太政大臣(だじょうだいじん)は、明治の近代化の前までの、日本の役職の一番トップです。ほかの役職とは圧倒的な力の差があるほど、誰でもなれるものではありませんでした。
歴史も長く、古代の飛鳥時代に始まり日本の歴史の大部分でトップであり続けました。
そして、時代によってなれる人も変わっていきました。
最初が一番『圧倒的』だった
初期の太政大臣はいちばん圧倒的な役職でした。天皇になるような人しかなれません。
太政官(だいじょうかん)
律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。
四等官 | 官位 |
---|---|
長官 (かみ) | 太政大臣(令外官) 左大臣 右大臣 内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活) |
次官 (すけ) | 大納言 中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活) 参議(令外官) |
判官 (じょう) | 少納言など |
主典 (さかん) | 省略 |
左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。
最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。
最初の太政大臣は大友皇子。
(その後、平清盛、豊臣秀吉など)
太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。
明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。
明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。
内閣の一員 -> 大臣(だいじん)
官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)
日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。
首相 = 総理大臣
財務相 = 財務大臣
○○相 | イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳 |
○○大臣 | 太政官の名残り。日本だけ。 |
政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。
ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。
大臣は『天皇の臣下のリーダー(大)』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。
最初の太政大臣は、第38代 天智天皇のころの大友皇子(おおとも の みこ。弘文天皇)。
大友は太政大臣になると天智天皇から政治のすべてを任されました。『次の天皇は大友皇子じゃないか?』と思われるほどです。
結局その力が原因で、皇太弟・大海人皇子(おおあま の みこ。天武天皇)と戦争になり負けてしまいましたが。
皇太弟(こうたいてい)
天皇の弟が次の天皇に指名されたときに使う。
皇太子は、天皇の子供が指名されたときに使うので、弟の場合は使えない。
壬申の乱(じんしんのらん)
天智天皇の弟・大海人皇子(おおあま の みこ)と息子・大友皇子(おおとも の みこ)のだれが天皇になるのかの争い。
古代最大の内乱。
両軍ともに皇位継承権のある皇族が大将になり指揮した戦で国を2分した。日本の歴史上、ここまで国を分けた戦いはない。
大海人皇子は皇太弟、大友皇子は太政大臣だった。
天智天皇は大海人皇子を指名したが、皇子が断って吉野(和歌山)に引っ込んだことが原因。
672年(天武元)7月24日、大海人皇子は、大友皇子に反乱の罪をきせられると思い、先手を打って挙兵、勝利して第40代 天武天皇になる。
どっちが裏切ったのか、正義があるのかは意見が分かれる。
古代の資料は日本書紀・古事記からだが、天武天皇が号令をかけて作られたので、大海人皇子に都合の悪いものは書けなかったともいわれる。
(ここに書いた内容も日本書紀から。)
大友皇子は、歴代天皇に入ってなかったが、明治3年、明治天皇が『弘文天皇』という諡をおくって歴代天皇に加わった。
いまは、どっちがよかった、悪かったという評価ができるほど事実が分かっていない。
二人目は、第41代 持統天皇のころの高市皇子(たけち の みこ)です。
高市は、第40代 天武天皇の皇太子・草壁皇子(くさかべ の みこ)が亡くなって、皇太子が不在のときに就任しました。
高市は天武天皇の長男です。母の身分が低く皇太子になってませんが、立場は一級品。
高市も持統天皇から政治のすべてを任されました。
皇族の重要な位置にいて、政治の総責任者
初期の太政大臣は、皇太子に匹敵するほどだったとも言われます。
太政大臣は皇族として一級品で、政治家としても一級品じゃないとなれない。
高市皇子は草壁皇子の兄。草壁は弟だけど皇后(持統天皇)の息子なので皇太子になった。
高市は政治家として草壁に劣らないほど優秀だったと言われる。
立場がすごすぎて太政大臣を置けない
太政大臣は、『将来天皇になりそう』『政治を仕切れる』、完ぺきな人でないとできないので、高市皇子のあとしばらく誰も就任しませんでした。
(令外官なので不在でも問題なかった。)
このときは皇親政治だったので、皇族の政治責任者が必要です。そこで知太政官事という役職を新しく作りました。
知太政官事(ちだいじょうかんじ)
第42代 文武天皇から第45代 聖武天皇の間に置かれた令外官。
律令政治の太政官を監督するマネージャー職。
(左大臣よりも上。)
有力な皇族が務めた。
だれが? | 就任時期 |
---|---|
忍壁皇子 (おさかべ の みこ) 天武天皇の子。 | 703年(大宝3)~ 705年(大宝5)。 第42代 文武天皇 |
穂積皇子 (ほずみ の みこ) 天武天皇の子。 | 705年(大宝5)~ 715年(和銅8)。 第42代 文武天皇 第43代 元明天皇 |
舎人皇子 (とねり の みこ) 天武天皇の子。 | 720年(養老4)~ 735年(天平7)。 第44代 元正天皇 第45代 聖武天皇 |
鈴鹿王 (すずか の おおきみ) 高市皇子の次男。 天武天皇の孫。 | 737年(天平9)~ 745年(天平17)。 第45代 聖武天皇 |
このときすでに太政大臣があったが、前例の大友皇子(おおとも の みこ)、高市皇子(たけち の みこ)のように、皇太子に匹敵する人でないとなれなかった。
太政大臣を置くと皇太子と並び立つので、皇位継承争いを避けるため知太政官事を置いたとも言われる。
じっさい、知太政官事がいたときの太政大臣は不在。
(その後、太政大臣は皇族でなくてもなれるようになる。)
結局、歴代知太政官事は第40代 天武天皇の子が務めた。
(最後の鈴鹿王だけ孫。)
本格的な律令政治を始めた天武天皇の威光があるうちだけの役職だったとも言える。
(天武天皇は皇親政治を始めた人でもある。)
知太政官事は次の天皇に指名されるほどではない、天皇の息子・孫の人がつとめます。
第45代 聖武天皇のとき、政治が皇族から藤原氏へ移って皇親政治の力が弱まると知太政官事は無くなりました。
初期の太政大臣は皇族が政権を担当し、天皇が直接政治のリーダーシップをとったので規格外の役職だった。
規格外の人がいないことが続いたので知太政官事を作った。
太師と太政大臣禅師
知太政官事が無くなってからは、政治のトップに藤原氏がなっていきます。
天皇の力を超える藤原氏の最初の実力者は、藤原仲麻呂(ふじわら なかまろ)。仲麻呂は、第47代 淳仁天皇から『太師』(たいし)の称号をもらいました。
これが最初の人臣の太政大臣です。『太政大臣』は特別な皇族しかなれないイメージが残っていたので使えなかったのでしょう。
もうひとつの『太政大臣禅師』(だじょうだいじんぜんじ)は、第48代 称徳天皇が頼りにしていた僧、弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)に贈りました。
道鏡は仲麻呂が失脚して成り上がった僧で、称徳天皇のお気に入りです。
称徳天皇は、仲麻呂に匹敵する権力を道鏡に持たせたくて作ったのでしょう。この役職は歴史上、道鏡以外で使われていません。
(大師の称号も仲麻呂にしか使われていない。)
藤原仲麻呂は改名して恵美押勝(えみ の おしかつ)になっていた。
『太政大臣』の重みを無視する称徳天皇
称徳天皇は『太政大臣』に遠慮しません。
太政大臣禅師 = 太政大臣 + 禅師
禅師: 僧の最高の称号
道鏡に、政治家としても(太政大臣)、僧としても(禅師)、最高の称号をダブルで贈りました。
このあと100年後くらいに太政大臣は貴族・武士でもなっていきますが、そのハードルを下げたのは称徳天皇です。
称徳天皇の時代は太政大臣の候補になる親王がひとりもいなくて、残っていたのが王ばかりでしかたがありませんでした。
位も最上級じゃないとなれない
太政大臣は位も最上位じゃないとなれません。正一位(しょういちい)もしくは従一位(じゅういちい)です。
太政大臣の圧倒的な力の理由はこれ。
天皇の息子・孫でも、よっぽどの人じゃないと一位にはなれません。生前に一位になれた人は数えるほど。
ちなみに知太政官事は、一位じゃなくてもなれました。
位と役職はセット
高い役職の人が低い位はありません。太政大臣が正二位はありえないし、左大臣が正三位もないです。
高い位の人が役職が低いということもありません。自分からすすんで政治から距離をとりたくて役職なしや出世拒否の人はいたようですが。
藤原仲麻呂が太師になったのも、従一位に昇進したのでそれ相応の役職が必要になったのでしょう。太政大臣を使うのには、さすがにビビったようですが。
位と役職の対応は時がたつと少しずれていく。
たとえば、江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわ いえみつ)は従一位で左大臣。
死後に贈られることも多い
日本では、亡くなった人の功績をたたえて立派な名前を贈ったりします。官位もジャンプアップして贈る習慣がありました。
たとえば、天皇のそばで政治家としてがんばっていた藤原不比等(ふじわら ふひと)は、亡くなった後に正一位の昇進と太政大臣の称号を贈られてます。
(むしろ、生前に一位・太政大臣になるほうが稀で、死後に贈られる方が多い。)
正二位・従二位がつとめる左大臣・右大臣が亡くなると、昇進して太政大臣が贈られました。
昇進するかを決めるのはその時の天皇。
(天皇が『昇進なし』といって生前と変わらない人もいる。頑張ってたのにかわいそう。)
太政大臣は、左大臣・右大臣の経験者が死後に贈られる名誉職になることが多い。
太政大臣の権威がグダグダ
藤原仲麻呂・道鏡のあと太政大臣の不在がつづきます。それから100年も経つと一位の特別感が下がりました。平安時代になり皇族でなくても一位になる人が多くなってきます。
ここで太政大臣が復活します。復活の第1号は藤原良房(ふじわら よしふさ)。
良房は第56代 清和天皇の母方のおじいちゃんで、史上はじめて皇族以外で摂政にもなりました。
平清盛や豊臣秀吉もなった太政大臣は、ここからはじまります。
この太政大臣は、摂関政治のはじまりと同時期に復活しています。また、明治の摂関停止と同じタイミングで無くなるので、太政大臣・摂政・関白がセットで見られることも多い。
復活してからの太政大臣は、左大臣・右大臣に加えて摂政・関白をつとめた人に贈られるようになります。
おもに藤原氏の流れをくむ貴族。そのほかは幕府の将軍。
関白に就任すると同時に太政大臣になるのが慣例になる。生前に太政大臣になれるのは関白だけになった。
例外で関白にならずに太政大臣になったのは、有名なところでは平清盛(たいら の きよもり)くらい。
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)だって関白・太政大臣に同時になっている。
死後に贈られるのは、右大臣・左大臣・摂政を務めた人が慣例になる。
太政大臣のハードルが低くなっても、偉いからなれるものではない。
鎌倉幕府の将軍はひとりもいないし、室町幕府の将軍では足利義満(あしかが よしみつ)ひとり。
江戸幕府の将軍で生前に贈られたのは、徳川家康・秀忠・家斉の3人だけ。そのほかは死後に贈られた。
でも、最後の将軍・慶喜は、徳川の歴代将軍でひとりだけ太政大臣を贈られていない。慶喜が亡くなったのは明治の終わりごろで、すでに太政大臣が無くなっていたから。