歴代天皇 - 女帝中心の時代 -
元正天皇(げんしょう)は女帝で、歴代天皇で唯一、母から娘に皇位継承された天皇です。
元正天皇は、親兄弟、先祖のほとんどが天皇経験者で、家族構成がとても豪華な人でした。
また、平城京に遷都してすぐで、日本独自の文化をつくる直前の時代です。国家が成長するためのシステムを作っている最中で、ダイナミックな時代でした。
古代 奈良時代
- 皇居
平城宮
(へいじょうきゅう)
- 生没年
- 680年?月?日 ~ 748年4月21日
天武天皇9 ~ 天平20
69才
- 在位
- 715年9月2日 ~ 724年2月4日
霊亀元 ~ 養老8
10年
- 名前
- 氷高内親王
(ひだか ないしんのう)
- 別名
新家皇女
(にいのみ の みこ)日本根子高瑞浄足姫天皇
(やまとねこ たかみずきよ たらしひめ の すめらみこと)
- 父
草壁皇子
(くさかべ の みこ)
- 母
第43代 元明天皇
(げんめい)
元正天皇の家族構成がすごい!
元正天皇の両親は皇族です。父は草壁皇子(くさかべのおうじ)で、母は第43代 元明天皇。
父は皇太子のまま亡くなったので天皇ではありません。しかし、摂政をつとめるほどの人でした。
(天皇になる予定だった。確実に。)
そして、父方のおじいちゃんは第40代 天武天皇で、おばあちゃんは第41代 持統天皇です。
また、元正天皇の弟も天皇(第42代 文武天皇)です。
なんかややこしいですね? 時系列にしてみましょう。
これすごくないですか? 親戚を頼らず家族だけで天皇の地位をリレーしてます。
(こんな短期間に前の世代や年上に継がせるのはめずらしい。)
元正天皇は、父と母方のおばあちゃん以外、天皇だらけ。実は母方のおじいちゃんも天皇。(第38代 天智天皇)
元正天皇は、母方のばあちゃんと父親以外、先祖は天皇経験者だらけ
元正天皇は歴代天皇で唯一、母から娘に天皇の地位が譲られています。
天皇の諡(おくりな)のはじまり
みなさんは、天皇の名前をどのように覚えていますか?
神武、綏靖、... 推古、... 天智、...、持統、...、明治、大正、昭和
これ、ぜんぶ諡(おくりな)で、諡号(しごう)ともいいます。亡くなったあとにつけられます。仏教の戒名みたいなもの。
ヤマト言葉ではなく中国風なので漢風諡号といいます。
ぼくらが覚えている天皇の名前は外国風につけられた名前で、チャンとかリーみたいなもんですね?
元正天皇まで、~ミコトのような本名しかありませんでした。
元正天皇が亡くなると、淡海三船(おうみ の みふね。弘文天皇のひ孫。)が『元正』の諡をつけ、それまでの歴代天皇も一気につけました。
これが習慣化され今でもつづいています。
神武天皇はそれまで神武天皇じゃなく、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)。こんな感じなので覚えられません。
いま、ぼくたちが天皇の名前を覚えられるのは三船のおかげです。
今の皇位継承問題では重要な存在
母から娘に皇位を継承したのは元明天皇➡元正天皇だけ
これについて、いわゆる保守の人々は知っていながら無視しています。あえて別の論理に当てはめます。
彼らの主張は、
天皇は代々、父系の血で受け継がれてきた。
これが天皇が天皇であるための絶対条件で伝統といいます。
元正天皇の存在は彼らの主張とちがいます。いまの皇位継承問題で議論の対象になっています。
ちなみに、彼らの元正天皇の解釈は、
元正天皇はおじいちゃんが両方とも天皇なので、父系のDNAの継承の中にある。
反論はかんたん。
およそ50年後の757年に制定された養老律令では、皇位継承権が女帝の子孫にもあります。わざわざ追記するかたちで。しかも、女帝の夫については触れてません。
決して、父系のDNAの継承が伝統でもなければ、天皇の絶対条件ではないということだけ言っておきます。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
大宝律令・養老律令は中国の律令のコピーだが、がっつり男系主義の中国の律令をわざわざ日本風にアレンジしている。
女帝の子に皇位継承権を与えたのも日本オリジナル。
また、班田収授法(はんでんしゅうじゅ の ほう)の口分田で民衆に分け与える土地は、女性にも配分された。
(口分田の元になる中国の均田制では男だけに配分。)
(均田制も最初は女性にも配分されたが日本が輸入する頃には廃止。)
というか、当時の皇族は親族結婚だったので、どうさかのぼっても男の天皇につながるのは当たり前なんですけど。
男系で繋ぐことが絶対条件ではなく、親族結婚が必要だったので男系の継承にもなっていただけ。少なくともこの時代は。
(もちろん女系でもある。)
上皇になってからが長い
元正天皇は36才で即位して45才で退位します。
母・元明天皇のときから決めていた首皇子(おびと の みこ)の天皇即位のときがきたから。
(聖武天皇。このとき14才。)
14才の聖武天皇に政治ができるわけがありません。実質、元正上皇がトップでした。
聖武天皇に期待できず
悲しいことに、あれだけ待ち望んだ聖武天皇は、仕事ができないほど病弱で仏教にばかり興味をもっていました。
政治はほったらかし。
上皇は聖武天皇が退位する1年前に69才で亡くなるので、聖武政権はほぼ元正上皇の政権です。
(じっさい、難波京への遷都の詔を聖武天皇に代わって出している。)
上奏(じょうそう)と勅(ちょく)・詔(みことのり)
上奏
政治の最高責任者から天皇に行なう報告。天皇への意見や相談。
勅・詔
天皇の命令。勅書(ちょくしょ)・詔書(しょうしょ)は命令書。詔勅(しょうちょく)ともいう。
勅と詔はケースバイケースで使い分けているが、ルールがよく分からないので同じものと思っていい。
1945年の玉音放送は、詔書。
天皇の命令を強調すると勅令(ちょくれい)、意見を強調すると勅語(ちょくご)という。
明治の教育勅語は天皇の意見。当時、天皇が国民に強制するものではない、勅令ではダメだということで勅語になった。
勅語は意見なので国民が絶対に聞かないといけないものではない。
天皇の在位は10年なのに上皇は25年でした。まるで平安末期の院政のようです。
生涯未婚
元正天皇は一度も結婚していません。18才で弟・文武天皇が即位し、そこから11年、『現役天皇の姉』でした。
これが婚期を逃したという話があります。でもボクはちょっとちがいます。
天皇の姉でも、いい嫁ぎ先があれば結婚していたでしょう。元正天皇の不幸は皇親政治です。
(結婚が幸せというなら。)
元正天皇の相手になるような人はみんな、文武政権のメンバーでした。まちがいなく、皇子たちの権力闘争に利用されます。
しかも当時の権力闘争は殺し合い。へたすると皇親政治の崩壊です。これがあって結婚できなかったと思います。
(じっさい持統天皇のとき、ナンバー2の大津皇子(おおつ の みこ)は殺された。)
元正天皇のあとも女帝が何人か登場しますが、すべて生涯未婚です。
(それまでの女帝はみんな、皇后だった人で未亡人。)
養老律令の撰定
大宝律令の改訂版、養老律令の撰定をはじめたのは元正天皇です。ただし、完成(施行)までに40年も使いました。
どうやら、古代の近代化に熱心なのは女帝のようで、この時代の男帝は国作りに興味がありません。
(というか興味がないのは聖武天皇。)
養老律令が完成し施行するのは第46代 孝謙天皇です。これも女帝。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
三世一身法(さんぜいっしんのほう)
これも元正天皇で外すことはできません。三世一身法です。
大宝律令では、民に土地をレンタルして、そこから税金を徴収するルールがありました。
(口分田(くぶんでん))
ただしレンタル期間は1代かぎりで、借りた民が死んでしまうと国に返さなければなりません。
これだと、一生懸命土地を耕していいものを作っても次の世代につなげず、民のモチベーションも下がります。
そこで、3代まではレンタルを延長できるようにしました。
(長期的なビジネスができるようになる。)
日本書紀の完成
これも外すことはできません。720年(養老4)、『日本書紀』が完成しました。
第40代 天武天皇のときに号令がかかってから、40年経ってやっとです。
天武天皇の号令で、川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が資料を集め、舎人皇子(とねり の みこ)が編集長になって完成しました。
(3人は天武天皇の息子で、天武以降の皇親政治の中心メンバー。)
(藤原不比等(ふじわら ふひと)も編集にたずさわったと言われる。)
養老律令といい三世一身の法といい、元正天皇の時代は今までやってきたことの完成形ばかりです。
それをまとめた元正天皇の力はスゴい。あまり評価されてないけど。
古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)
第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。
それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。
天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。
そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。
帝紀と旧辞
帝紀 (ていき) | 天皇の系譜、功績をまとめたもの。 |
旧辞 (きゅうじ) | 各氏族の系譜をまとめたもの。 氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。 日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。 |
帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。
当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。
帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。
古事記(こじき。ふことふみ)
帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。
712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。
20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。
(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)
日本書紀(にほんしょき)
完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。
中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。
天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。
古事記 | 倭語を漢字にあてた。 『夜露死苦』(よろしく)みたいに。 国内向け。 国家統一に利用するためか? |
日本書紀 | 漢字で書かれた。 (中国人でも読める。) 国外向け。 世界に日本をアピールするために利用か? |
藤原氏の世代交代
元正天皇の時代は政治勢力の大きな変化がありました。藤原不比等(ふじわら ふひと)の死です。
日本書紀が完成した同じ年の720年(養老4)に亡くなり、首皇子(おびと の みこ。聖武天皇)のお祖父ちゃんですが、孫が天皇になるのを見れませんでした。
この皇子を支えるのが不比等の息子たちです。支えるどころか、天武天皇から始まった皇親政治をぶっ壊し、政治権力を掌握していきますが。
藤原武智麻呂(ふじわら むちまろ)
不比等の長男で、不比等が亡くなると飛び級で中納言に昇進します。
『自分こそが藤原氏の後継者』だと思っていたでしょう。藤原氏の中で一番上の官位になったし。
藤原南家の祖。
藤原房前(ふじわら ふささき)
不比等の次男で、武智麻呂が中納言になる前は、不比等の息子の中で一番上の参議(中納言の下)でした。
721年(養老5)、元明上皇が亡くなる前に、長屋王(ながや の おおきみ)とともに呼ばれて『あとを頼む』と言われるほどの人です。
そして、藤原鎌足(ふじわら の かまたり)、不比等しかなっていない内臣(うちつおみ。内大臣)になって、天皇の補佐をつとめました。
これからも武智麻呂よりも能力、まわりの期待は高いと思われていたようです。
藤原北家の祖。
(北家が藤原氏本流になっていき、平安貴族の摂家につながる家系になる。)
五摂家(ごせっけ)
平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。
鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。
- 近衛(このえ)
- 九条(くじょう)
- 二条(にじょう)
- 一条(いちじょう)
- 鷹司(たかつかさ)
くわしくは『摂関政治とは何か?』で。
五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。
1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。
元正政権の移り変わり
元正天皇の政権は移り変わりが激しいです。元正天皇が即位してからすぐに、天武・持統・文武・元明の歴代政権を支えつづけてきた天智・天武天皇の皇子たちが3人になってしまいました。
天智・天武の皇子たちで政治を動かす、皇親政治をつづけるのが難しくなります。
舎人皇子 (とねり のみこ) | 718年(養老2)に一品(皇子の最高位)に なり、719年に首皇子(のちの聖武天皇) の補佐を命じられる。 |
新田部皇子 (にいたべ の おうじ) | 舎人と同時に一品になり首皇子の補佐を命 じられる。 |
長屋王 (ながや の おおきみ) | 718年、飛び級で一気に大納言に昇進。 |
元正政権3年目、718年に皇親政治のメンバーを一新しました。
二人は皇太子の後見人で政権の官職についていません。実質、長屋王ひとりです。
皇子不足で気がついたら藤原不比等ひとり
このときの政権は、皇子の人材不足が丸わかりで、藤原不比等一強です。
知太政官事 | 元正天皇即位の直前に穂積皇子(ほずみ の みこ)が亡くなって空席。 |
左大臣 | 718年の政権一新の直前に石上麻呂(いその かみ の まろ)が亡くなって空席。 |
右大臣 | 先代・元明政権のころから藤原不比等。 |
大納言 | 新たに長屋王が就任。 |
参議 | 717年、藤原房前が出世。 不比等の息子でいちばん期待されていた? |
知太政官事(ちだいじょうかんじ)
第42代 文武天皇から第45代 聖武天皇の間に置かれた令外官。
律令政治の太政官を監督するマネージャー職。
(左大臣よりも上。)
有力な皇族が務めた。
だれが? | 就任時期 |
---|---|
忍壁皇子 (おさかべ の みこ) 天武天皇の子。 | 703年(大宝3)~ 705年(大宝5)。 第42代 文武天皇 |
穂積皇子 (ほずみ の みこ) 天武天皇の子。 | 705年(大宝5)~ 715年(和銅8)。 第42代 文武天皇 第43代 元明天皇 |
舎人皇子 (とねり の みこ) 天武天皇の子。 | 720年(養老4)~ 735年(天平7)。 第44代 元正天皇 第45代 聖武天皇 |
鈴鹿王 (すずか の おおきみ) 高市皇子の次男。 天武天皇の孫。 | 737年(天平9)~ 745年(天平17)。 第45代 聖武天皇 |
このときすでに太政大臣があったが、前例の大友皇子(おおとも の みこ)、高市皇子(たけち の みこ)のように、皇太子に匹敵する人でないとなれなかった。
太政大臣を置くと皇太子と並び立つので、皇位継承争いを避けるため知太政官事を置いたとも言われる。
じっさい、知太政官事がいたときの太政大臣は不在。
(その後、太政大臣は皇族でなくてもなれるようになる。)
結局、歴代知太政官事は第40代 天武天皇の子が務めた。
(最後の鈴鹿王だけ孫。)
本格的な律令政治を始めた天武天皇の威光があるうちだけの役職だったとも言える。
(天武天皇は皇親政治を始めた人でもある。)
なんで718年に政権をがらっと変えたのか分かります。政権トップは2個も空席だし、不比等以外いないし。
長屋王の異例の出世も、そうするしかなかったんですね? さすがに不比等より上には置けなかったようですが。
このとき不比等は、ずっと右大臣で出世もしていません。勝手に皇親政治のメンツがいなくなって、気がついたら自分がトップになっていました。
石上麻呂はもともと皇親政治のメンバーの敵。
(天武天皇に倒された大友皇子(おおとも の みこ)が自殺するまで一緒にいた。)
このころ藤原氏の野望が丸見えですがそこに味方できません。やっぱり敵だと思われて殺されるので。
(というか不比等を抑えるために左大臣にいた可能性が高い。)
今度は逆転、皇子政権
元正天皇には不幸がつづきます。政権で孤軍奮闘していた藤原不比等が亡くなります。(720年, 養老4)
そこで政権の中枢、太政官を変えました。(721年)
知太政官事 | 舎人皇子 |
左大臣 | ??? |
右大臣 | 長屋王。 大納言から出世。 |
内臣 | 藤原房前。 兄を差し置いて参議のまま飛び級で出世。 |
大納言 | ??? |
中納言 | 藤原武智麻呂。 父・不比等が亡くなって飛び級で出世。 |
藤原氏の上に長屋王、その上に舎人皇子を置いて皇親政治が復活しました。元正天皇は大変です。藤原氏と皇子たちを上にやったり下にやったり。
(さすがに長屋王を飛び越えて不比等の息子たちを上に置けなかったか?)
元明上皇の遺言が太政官に反映されている。
(元明上皇が亡くなったのは同じ721年。)
元明上皇があとを託したのは長屋王と藤原房前。
皇親勢力 vs 藤原氏の火種が
次の聖武天皇の時代になりますが、長屋王と藤原兄弟の権力闘争が勃発します。
聖武天皇の母と皇后が藤原兄弟の姉・妹だったり、皇親勢力の皇子が長屋王と対立したりと、ワケの分からないことになっていきます。
元正天皇が藤原氏を長屋王の上に置いたり下に置いたりしたので、それぞれの野心に火がついたのでしょう。
男のジェラシーが膨れ上がったか?
皇子・皇女と親王・内親王のちがい
元正天皇は、氷高内親王(ひだか ないしんのう)、新家皇女(にいのみ の みこ)と呼ばれます。
元正天皇の前は皇子と皇女(どっちも読みは『みこ』)、元正天皇のあとは親王と内親王という呼び方に変わります。
元正天皇が変えたというわけでなく、大宝律令や養老律令を整備していくなかで決まっていったルールでしょう。
今でも皇子・皇女は使います。ただし『みこ』とは言いません。『おうじ』『こうじょ』。
天皇の何番目の子どもか? という使い方をします。
第1皇子
第2皇子
第1皇女
第2皇女