歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -
第50代 桓武天皇(かんむ)は、平安時代をはじめた天皇です。
政治改革、軍政改革、民の負担軽減など聖帝と言っていいほど仕事をしました。
中国が好きすぎてミーハーになるほどで、母は朝鮮国王の末裔とも言われます。中身も、見た目も、行動も、国際派の天皇。
古代・中世 平安時代 - 初期 -
- 皇居
平城宮
(へいじょうきゅう)長岡宮
(ながおか の みや)平安宮
(へいあん の みや)
- 生没年
- 737年?月?日 ~ 806年3月17日
天平9 ~ 延暦25
70才
- 在位
- 781年4月3日 ~ 806年3月17日
天応元 ~ 延暦25
26年
- 名前
- 山部
(やまべ)
- 別名
日本根子皇統弥照尊
(やまとねこ あまつひつぎ いやてらす の みこと)延暦帝
(えんりゃくてい)柏原帝
(かしわばらてい)
- 父
第49代 光仁天皇
(こうにん)
- 母
高野新笠
(たかの の にいがさ)和乙継の娘
(やまと の おとつぐ)
- 皇后
藤原乙牟漏
(ふじわら おとむろ)藤原良継の娘
(ふじわら よしつぐ)
- 皇妃
藤原旅子
(ふじわら たびこ)藤原百川の娘
(ふじわら ももかわ)
- 妻
その他
官僚を経験した苦労人
山部親王(やまべ しんのう。のちの桓武天皇)は母の身分が低いため天皇になる可能性はゼロで官僚として生きてました。
中務卿(なかつかさきょう)にまで出世します。
ところが33才のとき父が飛び級で即位します。(光仁天皇)
それでもまだ官僚の人生になるはずでしたが、光仁天皇は皇后と皇太子をクビにして殺してしまいます。
高級官僚の山部にお鉢が回ってきました。そこからガラリと環境が変わって皇太子になり、父から皇位をゆずられて即位しました。桓武天皇です。
母は朝鮮王朝の末裔?
母・高野新笠(たかの の にいがさ)は朝鮮から渡来した和氏(やまとうじ)の出身です。
(高野氏は桓武天皇が嫁の実家の箔をつけるために新しい姓を授けた。)
和氏の姓は史(ふみ)で仕事は朝廷の記録係。政治は行わず事務員のようなものでした。
(もちろん身分は低い。)
続日本紀(しょくにほんぎ)では、和氏は百済の武寧王の子孫となっています。
藤原式家の絶頂期
桓武天皇の皇后は藤原乙牟漏(ふじわら おとむろ)、皇妃は藤原旅子(ふじわら たびこ)。二人は藤原式家の出身です。
(式家は藤原4家のひとつ、藤原宇合(ふじわら うまかい)から始まる系統)
皇后の父は藤原良継(よしつぐ)で皇妃・旅子の父は藤原百川(ももかわ)。
二人は兄弟で、桓武天皇の父・光仁天皇を即位させた中心人物です。そこでは暗躍まであったと言われました。
そんな二人が桓武天皇の義理の父になります。藤原式家はウハウハだったでしょうね?
『オレたちがお前の父ちゃんを天皇にしたんだぜ』
『そしてお前のオヤジだぜ』
調子に乗ってないのを想像するほうがむずかしい。
皇妃(こうひ)は、皇后まではいかないけど天皇の上級の妻として扱いたいときに使われる。
ここでは藤原百川の力が大きい。
最強の怨霊・早良親王(さわら)
桓武天皇は新しい政治をするために心機一転、都を移すことにしました。長岡京(ながおかきょう)を造りはじめます。
都建設の責任者は藤原種継(ふじわら たねつぐ)。桓武天皇が信頼していた部下のひとりでした。
(種継は良継・百川兄弟の甥っ子。藤原式家。)
しかし種継は、遷都反対派に暗殺されてしまいました。そこに関わっていたとされたのが早良親王。
早良は桓武天皇の弟で皇太弟でした。
皇太弟(こうたいてい)
天皇の弟が次の天皇に指名されたときに使う。
皇太子は、天皇の子供が指名されたときに使うので、弟の場合は使えない。
早良の裏切りにブチ切れた桓武天皇は皇太弟をクビにします。そして幽閉しました。
早良親王は無実を晴らすための抗議なのか断食します。結局それが原因で死んでしまいました。
長岡京遷都の反対派には、和歌の達人・大伴家持(おおとも の やかもち)もいた。
早良親王の怨霊で不幸の連続
それから桓武天皇には悪いことがつづきます。長岡京に移ってすぐに母が亡くなり、次の年に皇后が亡くなりました。
さらに早良親王に代わって皇太子に指名した安殿親王(あて。のちの平城天皇)が病気になってしまいます。そして疫病が流行しました。
怨霊に祟られたと思ってしまった桓武天皇は、長岡京に移ってからたった7年で都を捨てることにします。
平安京は怨霊を鎮めるための都
平安京への遷都は794年です。『鳴くよ(794)ウグイス平安京』で覚えてる人も多いでしょう。(今の子どもは知らんが。)
桓武天皇は800年、早良親王に『崇道天皇』(すどう)の称号を贈りました。そして、父・光仁天皇の皇后で最強の怨霊になっていた井上内親王(いのえ)の剥奪した皇后位を復活させます。
長岡京への遷都はせっかちでした。未完成なのに桓武天皇は引っ越します。
そして、長岡京を捨てるのも猛スピードでした。あれだけ慌てて引っ越したのにたった7年で平安京遷都。
おそらく平安京も未完成だったでしょう。もしかすると、長岡京に移ってからすぐに平安京の造営は始まってたのかもしれません。
長岡京は祟られているから。
平安京に移ってからの桓武天皇は必死です。平安京まで祟られてしまったらまた引っ越さないといけないので。
怨霊信仰は平安時代?
このような怨霊に祟られると悪いことが起きるという考えを怨霊信仰と言います。
一般的に平安時代に生まれたと言われ、怨霊信仰 = 平安時代と見られます。有名な陰陽師(おんみょうじ)も平安時代が舞台ですよね?
陰陽師が平安時代に活躍したことと井上内親王・早良親王の2大怨霊は関係があります。
平安京そのものが怨霊を鎮めるための巨大な結界みたいなものなので、それを司る職業が必要になったのでしょう。
それが陰陽師。
最近は怨霊信仰は平安時代よりもっと前に始まったという見方も多いです。
日本で一番古い怨霊は、さらに古い長屋王(ながやおう / ながや の おおきみ)と言われます。
調子に乗った仏教はNo!
桓武天皇の遷都は怨霊からの逃避行だけではありません。今までのダメなところを一掃する目的もありました。
そのひとつが仏教。
仏教の寺院は第33代 推古天皇と聖徳太子のころから多く造られました。桓武天皇の2代前の称徳天皇は仏教徒のまま即位しています。
しかし弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)のように、仏教の力を使ってわが物顔で権力を使う僧がでてきました。そこで桓武天皇は野心マンマンの仏教を捨てることにします。
飛鳥・奈良時代は都を移すといっしょに寺院も引っ越していましたが、桓武天皇は許しません。
それまでの大きな力をもった寺院は大和(奈良)に置いていきました。そして新しい仏教を取り入れます。その代表が最澄と空海。
既存の仏教は野心マンマンで権力をふるおうとするので捨てた。
最澄と空海に新しい仏教を学ばせる。
ニュー仏教のスーパースター、空海(くうかい)
空海はもともとエリートではありませんでした。遣唐使の中国留学もおまけで連れて行ってもらったようなものです。
でも空海はそれを活用します。国からこれを学んでこい、あれを学んでこいと言われてないので、自分がいいと思った仏教を学べました。
遣唐使の正式な選抜メンバー以外は最低20年は中国で勉強しないといけないルールがあったらしい。勉強できる時間はたっぷりでした。
(空海は自費留学。国から認められていない。)
空海はそこで、当時中国でもっとも進んでいた仏教だけを勉強して帰国します。その総本山が高野山金剛峯寺。
真言宗の開祖になりました。
真言宗は当時の最先端の仏教(密教)
後継者づくりの天才、最澄(さいちょう)
一方、最澄はエリートでした。空海とは同じ遣唐使の船で留学します。
しかし最澄は国が選抜したエリートなので、留学のスケジュールも決められ学ぶものが限られていました。
(選抜されたエリートの遣唐使は留学期間が1年しか認められていなかった。)
それでもそこはエリート、限られた中で吸収して帰ります。その総本山が比叡山延暦寺。
天台宗の開祖です。
日本の仏教にはいろいろな宗派がありますよね?
浄土宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗...
日本の中で門徒を広げた宗派の親玉は天台宗です。天台宗で学んだ若い僧、その弟子たちが今の日本仏教のおもな宗派を作りました。
最澄は最新の仏教を学べませんでしたが人材育成はピカイチです。
最澄 vs 空海
最澄と空海は対照的です。
最澄 | 空海 |
---|---|
エリート | 非エリート |
良き指導者 | 名プレイングマネージャー |
最澄は子どものころから恵まれて、東大卒の親を持ち自分も東大に入り、高級官僚になって事務次官になるような人生。
一方、空海は地方の国立大卒の親を持ち、自力で東大に入ったけど中退して、その後に起業して成功した実業家みたいな人生。
それが同じ時代に生き、同じように仏教界のニューリーダーになりました。でも合うわけない。考え方がぜんぜんちがう。
スーパースターでも立ち入れなかった都
都は京都、比叡山は滋賀、高野山は和歌山。桓武天皇が『勉強してこい!』と送り込んだ仏教のスーパースター2人でさえ、都に寺を造れませんでした。
なんなら山奥に追い出した感すらあります。これが桓武天皇の仏教に対する姿勢です。
ちなみに、いま京都にたくさんある寺院は、仏教が日本人の中に溶け込んできたからあるもので、支店みたいなもの。
(溶け込んでるものを拒否するほど頑なでもない。)
本店はいまだに山奥です。
桓武天皇はこれまでと同じように仏教を保護しましたが、それは最澄・空海を中心としたニュー仏教であってオールド仏教ではありません。
後年に真言宗は天皇の仏教になり、天台宗は攻撃的な仏教になる
平安京を作ると同時に京都には東寺(とうじ)も建立されました。
この寺は国立の寺で教王護国寺(きょうおうごこくじ)と言われることからも分かるように、国を守るための寺です。
桓武天皇の息子・第52代 嵯峨天皇のときに空海に東寺を任せるようになってから、真言宗のもうひとつの総本山になりました。
この影響で天皇の仏教は真言宗になります。これから出てくる法皇はすべて真言宗の宗徒。
一方、国のバックアップを取られた最澄の天台宗は、後々、強訴を繰り返す攻撃的な仏教になります。軍事力を使った反体制運動を頻繁に起こす集団にまでなる。
強訴(ごうそ)
仏教徒が朝廷に要求するときに軍勢を率いて恫喝すること。
要求というより反乱に近い。
比叡山の僧が起こすことが多かった。
比叡山は仏教徒の中でも僧兵が多く、既得権益もたくさんもっていて、宗教勢力というより反社みたいなものだった。
戦国時代の比叡山は日本経済の半分を占めていたほどで、平安時代でもすでに相当の経済規模をもっていた。
逆を言えば、国家に縛られない仏教なので自由に動けた。
空海と最澄は対象的な二人ですが、ここでも大きく方向性が変わっていきました。
天台宗は真言宗に比べ国のバックアップがなかったが、国を代表する仏教へと変わっていく。
元々、最澄は国の選抜で留学したし、天台宗の僧は東寺で真言宗も学んでいたから。
(ここで国も認める高僧になる箔をつける。)
オールド仏教嫌いは父ゆずり
桓武天皇の父・光仁天皇は、最初の仕事が僧・弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)の追い出しでした。
その前の称徳天皇が仏教マニアで仏教徒のまま即位し、道鏡に必要以上に権力を与えたからです。
光仁天皇はそれにNoを突きつけました。
オールド仏教は200年も経つと、天皇に保護されるのが当たり前だと思うようになり調子に乗ってたところがあります。
その最終形態が道鏡です。
桓武天皇はそれを引き継ぎました。桓武天皇が嫌いなのは仏教ではなく仏教を使って調子に乗る人。だから人をチェンジしました。
天皇の間接統治
桓武天皇の改革はこれだけではありません。平安京はいままでの都とはちがう造りになっていました。
天皇のプライベート空間(仕事場もある)の内裏(だいり)と、儀式など臣下たちとやり取りをする空間の朝堂院(ちょうどういん)に分けます。
このころには人工が爆発的に増えて、その分、役人の数も一気に増えていました。
桓武天皇は天皇親政をめざしましたが、役人全員の仕事を見るのが不可能になっています。
ここから天皇の間接統治が始まります。天皇が信頼する部下たち(太政官)が内裏から天皇の意見を聞いて、それを朝堂院の官僚たちに伝えるというように。
その太政官を占めたのが藤原氏。
(このときは藤原式家が隆盛。)
そして、有能な人は出身に関係なく登用するなど、律令制の強化にもつとめました。
太政官(だいじょうかん)
律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。
四等官 | 官位 |
---|---|
長官 (かみ) | 太政大臣(令外官) 左大臣 右大臣 内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活) |
次官 (すけ) | 大納言 中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活) 参議(令外官) |
判官 (じょう) | 少納言など |
主典 (さかん) | 省略 |
左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。
最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。
最初の太政大臣は大友皇子。
(その後、平清盛、豊臣秀吉など)
太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。
明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。
明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。
内閣の一員 -> 大臣(だいじん)
官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)
日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。
首相 = 総理大臣
財務相 = 財務大臣
○○相 | イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳 |
○○大臣 | 太政官の名残り。日本だけ。 |
政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。
ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。
大臣は『天皇の臣下のリーダー(大)』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。
重要な儀式を分ける
天皇の践祚の儀(せんそのぎ)と即位式を分けたのも桓武天皇です。
践祚の儀は三種の神器の引き継ぎ式、即位式は臣下の前で皇位についたことを表明する儀式。
これが今でもつづきます。
武士が生まれるきっかけ
桓武天皇は、役人の改革だけでなく民に対する政策も行いました。義務の負担軽減です。そのなかで、諸国の軍団を廃止して百姓からの徴兵をやめました。
(軍団は3郡にひとつくらいに配置。郡は市区町村みたいなもの。)
代わりに郡司の子どもたちを軍人にして、そのほか民の中で能力が高い者を選抜します。その軍団の総司令官が国司。
(健児の制(こんでいのせい。792年))
国司(こくし)と郡司(ぐんじ)
国司
古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。
地方のすべての権限を持っていた。
京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)
送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)
今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。
もってる力は絶大。
偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。
長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。
それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。
受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。
平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)
鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。
戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。
- 織田 上総介(かずさのすけ)信長
- 徳川 駿河守(するがのかみ)家康
織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。
織田信長が一番偉くないのが面白い。
郡司
市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
律令政治ですでに天皇は軍の総司令官を辞めていましたが、その進化版。戦国時代とやってることはたいして変わりません。
天皇がいざ戦争をするとなると各国の国司に集まるように要請します。天皇のそばにいるのは臨時国軍の総司令官・征夷大将軍と首都警護の近衛兵だけ。
桓武天皇は国軍を持つのをやめた。
軍隊を持つのは国司。さながら戦国時代のよう。
征夷大将軍の仕事はヒマ
征夷大将軍はつねに軍隊を統率しているイメージがありますが、それは武士の世の中の征夷大将軍です。
幕府ができてから作られたイメージ。
当初の征夷大将軍は軍隊をもっていません。軍の司令官は全国の国府(こくふ)にいるので、普段は各地に散らばっていました。
(国府は国司のいる場所で県庁みたいなもの。)
大規模な戦争でないかぎり国司が自分の領地から出陣します。征夷大将軍はよっぽどのとき以外はまったく仕事がありません。
じっさい征夷大将軍は令外官で、当時の軍事専門の役職のトップは鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)です。
鎮守府将軍は東北に置かれた戦争の最前線の総司令官。
(当時は東北がいちばん反乱が多いと思われていた。過去の蝦夷討伐の名残り。)
国司から武士が生まれる
平清盛(たいら の きよもり)、源頼朝(みなもと の よりとも)の祖先は天皇です。しかし国司の子孫でもあります。
桓武天皇の軍政改革で国司の持つ力は大きくなりました。平安時代の中ごろには、国司の中で朝廷とは無関係にやりたい放題するヤカラがでてきます。
そこでもってる軍事力を活用するようになった国司が武士になりました。平清盛、源頼朝などの祖先はその一部です。
健児の制は武士を生むきっかけ。
征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)
征夷大将軍という役職を作ったのは桓武天皇です。征夷大将軍は国軍を捨ててしまった代わりの、臨時国軍(国司の混成軍)の総司令官。
健児の制の一貫といったほうがいいかも。
その敵は蝦夷(えぞ。このときは北陸・東北が主)でした。坂上田村麻呂が有名ですよね?
ボクが学校で歴史を習ったころは最初の征夷大将軍と言われてましたが、いまは大伴弟麻呂(おおとも の おとまろ)が初代らしい。
(794年、征夷大将軍がトップの臨時国軍の初出撃。)
(副司令官が田村麻呂。田村麻呂は2代目征夷大将軍。)
『武士の棟梁・征夷大将軍』のしくみはこのときできました。武士ではなく、武士の祖先・国司だったというちがいがあるだけで。
征夷大将軍は、健児の制とセット。
国軍を捨てたので代わりに臨時総司令官の征夷大将軍を作った。
『続日本紀』の生みの親
桓武天皇は文化面でもいろいろなことをしています。続日本紀(しょくにほんぎ)の編纂を命令したのもそう。
続日本紀は、第40代 天武天皇が号令をかけた国家の歴史書『日本書紀』の続編です。
第42代 文武天皇から桓武天皇の延暦10年までを40巻にまとめました。
続日本紀で桓武天皇の母・高野新笠(たかの の にいがさ)の出身・和氏(やまとうじ)は、百済の武寧王の子孫となっていますが、本当かどうか分かりません。
『天皇の母なんだからいいとこの出じゃないと』と忖度した可能性もあります。ただ、もともと朝鮮の人だったのは間違いないようです。
中国大好きミーハー
このページのトップの肖像画を見ると、いかにも中国風です。桓武天皇は中国に強いあこがれをもっていました。
最澄や空海など遣唐使を派遣したのも、中国がどうなっているか、いいものは吸収してこいと送り出しています。律令国家のほころびが出ていたので、その修正方法も知りたかったのでしょう。
また、桓武天皇は天皇親政そのものです。皇太子、天皇になってから官僚時代の経験を生かして自分が政治のリーダーになりました。
桓武天皇は藤原式家の力で即位して嫁も式家で固められていましたが、言いなりではありませんでした。
むしろ彼らを自在に操っていたようにも見えます。中務卿の経験が生きたのでしょう。
しかしキャリアが異例だったので、その後の天皇は桓武天皇のような政治家が少なくなり、権威だけを残して権力から遠ざかっていきます。
桓武天皇は44才で即位して70才で亡くなりました。次の天皇に皇位をゆずらず天皇のまま亡くなっている点でも、この時代では珍しい人です。