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源氏ってなんだ?どこから来たの?なぜ武家政権のトップであり続けたの?

武士 画像

ご覧のページは 6 / 10 です。先頭ページはこちら。

真打ち登場。武士の源氏(清和源氏)

貴族の源氏はひとまず終えまして、源氏といえばやっぱり武士でしょう。平安末期から鎌倉、室町、江戸時代まで長い間歴史上に登場してくる氏族です。

武士の源氏は第1期の大量生産の中から生まれました。

藤原氏をも超えて、日本の氏族で一番長い間、日本の中心にいたといっても過言ではありません。

ただここで疑問が。

もともと左大臣を出すほどの貴族なのになぜ武士でも天下を獲ったのか?

ヒントは平氏が武士になったのと同じです。

氏族としては平氏より先輩だけど武士としては後輩

由緒ある氏族から武士になった人たちの祖先は国司です。平氏は最初から期待されていない貴族だったので、平安の初期には国司になり、そこから武士へと変わっていきました。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

一方、源氏はエリート貴族になるために生まれた氏族です。スタートがいきなり上からなので、なかなか下位ランクの国司になるような人は出ませんでした。

国司になりはじめるのは、藤原氏との勢力争いに負けていき摂関政治が始まるころです。

摂関政治の最初の天皇が武士の源氏の祖先

摂関政治の最初の天皇は第56代 清和天皇です。その後見人が藤原良房

さっき出てきましたね?

人臣初の摂政太政大臣のあの男です。

清和天皇は歴代天皇で初めての幼少天皇で、そのために摂政と太政大臣を復活させました。それを人臣に任命してでも。

そして、武士の源氏の祖先も清和天皇です。もう分かりますね?

天皇に強力な後見人の藤原氏がいるので、中央政府に居場所が無くなっていった源氏は地方勤務の国司に下がっていきます。

(良房は清和天皇のお祖父ちゃん。)

そこからは平氏と同じ道。

国司は地方の長官だけでなく軍団長でもありました。当時、一番軍事力を持っていた人といってもいい。

それに藤原氏に並ぶ由緒ある氏族の源氏がなるんだから、地方ではチヤホヤされるでしょう。

平氏より遅れてきた武士の前身・武将の源氏が一気に広がりました。さっきの北畠氏も伊勢(いせ。三重)の国司から始まっています。

皇統ラインの変更で武士になるしかなかった?

武士の源氏の生みの親、清和天皇の子孫は天皇が続きませんでした。息子の陽成天皇で終わります。次に天皇になったのは、清和天皇の叔父さんの光孝天皇

光孝天皇の子孫たちは当たり前のように源氏を出していきます。

清和源氏は先輩の源氏と同じように左大臣を出す貴族として期待されていたでしょうが、光孝源氏が出てきたので行き場を失いました。

光孝源氏ははっきり言って強い。天皇になる源氏(宇多天皇醍醐天皇)はいるし、源氏の中心になっていく村上源氏は出てくるし。

武士の平氏もそうですが、武士になるような人たちは弾かれたところから始まるのがスタンダードのようです。

天皇の子孫は『今の』天皇に近い人が優位

これは、天皇というものの暗黙のルールですが(伝統と言ってもいい)、天皇の子孫は『今の』天皇に近い人が大事にされます。

清和天皇の子孫は、光孝天皇ラインからすると甥っ子の子孫になるので、時間が経つほど天皇との距離は離れていく。

こうして、天皇の子孫で大事にされる人たちと一民間人になっていく人たちとの区別ができていきます。

天皇の子孫は、今、目の前にいる天皇の子・子孫であることが最重要。

そりゃそうですよね? 天皇の子孫は日本全国に数え切れないほどいるんだから、全員同じ格にしたら天皇家の意味がなくなってしまう。

だれでも天皇になっていいじゃんになる。

今、皇位継承問題で、男系男子の血筋があれば距離なんてどうでもいいという方向に進んでいますが、こんなこと長い歴史で一度もないし、考えられたこともない。

これでいいんですかね? 伝統と言いながら思いっきり伝統破壊をしているのに。

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