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摂関政治の完成。初代関白・藤原基経
太政大臣・摂政・藤原良房は、孫・清和天皇の在位中に亡くなります。その後を継いだのが、良房の子・藤原基経(ふじわら もとつね)。
良房には男子の子どもがいなかったので、兄・長良(ながら / ながよし)の子・基経を養子に迎え後継者にしました。
基経は妹・高子(こうし / たかこ)を清和天皇に嫁がせて父・良房と同じ立場になり、摂政を引き継いだ後、妹・高子の子・第57代 陽成天皇が元服すると関白に就任します。
関白は摂政とちがい、政治ができる力のある天皇の補佐です。成長した天皇の近くで権力を行使できる新しい役職。
ここで藤原氏の戦略が確定しました。
自分の血縁のある生まれたばかりの皇子を皇太子にする。
数年後、幼い皇太子を即位させる。
摂政になり幼い天皇を支える。
成長した天皇を続けて支えるため関白になる。
つねに藤原氏が天皇の一番近くにいる盤石の体制。これを摂関政治と言います。
そして、摂政関白は基経の子孫だけがなれました。これを摂関家(せっかんけ)と言います。
なぜ摂政は天皇の信頼を得られるのか?
天皇にとって、摂政はもうひとりの父のような存在でした。平安時代は、生まれた子どもは妻の実家で育てる習慣があったから。
将来天皇になる皇子は、藤原北家・藤原長者の家で育ちます。その家の当主が摂政になるんだから、実父の天皇よりも親近感がある。
成長しても、その父が関白として近くにいてくれるので天皇は安心だったでしょう。
藤原氏の戦略は結婚のかたち、子どもの育て方まで考えて作られました。
幼い天皇はお父ちゃんの言うことを一番聞くのが当たり前。
平安時代は、摂関家の皇子争奪戦が激しくなる。
自分の家で育てた皇子を皇太子にする闘争も激しかった。
もちろんそれは、将来の摂政・関白の争奪戦でもあった。
摂関政治は幼少天皇とセット
じっさい平安時代の天皇は、幼少天皇のときは摂関政治が盤石で、そうじゃないときは皇親政治、律令政治が崩壊すると皇親政治っぽい、天皇がリーダーシップを取る政治になります。
平安時代は摂関政治一色に見えますが、摂政・関白を置かず天皇が直接リーダーシップを取ったこともけっこうあり、摂関政治が腐敗するといいタイミングでやってきました。
むしろ、平安の有名な政治改革は非摂関政治の場合が多い。そのときに天皇を支えたのが源氏や摂関家から外れた藤原氏、その他の氏族の人たちでした。
第58代 光孝天皇 | おじいちゃん天皇。 |
第59代 宇多天皇 | 民間人を経験したキャリアの持ち主。 寛平の治(かんぴょうのち) |
第60代 醍醐天皇 | 生まれたとき民間人。 延喜の治(えんぎのち) |
第62代 村上天皇 | 天暦の治(てんりゃくのち) |
第71代 後三条天皇 | 摂関政治を壊し院政のきっかけを作る。 |
延喜・天暦の治は、聖代の治世と言われるほど有名。第96代 後醍醐天皇が目指した建武の新政は延喜の治を教科書にしました。
天皇の即位・退位を決めるのが当たり前だと思い始める
関白・藤原基経は、天皇をクビにしたり即位させたり大きな力を行使します。関白になって最初に仕えた陽成天皇をクビにしました。
次の光孝天皇はおじいちゃんだったのに、即位させたのも基経です。
基経の子で次の摂政・関白・藤原忠平(ふじわら ただひら)は摂関政治を完成させたと言われます。
おじいちゃんが摂政・太政大臣になり、父が関白になり、それをスタンダードにしたのが忠平。3代で摂関政治を作り上げました。
天皇家の家族、子孫になっていた摂関家
初めて人臣摂政になった藤原良房(よしふさ)は、娘を天皇に嫁がせるだけでなく、天皇の娘を妻に娶っていました。
天皇家と血縁関係のない氏族が皇女を娶ったのも史上初。さすがに皇女を娶るのはタブーだったので、一旦源氏にした後そこから妻に迎えました。
それでも天皇の娘に変わりはない。
藤原長者と源氏はお互いに嫁の出し合いをした家族です。もちろん源氏とはいえ、嫁いだ女性が天皇の娘・孫だったりしたので天皇家とも家族。
天皇家・藤原氏・源氏の3家は、日本の政治の中心であると同時に家族でした。
とうとう皇女にアタックするものが現れる
第62代 村上天皇の時代には、皇族・皇女に手を出す人が現れます。藤原師輔(ふじわら もろすけ)。
師輔の時代は天皇親政なので摂政・関白にはなってませんが、右大臣にまでなった大物。藤原忠平(ただひら)の次男です。
師輔は第60代 醍醐天皇の娘がタイプだったらしく、一度成功して結婚できたことでタガが外れたのか、けっきょく、3人の醍醐天皇の娘・内親王を妻にしました。
(醍醐天皇の子孫は絶世の美女と言われた人が多かった。)
藤原北家の当主・摂関家は、父と母のどっちから見ても天皇の子孫
なんで藤原師輔はタブーを犯したのに左遷されなかったのか?
じつは師輔は、父方を見ても母方を見ても天皇の子孫です。(父方は第54代 仁明天皇のひ孫。母方は第55代 文徳天皇の孫。)
師輔から見るとひいじいちゃんの良房は娘を天皇の妻に出し、天皇の娘を妻に迎えました。それはおじいちゃんの基経も同じでさらに父の忠平も同じ。
この繰り返しの結果、師輔で『藤原氏 = 天皇の子孫』のできあがり。
あまり知られてませんが、摂関政治が完成するころには、藤原氏長者の天皇の子孫化が完成していました。
天皇の子孫の師輔が内親王と結婚してもタブーじゃなかったんですね?
これが今から起きる藤原氏最強時代の力の源です。
古代の皇族が近親結婚が多かった理由もここにある。
古代は豪族を天皇がまとめる政治だったので、天皇の娘を特定の氏族に嫁がせると争いのもとになる。
天皇の近くに遠縁の王や天皇の子孫の葛城氏や蘇我氏がいた理由も同じ。皇女の嫁ぎ先として必要だった。
といっても古代の女性皇族は生涯未婚が多い。それだけ豪族に嫁がせて、いらぬ争いになるのを恐れていた。
天皇をイジメ始めた摂関
もうすでに天皇の即位や退位に影響力を持ち始めた摂関ですが、天皇をイジメるまでになっていきます。そのきっかけが第63代 冷泉天皇のとき。
このころの藤原氏長者は、第60代 醍醐天皇の娘を3連チャンで娶った藤原師輔の兄・藤原実頼(さねより)。
師輔は天皇の娘に惚れられたことで、地位以上の影響力をもっていましたが、地位・役職は兄の実頼がずっと上でした。
冷泉天皇のときの関白も実頼です。
源氏の失脚。藤原氏をだれも止められない。
このときの左大臣は源高明(みなもと の たかあきら)。
そして冷泉天皇の皇后の兄で義兄。
そして冷泉天皇の叔父さん。
藤原師輔の娘を妻に迎えていたので藤原氏ともファミリーです。
そんな高明は、皇太子をだれにするかの争いで謀反の疑いをかけられ失脚します。(安和の変)
ここで平安初期からつづいてきた藤原氏 vs 源氏の2大勢力の争いが終わりました。藤原氏を脅かす氏族としての源氏は終了。
藤原氏の天皇イジメが始まるのも源氏の抑えが無くなったから。
安和の変は完全な藤原氏のクーデター。
源高明は血統、政権の役職、現天皇(冷泉)との関係、すべてにおいて最強だった。
もし、高明の孫が皇太子になったら藤原氏の出る幕はなく、源氏が摂関政治の中心になる可能性すらあった。
それくらいの力が当時の源氏にはあった。
また高明は弟・村上天皇の天皇親政の中心人物で、藤原摂関とは異質の政治家だった。
どこから見ても藤原氏にとっては目の上のたんこぶ。
高明の不幸は、失脚謀略の急先鋒に同じ源氏が関わっていたこと。
摂関の謀略に加担した源氏はすでに中央政府から離れていた武士の源氏の祖先・河内源氏。
円融天皇をイジメて退位させる藤原兼家
藤原氏の長者は藤原実頼(さねより)ではなく、弟・師輔(もろすけ)の子どもたちへ移ります。その中でも一番力をもったのが藤原兼家(かねいえ)。
兼家は第64代 円融天皇のときに出世して右大臣までなるんですが、あまりに兄弟間の権力闘争をやるので天皇から嫌われていました。
(天皇はオラオラで野心丸出しのところが嫌いだった。)
天皇は兼家の娘を妻にしていたのですが、皇子を産んだのがその兼家の娘。
(円融天皇には二人の皇后がいたがその間には皇子が生まれていない。)
結局、円融天皇は皇子(のちの一条天皇)とその母をだしに使われて退位してしまいます。
花山天皇をだまして退位させる藤原兼家・道兼親子
円融天皇の時代はまだ藤原兼家(かねいえ)が摂政になれる立場でなく、兄の藤原伊尹(これただ)でした。このとき皇太子を冷泉天皇と自分の娘の間に生まれた皇子(のちの花山天皇)に決めます。
その後、摂政になる人が立て続けに死んでいってトップになったのが兼家。
兼家は自分の孫を天皇にしたかったので花山天皇が邪魔だったらしく、息子・藤原道兼(みちかね)を使って退位させます。
道兼は、皇后が死産の上に亡くなったのにショックを受けた花山天皇に『自分も出家するから退位しませんか?』と寺に誘います。
そして道兼は花山天皇を寺に残して逃げました。天皇はそのまま退位。イジメというよりだまし討です。
- P1 神話の時代から仕える側近中の側近
- P2 藤原氏の祖・藤原鎌足
- P3 律令国家建設の中心人物・藤原不比等
- P4 藤原四兄弟。藤原氏の流派が生まれる
- P5 藤原北家を復活させた藤原冬嗣
- P6 史上初。人臣摂政と人臣の太政大臣
- P7 摂関政治の完成。初代関白・藤原基経
- P8 歴代の藤原氏で最強の男・藤原道長の登場
- P9 摂関政治の衰退から院政へ
- P10 御堂流の分裂。五摂家の誕生。『藤原』を名乗るのをやめる。