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第81代 安徳天皇。平家待望の即位。しかし既に時遅し。平家といっしょに滅びる。

安徳天皇肖像画

歴代天皇 - 内外と権力闘争に明け暮れた天皇たち(院政の時代) -

平家待望の即位だった安徳天皇(あんとく)。しかし、流れは平家からはなれていました。時流に乗れなくて悲しい結末を迎えた天皇です。

歴代天皇の中で、権力闘争が原因で自殺した最後のケース。

平家の、平家による、平家のための天皇』だったので、平家の衰退に大きく左右されました。本人が意思表示をできないうちに命を落とします。

中世 平安時代 - 末期 -

  • 皇居
  • 平安宮
    (へいあんのみや)

    福原宮
    (ふくはらのみや house3=屋島)
    (やしま)
  • 生没年
  • 1178年11月12日 ~ 1185年3月24日
    治承2 ~ 寿永4
    21才
  • 在位
  • 1180年4月22日 ~ 1185年3月24日
    治承4 ~ 寿永4
    6年
  • 名前
  • 言仁
    (ことひと)
  • 平徳子
    (たいらの とくこ)

    建礼門院
    平清盛の娘
    (たいらの きよもり)

平清盛が力で即位させる

高倉天皇の第1皇子の言仁親王が、生後1か月で皇太子になり、3才(満1才2か月)で即位しました。

安徳天皇です。

このとき後白河法皇は幽閉されていたので平清盛(たいら の きよもり)の独断です。

安徳天皇は武家が力で即位させた初めての天皇です。本格的な武家政治のはじまりでした。

77-82代天皇系図
宮内庁HPより抜粋 一部筆者加工

母親が平徳子。平清盛の娘

安徳天皇の母は平徳子(たいらの とくし)で平清盛の娘です。平家がようやく天皇の外祖父になって権力を掌握できるようになりました。

外祖父(がいそふ)

母方のおじいちゃん。

摂関政治では、藤原氏が天皇の后に自分の妹や娘を嫁がせて、天皇の外祖父になり絶大な権力をもっていた。

外祖父 image

かつて藤原氏が天皇の外戚になって権力を掌握した摂関政治と同じことをしようとしていました。平家にとってこの上ない天皇の即位です。

時すでに遅く、平家は下り坂に入っていた

安徳天皇が即位したのは1180年ですが、このときすでに時代は平家からはなれつつありました。

安徳天皇が即位してから2か月後の4月、後白河法皇の息子で安徳天皇の叔父・以仁王(もちひとおう)が各地の武士たちに平家討伐の号令をかけて挙兵します。

すぐに鎮圧されましたが、日本各地の源氏を中心とした武士、寺院勢力の反平家の勢いは大きくなりました。

以仁王(もちひとおう)

第77代 後白河天皇の第3皇子。

第78代 二条天皇の弟で第80代 高倉天皇の兄。

平家と権力闘争をして負けた藤原氏の娘が母だったので、親王宣下を受けられず皇位継承レールから早々と外れていた。

平家の圧力で臣籍降下して民間人にさせられる。

1180年、平家打倒を全国の武士に呼びかけ挙兵し、敗れて戦死。

親王宣下(しんのうせんげ)

天皇から『親王になりなさい』と宣下を受けること。宣下は天皇からの命令。

正式に天皇の皇位継承権をもつことを意味する。宣下を受けた人は、親王、内親王を名乗る。

男性が親王。女性が内親王。

天皇の子ども・孫など直系子孫が宣下を受けた。

天皇の子孫でも宣下を受けてない人は王になる。民間人になると王の称号もなくなる。

はじめて親王宣下をしたのは奈良時代の第47代 淳仁天皇

親王宣下のないころ、飛鳥・奈良時代の皇族は、天皇の子どもが親王(内親王)、孫から王(女王)だった。

大宝律令の中で制度化したと思われる。

(正確な決まりはない。)

親王宣下は皇族の生まれた立ち位置で自然に決まっていた制度を指名制に変えた。

宮家(世襲親王家)は、本来なら王や民間人になるような人だったが、宣下を受けて親王を名乗った。

明治以降、皇室典範で親王宣下のルールは決められている。

天皇の孫までは親王(内親王)、それ以上血統が離れると王(女王)。

範囲が子から孫へ広がったのは、昔は天皇の子どもが多かったのと、奈良時代は皇族が政権の役職・官僚のトップを務める皇親政治で、そのランクにも使われたので、範囲が広すぎると権力闘争で安定しないから。

臣籍降下(しんせきこうか)

皇族が下のりること。

皇族が民間人になって皇室から離れること。

奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。

平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。

福原遷都。そしてすぐ京都へ戻る

6月、平清盛が安徳天皇、高倉上皇といっしょに福原に遷都します。このとき幽閉していた後白河法皇も解放して福原へ行きました。

福原遷都は、京都にいて反平家勢力とまともにぶつかるのを避けるためでした。じっさい寺社勢力は京都に残しています。

(心のなかで平家を嫌っていた寺社勢力はホッとしただろうが。)

しかし反平家の勢いは止まりません。8月には源頼朝(みなもとの よりとも)が挙兵します。

10月、平家は『富士川の戦い』で大惨敗しました。清盛は福原にいると京都が反平家で固まって政権が奪われると思って、福原から京都へ遷都します。

貿易重視のために遷都したと一般的には説明されるが、源氏が京都を制圧しかけるとあわてて戻るので、ここではそう解釈しない。

平家が反対勢力を抑え込める自信があったというのもあるが。

(軍勢を京都に向ければどうにかなるとナメていた。)

たしかに富士川の戦いに負けたが、このときの戦績は平家が勝ち越してはいた。

安徳天皇の居場所がなくなる

京都に戻ってから、平清盛は死の直前でほとんど動けませんでした。翌年の1181年2月に清盛が亡くなります。

その2か月前の正月には父・高倉天皇が亡くなっていました。

安徳天皇はこのとき平家の後ろ盾を失います。

後白河法皇院政が再びはじまりました。高倉天皇が亡くなってスキができたのを後白河法皇は逃しませんでした。

安徳天皇の逃避行が始まる

2年後の1183年、木曽義仲が倶利伽羅峠(くりからとうげ)の平家軍を破り京に迫っていました。

平家の棟梁になっていた平宗盛(たいら の むねもり。清盛の息子)は、安徳天皇と後白河法皇を連れて京都を脱出することを考えます。朝廷を味方にしていれば巻き返せるから。

しかし、後白河法皇はすでに平家を見捨てていました。法皇は平家といっしょに行動をしないで延暦寺に脱出します。

平家はしかたなく安徳天皇を連れて三種の神器といっしょに都落ちしました。安徳天皇6才です。

壇ノ浦の戦いに敗れ瀬戸内海へ身を投げる

安徳天皇は大宰府(福岡)に入った後、讃岐(香川)の屋島に拠点を移しましたが、1185年の2月、源義経(みなもと の よしつね)の襲撃で海上へ逃れます。

そしてついに『壇ノ浦の戦い』がはじまり、平家は敗れて滅亡しました。

8才の安徳天皇は、おばあちゃんの二位尼(にいのあま。平清盛の妻・時子)に抱かれて瀬戸内海の海へ入水します。

この崩御は歴代天皇の中で最年少です。

安徳天皇は死んでいなかった?

安徳天皇は壇ノ浦で死んでいない。

こういう伝説が四国・九州の各地にあります。

  • 平家の残党に守られて阿波の祖谷山(徳島県三好市)に隠れ住んだ。
  • 薩摩国硫黄島(鹿児島県三島村)に逃れた。
  • 対馬に逃げ延びて宗氏(対馬を支配した戦国大名)の開祖になった。

本当かどうか分かりません。

ちなみに、壇ノ浦で弟の守貞親王(もりさだ。安徳天皇の異母兄)とすり替えたという話がありますが、フィクションだということが分かっています。

守貞親王は、のちの後堀河天皇の父で、天皇未経験のまま上皇の称号が与えられためずらしい人。

三種の神器はどうなった?

天皇の皇位の正当性を示す三種の神器源氏が引き上げます。八咫鏡(やたのかがみ。形代)は海に沈んでなくて無事でした。

形代(かたしろ)

本物と同じ価値をもった分身。

レプリカではない。ただのコピーではない。

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま。本物)と、草薙剣(くさなぎのつるぎ。形代)は二位尼が腰にしばりつけて安徳天皇といっしょに海の底へ沈みました。

勾玉は引き上げられましたが剣は失われました。勾玉は本物なので、もし無くなっていたらヤバかったです。

本物の剣はいまでも、熱田神宮(あつた)に祀られています。形代は伊勢神宮から献上されたものを新たに草薙剣としました。

今、剣の形代は皇居の中と瀬戸内海の底に2つあります。もしかすると瀬戸内海の剣はいつか引き上げられるかもしれないですね?

このとき天皇はふたりいた

安徳天皇が京都をはなれたとき、後白河法皇の詔(みことのり)で安徳天皇の弟・後鳥羽天皇が即位します。三種の神器をもたない異例の即位でした。

上奏(じょうそう)と勅(ちょく)・詔(みことのり)

上奏

政治の最高責任者から天皇に行なう報告。天皇への意見や相談。

勅・詔

天皇の命令。勅書(ちょくしょ)・詔書(しょうしょ)は命令書。詔勅(しょうちょく)ともいう。

勅と詔はケースバイケースで使い分けているが、ルールがよく分からないので同じものと思っていい。

1945年の玉音放送は、詔書。

天皇の命令を強調すると勅令(ちょくれい)、意見を強調すると勅語(ちょくご)という。

明治の教育勅語は天皇の意見。当時、天皇が国民に強制するものではない、勅令ではダメだということで勅語になった。

勅語は意見なので国民が絶対に聞かないといけないものではない。

2年間は安徳と後鳥羽、ふたりの天皇がいました。

後鳥羽天皇の即位を急いだのは、平氏追討勢力を法皇の私設軍隊ではなく、官軍にして正当性を主張したかったからです。

最後の不幸な終わり方

安徳天皇は、

平家のために生まれて

平家のために天皇になり

平家といっしょに亡くなった

天皇です。

権力闘争で殺される・自殺に追い込まれて亡くなった皇族は昔からいて、暗殺された天皇もいますが、このような終わり方は安徳天皇が最後です。

天皇の権力は少しずつ減っていって、安徳天皇のライバルとして即位した後鳥羽天皇を最後に武士へ権力が移ります。

天皇は『権威』の象徴になったということですね?

その過渡期にいた安徳天皇は、ババを引いたがために不幸でした。

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天皇・皇室の本

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内容がかんたんで頭に入りやすく、でも内容が薄いわけではありません。むしろ濃いくらいです。

日本人なら知っていてほしい天皇・皇室の基礎知識だけでなく、外国の人に説明できるくらいの知識が身につきます。

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