歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -
第70代 後冷泉天皇(ごれいぜい)は、先代で父・後朱雀天皇のころから関白だった藤原頼通(ふじわら よりみち)にぜんぶ任せて表には出ませんでした。
世の中は末法思想を信じてプチパニックを起こします。
このパニックを鎮めるために建てられたのが平等院で、仏教から浄土信仰が生まれました。
中世 平安時代 - 中期 -
- 皇居
平安宮
(へいあん の みや)
- 生没年
- 1025年8月3日 ~ 1068年4月19日
万寿2 ~ 治暦4
37才
- 在位
- 1045年1月16日 ~ 1068年4月19日
寛徳2 ~ 治暦4
10年
- 名前
- 親仁
(ちかひと)
- 父
第69代 後朱雀天皇
(ごすざく)
- 母
藤原嬉子
(ふじわら きし / よしこ)藤原道長の娘
(ふじわら みちなが)
- 皇后
章子 内親王
(しょうし / あきこ)二条院
(にじょういん)第68代 後一条天皇の皇女
(ごいちじょう)
- 皇后
藤原寛子
(ふじわら かんし / ひろこ)藤原頼通の娘
(ふじわら よりみち)
- 皇后
藤原歓子
(ふじわら かんし / よしこ)藤原教通の娘
(ふじわら のりみち)
- 妻
その他
関白・藤原頼通に丸投げ
後冷泉天皇は、先代で父・後朱雀天皇のときに4才で皇太子になり、父が天然痘で亡くなったので21才で即位しました。
表に出ることはなく、関白の藤原頼通(ふじわら よりみち)にすべてを任せます。でも世の中は末法思想でプチパニックを起こしていました。
末法思想は、30代以上は記憶にあるノストラダムスの大予言みたいなもので、平安時代に考えられていた仏教の終末思想です。
当時は1999年とは違い情報量が圧倒的に少なかったので、本気で信じられていました。
(今ではアホか!と思うが、ノストラダムスの大予言すら信じる人がけっこういた。)
末法思想(まっぽうしそう)とは?
末法は仏教の考え方で、お釈迦様の教えは時が経つと言葉だけが残り、何の意味もない時代(末法)が来てしまうというもの。
具体的には3つの区分があります。
区分 | |
---|---|
正法 (しょうぼう) | 釈迦の教えを守り修行を実践すれば悟りが開ける。 釈迦の入滅(にゅうめつ)から千年間。 入滅にはいろんな意味があるが、一番シンプルなのは 高僧が死ぬこと。 釈迦の入滅は紀元前949年と考えられていた。 (異説あり。) |
像法 (ぞうぼう) | 釈迦の教えは伝わっているが、修行しても悟りを 開けない。 正法の次の千年間。 |
末法 (まっぽう) | 釈迦の教えだけが残り修行する者もなく悟りもない。 究極のニート的な考え方。 像法の次に1万年続く。 永承7年(1052)から末法に入ると考えられていた。 |
3つに分けて考えることを三時思想(さんじしそう)といいます。(それぞれの年数には異説あり。)
簡単に言うと、末法に入ると何をやっても上手くいかず、どうしようもない時代になっちゃうということ。
不幸つづきが末法のせいに
後冷泉天皇の不幸は、末法が始まると考えられていた永承7年(1052)が即位して7年目に来てしまったことでした。
そこから世の中の不幸は末法に繋げられてしまいます。
疱瘡の流行
先代の後朱雀天皇の時代から疱瘡の流行が始まり、後朱雀天皇自身、疱瘡で亡くなってしまいますが、末法が始まる予兆として考えられました。
疱瘡(ほうそう)
天然痘(てんねんとう)のこと。ウィルス感染する病気で昔は大量の死者を出した。
じんましんみたいに発疹が出る。昔はもっとも恐れられていた病気の1つ。
当時の医療技術では収まるのに何年もかかるし、天然痘がウイルスなんてことも分かっていません。末法のせいにするしかありませんでした。
仏教の乱れからの仏教の最大信仰の誕生
当時の仏教はとくに天台宗はめちゃくちゃでした。最大派閥の寺門派が独立したばっかりで抗争が絶えません。京の街が放火されるほど過激でした。
そこで日本仏教の最大の信仰が登場します。浄土信仰(じょうどしんこう)です。
浄土信仰は、かなりあきらめ感のあるもので、
『この世ではもうどうでもいい。あの世では幸せになろう』
と祈る信仰。末法の恐怖でやる気を失った人たちに一気に広がりました。
平等院の創建
浄土信仰のシンボルと言えば平等院(びょうどういん)です。
平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)とも言われますが、鳳凰堂は平等院の中の1つの建物で、正式名称は平等院。
(鳳凰堂は10円玉の裏に描かれている建物。)
もともと天皇や有力貴族の別荘だったもの。
所有者 | |
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源融 (みなもと の とおる) | 第52代 嵯峨天皇の皇子。 嵯峨源氏。 左大臣。 別荘として建てる。 |
陽成天皇 (ようぜい) | 第57代 天皇の別荘。 当時では珍しく82才まで生きた。 |
宇多天皇 (うだ) | 第59代 天皇の別荘。 唯一、民間人出身の天皇。 |
朱雀天皇 (すざく) | 第61代 天皇。 離宮(りきゅう)にする。 |
源重信 (みなもと の しげのぶ) | 宇多天皇の孫。別荘? 管理してただけ? 宇多源氏。 左大臣。 |
藤原道長 (ふじわら みちなが) | 藤原氏最強の男。 後冷泉天皇の叔父さん・後一条天皇の摂政。 別荘の名を宇治殿(うじどの)に改称。 天皇にゆかりのある別荘が藤原氏のものに。 |
平等院の最後の所有者、藤原道長(みちなが)は、関白・藤原頼通(よりみち)の父。
末法でビビりまくって浄土信仰にすがったプチパニックを鎮めようと、頼通が父の別荘を寺院として改修しました。それが平等院の始まりです。
東北の戦争
戦争も末法のせいだとされました。
1051年、陸奥国(むつ。宮城)を牛耳っていた豪族・安倍氏(あべし)が、朝廷への貢物をサボるようになって始まった戦争。
安倍氏はいくつもの郡を任されていたので複数の郡司をしていました。脱税の成敗をする国司 vs 郡司の戦争です。
国司(こくし)と郡司(ぐんじ)
国司
古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。
地方のすべての権限を持っていた。
京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)
送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)
今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。
もってる力は絶大。
偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。
長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。
それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。
受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。
平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)
鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。
戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。
- 織田 上総介(かずさのすけ)信長
- 徳川 駿河守(するがのかみ)家康
織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。
織田信長が一番偉くないのが面白い。
郡司
市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
一旦収まりますが、1056年に再び安倍氏が反抗し、奥羽(おうう。秋田)の清原氏(きよはら)を味方にした国司の陸奥守・源頼義(みなもと よりよし)が安倍氏を滅亡させます。
これを前九年の役(ぜんきゅうねんのえき)といいます。
源頼義は、八幡太郎義家で有名な源義家(よしいえ)の父。
義家も父と一緒に参戦した。
後三年の役(ごさんねんのえき)
ついでにその後も。20年後、白河天皇の時代になると、安倍氏のあと東北を牛耳った清原氏の内紛が起きます。
(清原氏が安倍氏のあといくつもの郡司をしていた。)
そこに仲裁役として参戦したのが国司・陸奥守になっていた源義家(みなもと の よしいえ)。
義家は国司として参戦したのに朝廷から個人の争いだと言われ、逆に朝廷から『滞納した税金を払え』と言われてしまいました。
(国の戦争だと思っていた義家は税金を戦費に使っていた。)
義家は関東武士も連れて行ったのですが、恩賞を朝廷からもらえなかったので自腹を切って払ったそう。
これで関東武士の間で源氏の評価が爆上がりして、平氏の武士の拠点だった関東で源氏勢力が拡大します。
数百年後に鎌倉幕府を開く源頼朝(よりとも)は、この勢力を使って平氏を倒しました。
(義家は頼朝のひいひい祖父さん。)
後三年の役では清原氏が滅亡する。そこから出てきたのが奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)。
奥州藤原氏の初代当主・藤原清衡(ふじわら きよひら)は、清原氏に引き取られた養子で、清原氏の内紛のあと、もとの藤原に戻って東北を統一した。
その他の災難
そのほか、いろいろな不幸な出来事が末法のせいにされました。
先代の後朱雀天皇のころは京で放火が多発しましたが、後冷泉天皇のときも京は火事が多かったらしい。
高陽院、京極殿、一条院、東寺、法成寺が火事になり、御所でも大極殿に飛び火しました。
ここまで燃えると貴族たちはビビったでしょうね?
高陽院 (かやのいん) | 平安京にあった桓武天皇の皇子・賀陽親王(かや)の邸宅。 後冷泉天皇の里内裏(さとだいり)だった。 里内裏は御所に何かあったときの天皇の避難先。仮の御所。 のちに藤原頼通の邸宅になる。 |
京極殿 (きょうごくでん) | 藤原道長の邸宅のひとつ。 |
一条院 (いちじょういん) | 一条天皇の里内裏。 |
東寺 (とうじ) | 桓武天皇が創建した国立の寺。 (教王護国寺(きょうおうごこくじ)) 空海(くうかい)が任されたことから真言宗の総本山になる。 |
法成寺 (ほうじょうじ) | 藤原道長が創建した寺 |
大極殿 (だいごくでん) | 平安京のメインの建物。正殿。 |
摂関政治の崩壊も末法のせい?
後冷泉天皇は最後まで表に出ることなく44才でひっそりと亡くなります。皇子がいなかったので、弟の尊仁親王(たかひと。後三条天皇)が皇位を引き継ぎました。
末法思想は無くなっていません。というかそれを信じるなら2021年の今でも終わっていない。あと9000年も残っている。
でも、それを意識している人はいません。間にノストラダムスの大予言すらあったくらいなので。
当時の末法思想も信じる人は熱狂的だったでしょうが、一部、冷めた人もいたのでしょう。
フェードアウトしていきます。
次の後三条天皇は摂関政治を崩壊させる改革をしました。
この改革も末法の影響を受けていたのでしょう。プチパニックを収める改革が、たまたま摂関政治を終わらせるきっかけになりました。
民衆の末法を救う仏教の最大宗派
一般民衆の末法からの脱出を試みた仏教で浄土信仰はさらに進化します。120年後、末法と民衆を救う仏教として浄土宗が生まれました。
(開祖は法然上人(ほうねんじょうにん)。)
仏教はもともと、お釈迦様の教えを守って修行を行い悟りを開く宗教です。釈迦の教えは書物に書いてあるので知識人の僧にしかできません。一般民衆は救えない宗教でした。
そもそも仏教は、自分の内面を磨く宗教で人を救うものではないし。末法はインテリ層だけが知っていて民には関係ないところもありました。
それを変えたのが法然。法然は仏教で民を救おうと考えました。
究極のサボりをOKにした不良仏教の浄土宗
法然が考えた仏教は、
念仏を唱えれば救われる
釈迦の教えを知らなくてもいい。
僧にならなくてもいい。
修行しなくてもいい。
『南無阿弥陀仏』(ナムアミダブツ)だけ覚えて唱えるだけでいい。
修行する者もなく悟りも開けない、釈迦の教えは残るが意味がない末法にピッタリの教えです。法然は釈迦の教えを知る必要はないし修行もいらないと言ってるので。
こんな仏教は世界中を探しても日本にしかありません。というか仏教の根本をガン無視してる。
浄土宗は日本最大の宗派
この浄土宗は一気に日本全国に広がります。広がりすぎて朝廷からの弾圧さえ起きました。
そりゃ広がります。ブツブツ言ってるだけで死んだ後は幸せになれるんだから。
法然は讃岐(さぬき。香川)に島流しされ弟子たちも島流しされました。浄土真宗も日蓮宗も浄土宗から派生した宗派です。
これが今は日本最大の宗派になっています。『自分は無宗教だから』と思ってる人は、実は浄土宗系統の宗派だったりすることも多い。
身内の葬式をやるときに分かります。
浄土真宗
浄土真宗は、法然の弟子・親鸞聖人(しんらんせいじん)が開いた宗派です。親鸞も島流しされました。
親鸞は浄土宗をさらに発展させて、
念仏さえも覚えなくていい(唱えなくていい)。
念仏を唱えようと思うだけで救われる。
師匠の不良仏教をさらに不良化しました。思ってるだけでいいなんて。もはや、お釈迦様の教えもクソもありません。
本願寺(ほんがんじ)とつくお寺は浄土真宗です。
日蓮宗
もうひとつ、浄土宗の流れで大きな宗派は日蓮宗(にちれんしゅう)です。法華宗(ほっけしゅう)ともいいます。
日蓮は第83代 土御門天皇の落し胤(おとしだね。隠し子)ともいわれる高僧で日蓮宗を開きました。
日蓮宗の特長は念仏がちがいます。
南妙法蓮華経(ナンミョウホウレンゲキョウ)
教えの元の経典が他の宗派とちがうので念仏も変わりました。また、日蓮宗は宗徒を広げる活動に熱心だった宗派で、他宗派との衝突が激しい宗派でもありました。
庶民の宗派・浄土宗
浄土宗の系統の宗派は、貴族などのインテリ層では広がらず一般民衆の仏教として広がります。
(インテリ層には天台宗・真言宗があって入るスキがない。)
さらに時代が進む戦国時代に、織田信長の最大の抵抗勢力だったのは浄土宗の宗徒でした。手こずった石山本願寺は浄土真宗です。
信長に限らず、どの戦国武将も自国領の浄土宗徒の反乱、一向一揆(いっこういっき)に悩まされました。
(戦国時代の浄土系宗派には一向宗があり、それが全国に広がっていた。)
権力者たちは浄土宗を恐れていました。宗徒の数が圧倒的に違うので、数の力で押し切られるとたまったもんじゃないと。