歴代天皇 - (律令)国家・日本を作った天皇たち -
第46代 孝謙天皇(こうけん)は、はじめて女性で皇太子になり、天皇になってから皇太子をクビにし、上皇になっても天皇をクビにするこわ~い女帝です。
天皇になれそうな王たちを拷問にかけて死なせたりもしました。
激しい権力闘争を勝ち抜いた女傑とも言えます。
古代 奈良時代
- 皇居
平城宮
(へいじょうきゅう)
- 生没年
- 718年?月?日 ~ 770年8月4日
養老2 ~ 神護景雲4
53才
- 在位
- 749年7月2日 ~ 758年8月1日
天平勝宝元 ~ 天平宝字2
10年
- 名前
- 阿倍
(あべ)
- 別名
高野姫尊
(たかの ひめ の みこと)宝字称徳孝謙皇帝
(ほうじ しょうとく こうけん こうてい)法基尼
- 父
第45代 聖武天皇
(しょうむ)
- 母
藤原安宿媛
(ふじわら あつかべひめ)光明子
(こうみょうし)光明皇后
(こうみょう こうごう)藤原不比等の娘
(ふじわら ふひと)
はじめての女性皇太子
父で先代の第45代 聖武天皇には皇子がいました。基王(もといおう)です。生まれてすぐ皇太子になりましたが、1才にならないうちに亡くなってしまいました。
そのあと、718年(養老2)に阿倍内親王(あべ 。のちの孝謙天皇)が生まれ、10年後、安積親王(あさか)が生まれます。
そこで次の皇太子に指名されたのが阿倍内親王です。このとき20才。
(738年, 天平10。弟の安積は10才。)
このとき、皇太子を選ぶのに男女の区別はありません。男を優先するなら安積がなるはずなので。
こうして、はじめて女性の皇太子が誕生しました。
そして12年後(749年, 天平感宝元)、聖武天皇が退位して皇太子が即位します。孝謙天皇です。
(孝謙天皇32才。)
退位した聖武は上皇になりますが、はじめての男性の上皇です。孝謙政権は聖武上皇が後見する体制ではじまりました。
昔は天皇の子どもの男女の区別がないところが、いまの皇位継承問題で、ボクが女性天皇・女系天皇・女性宮家に賛成する理由のひとつです。
光明皇后・孝謙天皇の女性タッグ
父・聖武天皇には元正上皇(女性)がついていました。元正上皇が亡くなるとすぐに聖武天皇は退位し、孝謙天皇が即位するので、もう何十年も女性がリーダーの時代です。
(聖武天皇は後見人がいなくなると天皇をやめてしまった。)
756年(天平感宝8)、聖武上皇が亡くなると、聖武の皇后・光明子(こうみょうし)が孝謙天皇の後見人になります。
(光明皇后は孝謙天皇の母。)
ついに皇親政治の終了
これまでの天武・持統・文武・元明・元正・聖武の歴代の天皇の政権は皇親政治でした。
第38代 天智天皇や第40代 天武天皇の子・孫が政権に入る政治です。
持統天皇は天智の子で天武の皇后。そのほかの天皇も天智・天武の血をひく。
しかし、孝謙天皇の政権には皇子がひとりも入っていません。まだ天智・天武の子孫がいたのに。
(官僚になってる人はいた。)
孝謙天皇の政権は、律令国家を作り上げた皇親政治とはちがうかたちで国の運営をする必要がありました。
そこに割って入ったのが藤原氏です。藤原仲麻呂(ふじわら なかまろ)は強引に、好き勝手にやっていましたが、それを止める人はいませんでした。
政権に皇子がいないので。
孝謙天皇は生涯独身で子どももなく、後見人は光明皇后(藤原不比等(ふじわら ふひと)の娘)です。
藤原氏を頼る以外なかったという状態でした。むしろ、ガンガン突き進んでいく仲麻呂は心強かったのかも知れません。
橘諸兄政権
孝謙天皇のスタートは橘諸兄・藤原豊成のツートップ政治です。
左大臣 | 橘諸兄 | 政権トップ。 |
右大臣 | 藤原豊成 (ふじわら とよなり) | 藤原武智麻呂(ふじわら むちまろ)の長男。 藤原南家のトップで藤原氏全体のトップ。 |
内臣 (うちつおみ) | 空席。 | |
大納言 | 藤原仲麻呂 (ふじわら なかまろ) | 藤原武智麻呂の次男。 豊成の弟。 |
中納言 | ??? | |
参議 | 藤原真楯 (ふじわら またて) | 藤原房前(ふじわら ふささき)の3男。 藤原北家でいちばんの出世頭。 |
参議 | 藤原清河 (ふじわら きよかわ) | 藤原房前の4男。 孝謙天皇即位時に新規参入。 |
参議 | 橘奈良麻呂 (たちばな ならまろ) | 橘諸兄の長男。 孝謙天皇即位時に新規参入。 |
でも、ランクが下のはずの仲麻呂がグイグイ攻め立てるので、序列通りにはなってませんでした。
(くわしくはあとで。)
政権のルールが崩れる
孝謙天皇の政権では、いままで絶対になかったことが起きてます。『1氏族1役職』のルールです。
政権中枢の役割を特定の氏族で固めると、昔の蘇我氏のように勝手なことをされてしまうので作りました。
(それが皇親政治の目的のひとつ。)
聖武天皇のころまでは、藤原豊成(ふじわら とよなり)が藤原氏のトップで出世していたので、弟・仲麻呂などは参議止まり。このルールを守ってます。
(参議は令外官。あとで追加された役職なのでこのルールの適用外だったみたい。)
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
それが、孝謙天皇が即位するとすぐに、仲麻呂は2階飛び級で大納言になりました。右大臣で兄の豊成がいるのに。皇親政治の終わりを表す現象です。
橘諸兄と藤原仲麻呂
孝謙天皇の政権では欠かせない人がふたりいます。橘諸兄(たちばな の もろえ)と藤原仲麻呂(ふじわら の なかまろ)です。
圧倒的な実力者・諸兄の政権でどんどん上り詰める仲麻呂の構図です。
橘諸兄(たちばな の もろえ)
諸兄は、史上2番目の生前に正一位(しょういちい)をもらった数少ないエラい人です。
正一位は最高の位。このとき生前に正一位になったことがあるのは、聖武天皇の母・宮子(みやこ)だけ。
生前に最高位までなったのは、歴史上でも6人しかいない。
平清盛や源頼朝は正一位を贈られてないし、徳川の歴代将軍は死後に贈られてます。
また、織田信長、豊臣秀吉は、大正時代になって贈られました。これだけ見ても、諸兄がどんだけの人だったのか分かります。
それを蹴落とした藤原仲麻呂もスゴイですが。
橘諸兄の失脚
756年(天平勝宝8)、政権トップの橘諸兄が辞職して失脚します。
その1年前、聖武上皇が病気で寝込んでいるときに、パーティの席で上皇の悪口を言っていたと、上皇にチクる人がいました。
上皇は気にしなかったようですが、諸兄は責任をとって左大臣を辞めました。翌年、74才で亡くなります。
若い仲麻呂と戦う体力がもうなかったのでしょう。もちろんですが、この悪口は仲麻呂に媚びを売る人たちの仕業です。
(仲麻呂が直接関与したかも?)
息子の反乱(橘奈良麻呂の乱)
橘諸兄の息子・奈良麻呂(ならまろ)は、父・諸兄を蹴落とそうとする藤原仲麻呂にイラついていました。
長屋王(ながやおう / ながや の おおきみ)の息子・黄文王(きぶみおう / きぶみ の おおきみ)を天皇にしようと計画するくらいです。
(長屋王は天武天皇の孫で左大臣までなったザ・皇親政治の人。)
父が亡くなった同じ年に橘奈良麻呂の乱(たちばな ならまろ の らん)が発覚します。
仲麻呂を殺そうとしていたようですが事前に発覚して捕らえられてしまいました。そして、そのまま獄死します。
(かなりひどい拷問を受けていたとされる。)
この乱で、道祖王(ふなどおう / ふなど の おおきみ)、黄文王も捕らえられ拷問を受けて死んでいる。
道祖王は天武天皇の孫で孝謙天皇の皇太子だった。(前年にクビ。)
黄文王は天武天皇のひ孫。
どちらも皇親政治だったら政権を担うはずの人材。
藤原仲麻呂(ふじわら なかまろ)
孝謙天皇のときの政治の実力者と言えば、なんといっても藤原仲麻呂です。仲麻呂は光明皇后のお気に入りで、孝謙天皇とも気が合いました。
仲麻呂は聖武天皇のとき参議になった新参者ですが、式部卿(しきぶきょう)も兼任していたので人事権を使い、上司の左大臣・橘諸兄、兄・藤原豊成の部下や、気に入らない人をどんどん左遷しました。
これで参議のまま政権をコントロールします。
光明皇后の力を使いまくり。
式部省(しきぶしょう)
律令制の8つの役所のひとつ。
トップは式部卿(しきぶきょう。事務次官)。
いまの人事院、文部省みたいなもの。
位階や官職を決めたり官僚養成機関を管理したので2番目に重要な省だった。
(律令制は役職の序列(官僚組織)が核。)
兄を左遷して追い出す
仲麻呂は橘諸兄だけでなく、兄で上司の右大臣・豊成の失脚も狙ってました。
橘奈良麻呂の乱のあと、天皇への報告がなかったことを責めて右大臣をクビにし、太宰府(だざいふ)へ左遷しました。
おかしな話です。紫微内相になったとはいえ、位も役職もトップの人事にまで手を付けました。
それだけ孝謙天皇は仲麻呂政権を待ち望んでいたのでしょう。
大納言のまま政権トップへ
仲麻呂は、孝謙天皇が即位するとすぐに大納言に出世します。そして聖武上皇が亡くなると、紫微内相(しびないしょう)に就任しました。
紫微内相は紫微中台(しびちゅうだい)の長官。
紫微中台は、孝謙天皇が即位した年(749)に設置された令外官で、皇太后(ここでは光明皇后)の世話をする皇后宮職。
もともと、聖武天皇に光明子が嫁いだときに皇后宮職が作られたが、聖武天皇が退位するタイミングで紫微中台に引き継いだ。
仲麻呂が光明皇后のお世話係だけで終わるわけはなく、政権中枢並みの発言力、軍を動員する力までもっていました。
『皇太后の命を受けて』の力です。
これが、兄・豊成を左遷させるだけの力をもった理由です。
左大臣 | 空席。 | 橘諸兄を失脚させる。 |
右大臣 | 空席。 | 兄・豊成を左遷する。 |
内臣 (うちつおみ) | 空席。 | |
大納言 | 藤原仲麻呂 (ふじわら なかまろ) | 紫微内相も兼務。 政権トップ。 |
中納言 | 藤原永手 (ふじわら ながて) | 藤原房前(ふじわら ふささき)の2男。 真楯の兄。 仲麻呂のいとこ。 |
参議 | 藤原真楯 (ふじわら またて) | 藤原房前(ふじわら ふささき)の3男。 藤原北家でいちばんの出世頭だったが、 一気に兄・永手に抜き去られる。 |
参議 | 藤原清河 (ふじわら きよかわ ) | 藤原房前の4男。 |
もうひとつ、藤原永手がいきなり中納言に大出世します。弟ふたりは参議になっていましたが、永手はずっと蚊帳の外でした。
おそらく仲麻呂が、『干されたのをオレが引き上げてやるよ。』とでも言ったのでしょう。
メンバーが藤原ばっかりなのも特徴的ですね?
(そのほかにも存在感のない非藤原氏はいただろうが。)
永手は、称徳天皇(孝徳天皇と同一人物)のときに左大臣まで大出世する。
後見人の変更と政権交代
聖武天皇は橘諸兄を頼りにしていました。すでに藤原仲麻呂は政権内で諸兄の失脚を狙ってあの手この手で攻め立ててます。
でも、孝謙天皇になっても聖武上皇が健在だったので最後まで詰めきれません。
諸兄が失脚したあとすぐ、同じ年に聖武上皇が亡くなります。そのあとの仲麻呂は『目の上のタンコブ』がなくなってさらに増長。
紫微内相になって、上司の左大臣・右大臣を失脚させて、大納言のまま政権をコントロールしました。これを後見していたのが光明皇后です。
橘諸兄の政権から藤原仲麻呂の政権への交代は、孝謙天皇の後見人の交代とリンクしています。
天皇の後見人 | 政権リーダー |
---|---|
聖武上皇 | 橘諸兄 |
光明皇后 | 藤原仲麻呂 |
皇太子をだれにするか?の迷走
孝謙天皇は女帝で独身のまま32才で即位したので、『もう、結婚はしないだろう』『子どもは産まないだろう』と見られてました。
(いまとちがって女性の出産適齢期が若い。)
橘奈良麻呂などは、孝謙天皇が皇太子のころから次の天皇を黄文王にしようと早めに動いていたくらいです。
そのほかにも、天智・天武の血を引く皇子たちがたくさんいたので、『次の天皇をだれにする?』が権力闘争に利用されていました。
王から飛び級で天皇になれるかも?
当時の親王(しんのう)は天皇の息子までで、孫になると王(おう / おおきみ)になります。
親王は『将来天皇になるかもよ?』と言われているようなもので、本人もそのつもりでいたでしょう。
王になると、『皇族だけど天皇になれない』と言われているようなもので、じっさい天智・天武の子孫の王たちは、孝謙天皇の政権内で政治家になっていました。
(聖武系は孝謙天皇に子どもがいないので断絶が決定的。)
ただ、孝謙天皇のときには親王がいません。親王の子・孫の王しか残っていませんでした。
そこで王たちの中には『オレが天皇になれるかも?』と野心をもつ人が出てきます。橘奈良麻呂に推された黄文王もそのひとり。
藤原の王が目立つ
王はあまりにも多いので目立たない人もいます。このとき目立っていたのは藤原の血をもつ王たちでした。
塩焼王 (しおやき) | 天武天皇の孫。 藤原鎌足の孫。 |
道祖王 (ふなど) | 天武天皇の孫。 藤原鎌足の孫。 |
安宿王 (あすかべ) | 天武天皇のひ孫。 藤原不比等の孫。 藤原仲麻呂のいとこ。 |
黄文王 (きぶみ) | 天武天皇のひ孫。 藤原不比等の孫。 藤原仲麻呂のいとこ。 |
山背王 (やましろ) | 天武天皇のひ孫。 藤原不比等の孫。 藤原仲麻呂のいとこ。 |
彼らが野心マンマンになるのも分かります。藤原氏の力を使えるので。
孝謙天皇の皇太子・道祖王
政治に興味がなかった聖武上皇ですが、次の後継者指名の仕事はちゃんとしました。
さすがに王たちの争いが起きるのが、上皇でも分かっていたのでしょう。そこで指名されたのが道祖王(ふなどおう / ふなど の おおきみ)です。
上皇が亡くなると、孝謙天皇は遺言どおりに道祖王を皇太子にしました。でも、1年も経たないうちに皇太子をクビにします。
道祖王は、上皇の喪中なのにどんちゃん騒ぎするわ、少女(少年?)にイヤラシイことをするわ、その他もろもろ問題児だったらしい。
『こいつは天皇にふさわしくない』ということでクビです。
こういう『ただの犯罪じゃねーか』のエピソードは本当かどうか分からない。
道祖王を天皇にしたくない人たち(藤原仲麻呂)のネガティブキャンペーンの可能性もあるから。
藤原仲麻呂の戦略
そこで新たに皇太子を決めないといけませんでした。藤原仲麻呂はここで、藤原の血をもたない、天智天皇のひ孫で天武天皇の孫の大炊王(おおいおう / おおい の おおきみ)を推します。
大炊王の父は、太政大臣のような役職・知太政官事もつとめた舎人皇子(とねり の みこ)。
知太政官事(ちだいじょうかんじ)
第42代 文武天皇から第45代 聖武天皇の間に置かれた令外官。
律令政治の太政官を監督するマネージャー職。
(左大臣よりも上。)
有力な皇族が務めた。
だれが? | 就任時期 |
---|---|
忍壁皇子 (おさかべ の みこ) 天武天皇の子。 | 703年(大宝3)~ 705年(大宝5)。 第42代 文武天皇 |
穂積皇子 (ほずみ の みこ) 天武天皇の子。 | 705年(大宝5)~ 715年(和銅8)。 第42代 文武天皇 第43代 元明天皇 |
舎人皇子 (とねり の みこ) 天武天皇の子。 | 720年(養老4)~ 735年(天平7)。 第44代 元正天皇 第45代 聖武天皇 |
鈴鹿王 (すずか の おおきみ) 高市皇子の次男。 天武天皇の孫。 | 737年(天平9)~ 745年(天平17)。 第45代 聖武天皇 |
このときすでに太政大臣があったが、前例の大友皇子(おおとも の みこ)、高市皇子(たけち の みこ)のように、皇太子に匹敵する人でないとなれなかった。
太政大臣を置くと皇太子と並び立つので、皇位継承争いを避けるため知太政官事を置いたとも言われる。
じっさい、知太政官事がいたときの太政大臣は不在。
(その後、太政大臣は皇族でなくてもなれるようになる。)
結局、歴代知太政官事は第40代 天武天皇の子が務めた。
(最後の鈴鹿王だけ孫。)
本格的な律令政治を始めた天武天皇の威光があるうちだけの役職だったとも言える。
(天武天皇は皇親政治を始めた人でもある。)
藤原氏の血が入った王はたくさんいて、争いに負けると藤原氏ごと凋落もあるので、あえて藤原氏の血がない人を選んだのでしょう。
天智・天武天皇の子孫で、父の政治実績でも文句は出づらいです。また仲麻呂は、大炊王を自分のもとに置いておくこともしました。
亡くなった息子の嫁を大炊王に嫁がせ、自分の家(田村弟。たむらてい)に住まわせています。
もう次の天皇の後見人になったようなもんです。
当時の女性の結婚に、過去の結婚歴の有無は関係ない。次期天皇の嫁が過去に結婚歴がある人でも気にしない。
民間人男性との間に子どもがいて、その後、皇室に入って皇子を産んだ人もいる。
橘奈良麻呂の乱で処刑・島流しの刑にあう王たち
橘奈良麻呂の乱で痛い目にあったのは、右大臣・藤原豊成だけではありません。王たちもいました。
道祖王 (ふなど) | 麻度比(まどひ。平常心をかき乱す者)に改名させられる。 拷問を受けそのまま死亡。 |
安宿王 (あすかべ) | 家族もろとも佐渡国(北陸)へ島流し。 |
黄文王 (きぶみ) | 久奈多夫礼(くなたぶれ。愚か者)に改名させられる。 拷問を受けそのまま死亡。 |
とくに道祖王はかわいそうです。皇太子をクビになってボコボコに殴られて死んでしまったので。
殺される前に、屈辱的な名前に変えさせられるのも面白いですね?
皇族のまま殺すのはヤバいと思ったのか、怨霊になられたら困るからか?
黄文王は、父・長屋王(ながやおう / ながや の おおきみ)が怨霊になり藤原四兄弟を呪い殺して、鎮魂の意味で出世していたとも言われるので、よけいに恐れられたのかも。
塩焼王 (しおやき) | 臣籍降下して氷上塩焼(ひがみ の しおやき)に改名。 皇族から離れることで許された。 中納言まで出世する。 |
山背王 (やましろ) | 奈良麻呂が乱を起こそうとしていることをチクった人。 臣籍降下して藤原弟貞(ふじわら の おとさだ)に改名。 参議まで出世する。 |
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
一方、藤原仲麻呂にすり寄った王も臣籍降下していち民間人になりました。孝謙天皇からすると、もうこれ以上、王が天皇の椅子を狙えないようにしたかったのでしょう。
ここで、大炊王のライバルを一網打尽にしました。この大炊王が次の第47代 淳仁天皇(じゅんにん)になります。
今度は天皇をクビ
橘奈良麻呂の乱の1年後(758年, 天平宝字2)、孝謙天皇は退位して上皇になります。
くわしくは淳仁天皇・称徳天皇のところにおまかせして、ここではかんたんに。
孝謙上皇が弓削道鏡と出会う
上皇になった孝謙上皇は、761年(天平宝字5)、平城宮の改築で仮住まいしていた近江国(滋賀)の保良宮(ほら の みや)で僧・弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)に出会います。
病気で寝込んでいた上皇を治療した道鏡は上皇のお気に入りになりました。
淳仁天皇は道鏡を頼る上皇に意見します。これで天皇と上皇の対立が決定的になりました。
(道鏡の野心マンマンなところが天皇は気に入らない。)
もちろん、天皇の後見人・恵美押勝(えみ の おしかつ。改名した藤原仲麻呂)も道鏡が嫌いです。
淳仁天皇クビ。幽閉の後ナゾの死亡
道鏡と出会って1年後(762年, 天平宝字6)には淳仁天皇から天皇の仕事を取り上げて、上皇が政治を仕切ります。
上皇の力を使ってやりたい放題する道鏡に恵美押勝はブチ切れて反乱を起こしますが、負けてしまい今度は押勝が斬り殺されました。
(恵美押勝の乱。764年, 天平宝字8)
1ヶ月後には淳仁天皇をクビにして上皇が天皇に返り咲きます。第48代 称徳天皇(しょうとく)です。
クビになった淳仁天皇は淡路(淡路島)に幽閉され、すぐに脱出しますが翌日に亡くなりました。
上皇が道鏡に出会ってたった3年の話。
淳仁天皇は脱出した次の日に亡くなっているので暗殺説もある。
淡路廃帝(あわじはいてい)と呼ばれていた。歴代天皇に加えられるのは1830年(明治3)。
親に似て仏教オタク
孝謙天皇は、歯向かう王たち、部下を殺し、左遷させてきましたが、仏教のことになるとホトケのような人です。
東大寺の大仏(奈良の大仏)の開眼供養(かいがんくよう。仏に魂を入れる。)をしたのは孝謙天皇。
国を治める基本を『孝』にして、家ごとに孝経(こうきょう。中国の13経のひとつ。)1巻をもたせました。
また、1万人の僧侶を集めてお経を読む壮大なイベントも行なっています。
親戚や部下を殺しまくったので、よけいに仏教に頼ったのかもしれません。孝謙天皇は21年間、天皇・上皇・天皇と渡り歩き53才で亡くなりました。
男どもの殺し合いの中タクトをふる、源頼朝の妻・北条政子と似ています。
孝謙天皇は退位して上皇のとき出家して尼になる。
父・聖武天皇が史上初の出家した天皇経験者になりましたが、仏教オタクを引き継いだ孝謙天皇もそれに習った。