 皇太子の急死で次期天皇に指名されていた。 |
醍醐天皇が指名した次期天皇がなぜか亡くなってしまいます。こんなことは歴代天皇の中でほかにいません。
みな、道真が怨霊になったからだと恐れました。923年、道真の怒りを鎮めるために右大臣に戻します。
(もちろん死んでいるので名誉回復の意味。)
でも時すでに遅し。宮中に雷が落ちて公卿(くぎょう)が数人焼け死ぬという大惨事まで起きました。
(公卿は政権中枢の貴族のこと。)
同じ年、醍醐天皇の体調がだんだん悪くなっていき、終わりを悟ったのか息子の寛明親王(ゆたあきら。次の朱雀天皇)に皇位を譲って7日後に亡くなります(46才)。
こうも不幸がつづくと、菅原道真の怨霊に呪い殺されたと言われてもしかたがありません。
(怨霊の祟りは次の朱雀天皇のときもつづく。)
清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)は今でいうと、首相官邸で会議をするため閣僚が集まっているときに雷が落ちて死人が出たようなもの。
亡くなった人には政権ナンバー3の大納言・藤原清貫(ふじわら きよつら)もいた。
清貫は左遷された菅原道真の動向を探るスパイだったといわれ、それが道真怨霊の噂の大元のひとつだった。
天罰が下るとはこういうこと。
天満宮(てんまんぐう)は怨霊を鎮めるための神社
日本全国に天満宮と言われる神社はたくさんあります。この神社に祀られているのは菅原道真。
天満宮はもともと強大な怨霊になってしまった道真を鎮めるために作られました。
いまでは学問の神さま(天神さま)と言われますが、これはあと付け。道真が優秀な学者だったので言われるようになりました。
天神さまは本当は受験生を守ってくれる優しい神さまではなく、恐ろしい怨霊の神さまです。なにせ三大怨霊なので。
(天から雷を落とした神さま。)
天満宮は日本全国にたくさんあります。その中でも総本山とされているのが京都にある北野天満宮(きたのてんまんぐう)。
また、道真が亡くなった場所にある太宰府天満宮も総本山と同じように見られてます。
総本山が二つあるのは、それだけ怨霊が強烈だったということか?
結果的に摂関政治をパワーアップさせる
醍醐天皇の治世は天皇親政で後世の人もその評価をしています。しかし一方で、摂関政治、藤原北家がパワーアップするきっかけも作っています。
これがなかったら藤原最強はあったのか怪しいくらいのことが。
藤原出身の皇后が復活
醍醐天皇の前までの60年間、藤原氏から皇后は出せませんでした。第51代 平城天皇がチョンボしたから。
系図を見れば分かりますが、それでも天皇の妻に藤原氏(北家が主)からコンスタントに出しています。
そして天皇の母も藤原氏でした。天皇家と一体になってるくらい。
(おばあちゃん、ひいおばあちゃんも藤原氏。)
そんな藤原出身の妻は、天皇の妻の最高ランク、皇后・后妃になれてません。天皇家の一員でも天皇の妻として信用されてませんでした。
醍醐天皇からそれが変わります。醍醐天皇の皇后・穏子(おんし)は藤原氏の長者の出身です。60年ぶりに藤原氏出身の皇后が復活しました。
藤原氏の信頼を落としたのが没落した藤原式家だったのと、半世紀もすぎると天皇家の一員として頑張ってきたので、もういいだろうになったのでしょう。
皇族出身を超える藤原氏出身の妻
それだけなら納得です。しかしこれだけではありません。醍醐天皇にはもうひとり妻がいました。叔母さんの為子内親王(ためこ)です。
為子内親王はもうひとつの最高ランクの妻・后妃で正室ですが、皇后がいるときは『もうひとりの正室』になります。若干、皇后よりランクは低い。
これまでの歴代天皇では絶対にありえないことでした。天皇の妻は、
皇族出身
遠縁の皇族
有力豪族出身
その他
でランクが決まっていました。
遠縁の皇族と有力豪族出身の順番は微妙ですが、少なくとも皇族の中の皇族、内親王と有力豪族では雲泥の差がありました。
醍醐天皇の妻はそれが逆転しています。為子内親王は天皇の子で天皇の妹、そして天皇の妻なのに。
藤原氏と天皇家の一体化が進んで、内親王と家族の藤原氏の娘は同じ身内に見えたのかも知れません。
穏子が皇太子を産んだのが決定打になったと言いたいところだが、これまでは内親王の皇后以外の妻に皇太子が生まれても、妻ランクが逆転することはなかった。
内親王の皇后はあくまで皇后。皇太子を産んだそれ以外の妻は最上位でも后妃。
この大きな変化はデカい。
内親王より藤原氏出身の天皇の妻のランクが上になるのは初。
天皇の妻の序列が変わった。
摂関政治を完成させた藤原忠平の登場
藤原忠平(ふじわら ただひら)は、摂政・関白・太政大臣を歴任する家に生まれたサラブレッドです。
おじいちゃんの良房(よしふさ)は初めて臣下で摂政(人臣摂政)になり、初めて臣下で太政大臣になりました。
父・基経(もとつね)は、摂政・太政大臣にくわえ、初代・関白になった人です。
兄・時平(ときひら)は呪われて死ななければ、天皇親政でなければ同じようになっていたでしょう。
そんな家に生まれた忠平が、兄・時平が亡くなったあと醍醐天皇のもとで猛烈に出世して右大臣になり左大臣になります。
忠平は醍醐天皇にものすごく頼りにされていました。性格がガツガツ行くタイプでなく温厚で、それでいて優秀だったから。
この絶大な信頼を得た忠平が摂関政治のしくみを完成させます。天皇親政のために一生懸命に働いた人が天皇親政を壊すものを完成させたという皮肉な話。
藤原忠平は、天皇家と一体化していた藤原北家の本流だったことも大きい。
忠平は醍醐天皇の義理の兄で、時平よりも醍醐天皇と年が近い。もっと身近なアニキだった可能性がある。
天皇だって他人より家族を信じるのはあたり前。
良きアニキ、ガツガツしない温厚さは忠平の戦略だったとしたら相当の知略家。
結果を見るとその可能性は高い。
野心家の父・兄に囲まれて育ったんだから野心がまったくなかったとも思えない。