歴代天皇 - (律令)国家・日本を作った天皇たち -
第45代 聖武天皇(しょうむ)は、仏教を愛し天平文化をつくった人ですが、政治には興味がありませんでした。
ちょうどこのころ、皇族の政治から藤原氏の政治への転換点で、あっち行ったりこっち行ったり、落ち着きません。
政権幹部が疫病でバタバタ死んで二人しか残らない事態も起きます。
古代 奈良時代
- 皇居
平城宮
(へいじょうきゅう)
- 生没年
- 701年?月?日 ~ 756年5月2日
大宝元 ~ 天平勝宝8
56才
- 在位
- 724年2月4日 ~ 749年7月2日
神亀元 ~ 天平勝宝元
26年
- 名前
- 首親王
(おびと の しんのう)
- 別名
天璽国押開豊桜彦天皇
(あめしるしくに おしはらき とよさくらひこ の すめらみこと)勝宝感神聖武皇帝
(しょうほう かんしん しょうむ こうてい)
- 父
第42代 文武天皇
(もんむ)
- 母
藤原宮子
(ふじわら みやこ)藤原不比等の娘
(ふじわら ふひと)
- 皇后
藤原安宿媛
(ふじわら あすかべひめ)光明子
(こうみょうし)光明皇后
(こうみょう こうごう)藤原不比等の娘
(ふじわら ふひと)
政治の混乱は、はじめての『藤原の天皇』のせい
聖武天皇の母は、藤原不比等の娘・宮子(みやこ)で、皇后・安宿媛(あすかべひめ)も不比等の娘です。
平安時代になると、あたりまえの結婚・家族のかたちですが、最初に藤原の天皇になったのが聖武天皇です。
ちょうど政治権力が皇族から藤原氏に移っていくところで、行ったり来たりの迷走をくり返しました。
不幸なことに疫病が流行り政権中枢の政治家たちがバッタバタと死んでいったりもしたので、運がないところもあります。
聖武天皇の体の具合や性格がダメった部分もあるでしょうが、政治が混乱するのを放置した責任を、聖武天皇のせいにするのはちょっと酷です。
聖武天皇は病弱で政治のリーダーを出来ないほどだったとも言われる。
だから仏教にのめり込んだとも。
聖武政権その1 - 長屋王政権(皇親政治)
最初の聖武天皇の政権は、天武・持統・文武・元明・元正と続いてきた皇親政治をそのまま受け継ぎました。
ただし聖武天皇のころには、天武の血をひく皇子たちの数がかなり減っていて、皇族だけで政権を動かすのは難しくなっています。
また、頼りにしていたお祖父ちゃんの藤原不比等も亡くなっていました。それでも、残った皇子たちと不比等の息子で政権を作ります。
知太政官事 | 舎人親王 (とねり しんのう) | 天武天皇の息子の最年長者。 皇親政治のご意見番。 |
左大臣 | 長屋王 (ながや の おおきみ) | 聖武天皇の即位と同時に左大臣に昇進。 政権のトップ。 |
右大臣 | ??? | |
内臣 (うちつおみ) | 藤原房前 (ふじわら ふささき) | 藤原不比等の次男。 元明上皇の遺言で天皇の補佐を命じられ る。 内臣は内大臣ともいい令外官。 発言力はあるが、役職は兄・武智麻呂の 下の参議でもあった。 |
大納言 | ??? | |
中納言 | 藤原武智麻呂 (ふじわら むちまろ) | 不比等の長男。 不比等が亡くなると一気に中納言に昇進。 が、上皇は弟に期待する。 |
参議 | ??? |
知太政官事(ちだいじょうかんじ)
第42代 文武天皇から第45代 聖武天皇の間に置かれた令外官。
律令政治の太政官を監督するマネージャー職。
(左大臣よりも上。)
有力な皇族が務めた。
だれが? | 就任時期 |
---|---|
忍壁皇子 (おさかべ の みこ) 天武天皇の子。 | 703年(大宝3)~ 705年(大宝5)。 第42代 文武天皇 |
穂積皇子 (ほずみ の みこ) 天武天皇の子。 | 705年(大宝5)~ 715年(和銅8)。 第42代 文武天皇 第43代 元明天皇 |
舎人皇子 (とねり の みこ) 天武天皇の子。 | 720年(養老4)~ 735年(天平7)。 第44代 元正天皇 第45代 聖武天皇 |
鈴鹿王 (すずか の おおきみ) 高市皇子の次男。 天武天皇の孫。 | 737年(天平9)~ 745年(天平17)。 第45代 聖武天皇 |
このときすでに太政大臣があったが、前例の大友皇子(おおとも の みこ)、高市皇子(たけち の みこ)のように、皇太子に匹敵する人でないとなれなかった。
太政大臣を置くと皇太子と並び立つので、皇位継承争いを避けるため知太政官事を置いたとも言われる。
じっさい、知太政官事がいたときの太政大臣は不在。
(その後、太政大臣は皇族でなくてもなれるようになる。)
結局、歴代知太政官事は第40代 天武天皇の子が務めた。
(最後の鈴鹿王だけ孫。)
本格的な律令政治を始めた天武天皇の威光があるうちだけの役職だったとも言える。
(天武天皇は皇親政治を始めた人でもある。)
皇親政治の続きなので、トップが天武天皇の孫・長屋王の政権です。
藤原氏は不比等が亡くなったばかりで二人の息子が政権に入ったばかり。政権中枢に入ってますが、そこはまだ新参者。長屋王を超える力はありません。
房前は元明上皇に天皇の補佐を命じられて政権ナンバー2まで昇進しました。舎人親王はご意見番なので政治の力はありません。
(もともと舎人は『日本書紀』の編集長をするなど、政治家というより学者。)
古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)
第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。
それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。
天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。
そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。
帝紀と旧辞
帝紀 (ていき) | 天皇の系譜、功績をまとめたもの。 |
旧辞 (きゅうじ) | 各氏族の系譜をまとめたもの。 氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。 日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。 |
帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。
当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。
帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。
古事記(こじき。ふことふみ)
帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。
712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。
20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。
(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)
日本書紀(にほんしょき)
完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。
中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。
天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。
古事記 | 倭語を漢字にあてた。 『夜露死苦』(よろしく)みたいに。 国内向け。 国家統一に利用するためか? |
日本書紀 | 漢字で書かれた。 (中国人でも読める。) 国外向け。 世界に日本をアピールするために利用か? |
元明上皇は死の直前、長屋王と藤原房前にあとを託した。
ツートップ政治を望んでいたようだが武智麻呂がいるのでちょっと複雑。
親王と王のちがい
親王も王も天皇の子孫です。この時代のルールでは、天皇の息子は親王、孫から王でした。
(大宝律令・養老律令あたりで決めたと思われる。)
ちなみに今は、天皇の孫まで親王、ひ孫から王です。
(女性は内親王と女王)
親王・内親王は将来天皇になる候補、王・女王は、それよりも格下になります。
(親王・内親王をさしおいて天皇になることはない。)
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
昔は孫から王になるのは天皇の子どもが多いから。それが原因で皇位継承争いの殺し合いもあった。
早めに、『天皇になれないから政治家・官僚・文化人になってね?』という意味。
長屋王の失脚
長屋王は皇親政治をはじめた天武天皇の孫です。そして、父・高市皇子(たけち の みこ)は、皇親政治の太政大臣でした。
当時の太政大臣は皇太子と同じ格だと見られるくらいの立場です。
長屋王は皇親政治の正当な継承者と言っていい立場で、藤原氏が出しゃばるのが大嫌いでした。
(皇親政治は皇族が政権の要職について直接政治を行う。)
辛巳事件(しんしじけん)
聖武天皇は即位したとき、母・宮子にもそれ相応の立場を用意したくて、『大夫人(たいふじん)』の尊称の勅を出しました。
もちろん藤原氏もこれを望みました。藤原氏からすると天皇家と同じとは言わないまでも、自分の家の格を最上級にしたかったので。
上奏(じょうそう)と勅(ちょく)・詔(みことのり)
上奏
政治の最高責任者から天皇に行なう報告。天皇への意見や相談。
勅・詔
天皇の命令。勅書(ちょくしょ)・詔書(しょうしょ)は命令書。詔勅(しょうちょく)ともいう。
勅と詔はケースバイケースで使い分けているが、ルールがよく分からないので同じものと思っていい。
1945年の玉音放送は、詔書。
天皇の命令を強調すると勅令(ちょくれい)、意見を強調すると勅語(ちょくご)という。
明治の教育勅語は天皇の意見。当時、天皇が国民に強制するものではない、勅令ではダメだということで勅語になった。
勅語は意見なので国民が絶対に聞かないといけないものではない。
これに猛反発したのが長屋王です。『公式令にはそんなルールはない!』といって、皇太夫人(こうたいふじん)に直させました。
天皇の勅を取り消してでも。
(自分で言って引っ込めてしまう聖武天皇に政治力がないのが分かる。)
皇太夫人は『先代天皇の皇后でない正妻』くらいの意味で、まったく最上級ではありません。
これで長屋王と藤原不比等の4人の息子のあいだに亀裂が入りました。
日本を近代化するために律令国家を作ってきたのに、そのルールを無視して『権力があるから勝手なことをしていい』と調子こく藤原氏にブチ切れる長屋王は正しい。
ただ、『曲がったことが大嫌い』がすぎる。一応、不比等の息子たちは聖武天皇の叔父。
聖武天皇が即位してすぐに辛巳事件が起きている。
聖武天皇はスタートから、長屋王 vs 藤原四兄弟に巻き込まれていた。
長屋王の変の勃発!
729年(神亀6)、『長屋王が国家転覆の呪いをかけている。』という密告がありました。
チャンスと見た藤原不比等の息子・宇合(うまかい)は、軍勢を率いて長屋王の家を取り囲みます。
長屋王は家族もろとも自殺してしまいます。これが『長屋王の変』と言われるもの。
この密告、あとになってウソだったことが分かっています。
長屋王は、不比等の娘・藤原長娥子(ふじわら ながこ)を妻にしていた。
(長屋王と聖武天皇は、嫁同士が姉妹の義兄弟。)
長娥子と、その間に生まれた皇子・皇女たちは生き延びて無罪放免になる。
高階氏(たかしな)の祖・安宿王(あすかべ の おおきみ)もそのひとり。
(それ以外の家族は死刑・流罪などの地獄絵図。)
皇親政治の後見人の裏切り
長屋王の皇親政治には、天武天皇の皇子が二人だけ残っていました。
ひとりは舎人皇子(とねり の みこ)。長屋王政権の知太政官事です。そして、もうひとりは新田部皇子(にいたべ の みこ)。
二人は元明上皇から、首皇子(おびと の みこ。のちの聖武天皇)の後見人になるように言われて、ずっと支えてきました。
新田部は位が高いのに、朝廷の軍事を統括する官職についているだけで政権中枢に入っていません。血筋では知太政官事や太政大臣になってもいいくらいなのに。
結局、死ぬまで変わりませんでした。
二人は皇親政治の長老で長屋王の叔父さんです。なのに、宇合の軍勢に囲まれた『呪いをかけた』長屋王を糾弾します。
新田部は藤原不比等の甥っ子なので裏切りはさもありなんですが、そこに最年長者の舎人も乗っかりました。
長屋王の運命を決めたのはこの二人でしょう。
長屋王は天皇にまで裏切られていた?
聖武天皇も長屋王の失脚を許していたようです。そもそも当時の藤原氏は軍を勝手に動かせません。
しかも、政権トップの左大臣の家に向かって。
少なくとも、長屋王以上のエラい人に話はつけていたでしょう。その上にいるのは、
の6人だけ。
舎人と新田部はすでに『藤原氏のイチャモン』に乗っかってるので、親・藤原氏。
宮子と光明子は姉妹で、イチャモンをつけている藤原兄弟の姉と妹。
ここまで『藤原』で固まっているなか上皇だけNoとは言えないでしょう。聖武天皇が長屋王に味方するのは不可能です。とどめを刺したようなもん。
新田部の軍総司令官の役職は『知五衛及授刀舎人事』。
(読み方はワカラン。)
宇合は勝手に軍を動かせないはずで、最終的には新田部が命令したはず。
聖武政権その2 - 藤原4兄弟
長屋王政権では、藤原不比等の息子が二人しか政権中枢に入っていませんでしたが、長屋王の蹴落としにはあと二人、不比等の息子が動いていました。
この4人の不比等の息子たちを藤原四兄弟と言います。長屋王を自殺に追い込んで皇親政治を終わらせ、藤原時代を作った人たちとして有名。
知太政官事 | 舎人親王 (とねり しんのう) | 長屋王を裏切ってそのままキープ。 |
左大臣 | ??? | |
右大臣 | ??? | |
内臣 (うちつおみ) | 藤原房前 (ふじわら ふささき) | 出世なし。 参議も兼務。 |
大納言 | 藤原武智麻呂 (ふじわら むちまろ) | 中納言から出世。 のちに右大臣にまで昇進。 |
中納言 | ??? | |
参議 | 藤原宇合 (ふじわら うまかい) | 藤原不比等の3男。 新たに参入。 長屋王討伐軍の総司令官。 |
参議 | 藤原麻呂 (ふじわら まろ) | 藤原不比等の4男。 新たに参入。 |
参議 | 橘諸兄 (たちばな の もろえ) | 葛城王(かずらき)。 臣籍降下して橘氏になる。 第30代 敏達天皇の直系子孫。 宇合・麻呂と同期。 光明子とは父違いの兄妹。 藤原四兄弟とは両親はちがうが兄弟 関係になる。 正室が光明子の妹でもある。 (父違いの兄妹婚) |
参議 | 多治比縣守 (たじひ の あがたもり) | 左大臣・多治比嶋(しま)の子。 第28代 宣化天皇の直系子孫。 かなり前に臣籍降下して多治比氏に なっていた。 宇合・麻呂と同期。 |
参議 | 鈴鹿王 (すずか の おおきみ) | 長屋王の弟。 皇族のまま参議になる。 |
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
新メンバー大量投入
長屋王のあとに左大臣を置くわけにはいかなかったらしく、政権トップは不比等の長男で大納言の武智麻呂がなります。
(敵を殺していきなり左大臣は反感を買う。)
武智麻呂は右大臣にまでなって政権トップを維持しました。そして、残りの藤原兄弟も政権中枢に入りました。藤原四子政権(ふじわら しし せいけん)の完成です。
ただ、このネーミングだと藤原氏だけをイメージしますが、バランスをとって皇親勢力も新たに入ってます。
橘諸兄や多治比縣守です。これまでの皇親勢力とはちがって、天皇の皇子ではありません。元皇族の民間人。
そして注目するところは、長屋王の弟・鈴鹿王を参議にしているところ。
藤原氏からすれば、『皇親政治を否定するんじゃなくて長屋王だけが悪かった。』という印象をつけたかったのでしょう。
でも、天武天皇の作り上げた皇親政治はここで終わりました。
1氏族、1役職のルール
皇親政治では、1つの氏族から1人しか政権メンバーに送り込めないルールがありました。特定の氏族が独占して好き勝手しないように。
藤原四兄弟でさえそれを守ってます。長男の武智麻呂が中納言・大納言・右大臣とひとつのポストで出世していくので、残りの弟たちは参議どまり。
(参議は令外官だからなのか、新人だからなのか、このルールにあてはまらない、らしい。)
房前がいちばん割りを食ってます。元明上皇から信頼され、長屋王と二人であとを託されたほどなのに出世していません。
あとで入ってきた弟たちと同じ立場になってしまいました。
(役職は武智麻呂がなるのが分かっていたので、優秀な房前を活かすために最初から令外官の内臣にしたという話もある。)
聖武天皇にとって皇親は藤原氏?
皇親政治は天皇の息子たちが中心です。このとき、天智・天武の孫世代は、長屋王以外にもたくさんいました。でも、その王たちを長屋王の次に置いていません。
聖武天皇は家族が藤原氏で固められているので、皇親政治と言ってもピンとこなかったでしょう。
と思っても不思議ではありません。長屋王たち孫世代は、聖武天皇から見ると『親父のいとこ』。藤原氏は家族。王たちは親戚のおっちゃん。
聖武天皇には、親戚のおっちゃんよりも家族の藤原氏のほうが、『正しい皇親政治』に見えていた可能性もあります。
(親戚のおっちゃんより家族を信じてもおかしくない。)
(元正上皇もGoサインを出したか?)
皇親政治はファミリー企業。
聖武天皇にとっては藤原四子政権もファミリー企業。
どっちでもよかった可能性がある。
皇子たちはどこへ?
天智・天武の孫世代は、官僚になっていた人もいました。
参議・鈴鹿王以外にも、聖武天皇の後見人だった新田部皇子の子・道祖王(ふなど の おおきみ)は、官僚として下の方から順調に出世しています。
また、後の時代には天皇になった人が二人もいます。
第47代 淳仁天皇 (じゅんにん) | 大炊王(おおい の おおきみ)。 舎人皇子(とねり の みこ)の子。 天智と天武の孫。 |
第49代 光仁天皇 (こうにん) | 白壁王(しらかべ の おおきみ) 施基皇子(しき の みこ)の子。 天智の孫。 |
どちらも親王がいない異常事態のなかで、『王』が飛び級で天皇になりました。
長屋王の変の直後は、年齢も政治経験もある王がいなかったのでしょう。もしくは、藤原氏にポストを埋められてスキがなかったか?
疫病で政権崩壊
『これで政権も盤石か?』というところで、またまた不幸が訪れます。
疫病が流行って政権中枢にいる人たちがどんどん死んでいきました。藤原四兄弟は全滅。
天然痘といわれます。
藤原房前 | 4月17日 |
多治比縣守 | 6月23日 |
藤原麻呂 | 7月13日 |
藤原武智麻呂 | 7月25日 |
藤原宇合 | 8月5日 |
この2年前に舎人皇子、新田部皇子も亡くなっていました(おそらく寿命)。政権に残ったのは橘諸兄と鈴鹿王の二人だけ。
聖武政権その3 - 橘諸兄政権
後見人の親王はいなくなるわ、政権中枢の人が次々に疫病で死ぬわで、また政権を作り直します。
知太政官事 | 鈴鹿王 | 参議から飛び級で就任。 |
左大臣 | ||
右大臣 大納言 | 橘諸兄 | 参議から飛び級で大納言に出世。 その後、右大臣に出世。 |
内臣 (うちつおみ) | 藤原房前が死んでから空席。 | |
中納言 | 藤原豊成 (ふじわら とよなり) | 藤原武智麻呂の長男。 藤原氏の新しい年長者。 ごっそり抜けた穴に参議として入 り中納言まで出世。 |
参議 | ??? |
メンツの少なさにビックリですね? 根こそぎ疫病にやられてしまいました。
とくに藤原氏は政権の人が全員死んでしまったので、新しく藤原豊成が入ったばかり。
本人は『オレが藤原のリーダーだ!』と思っていたようですが、父や叔父に比べてインパクトはありませんでした。
(まわりは一応、新しい藤原の長者という目で見ていた。ひとりを除いて。)
皇親政治とも藤原政権ともいえないなかで橘諸兄政権ははじまりました。
吉備真備と玄昉
吉備真備(きび の まきび)と玄昉(げんぼう。仏僧)は、同じ遣唐使の船で帰国した留学組です。政治家というより学者でした。
玄昉は、留学先の中国で玄宗皇帝(げんそう)に気に入られて紫衣(しえ)をもらい、帰国のときには大量の仏教の書物をもっていました。
(紫衣は位の高い僧に与えられる。)
聖武天皇の母・宮子の病気の回復に貢献して出世したと言われます。また、本場の仏教を日本にもって帰ってきたので、光明皇后・聖武天皇にも気に入られました。
真備はもっとすごく、数十年の苦労の末、右大臣にまで出世します。
メンツの少なさに困った諸兄は、二人をブレーンにして政権を動かしました。人材不足がヒドかったので下の人が頑張るしかありませんでした。
真備はこのあと、藤原仲麻呂(ふじわら なかまろ)に左遷され、また遣唐使で中国に渡り、帰ってきても中央に戻れず、あっち行ったりこっち行ったりする。
そして、仲麻呂が反乱を起こして賊軍になった後、参議になり右大臣まで出世。
有名な氏族でない学者が個人の能力で出世したのは、真備と菅原道真(すがわら の みちざね)だけ。
(左遷先が大宰府なのも同じ。)
ちなみに、2回目の帰国の船に一緒に乗っていたのが鑑真(がんじん)。
(屋久島に漂着。)
藤原広嗣の乱
藤原広嗣(ふじわら ひろつぐ)は、藤原宇合(ふじわら うまかい)の子で、太宰府(福岡)に赴任していました。
当時、朝鮮半島の新羅や中国の唐とは友好で軍備の縮小が進んでいました。広嗣は外国には力で対抗する考えをもっていて、福岡に左遷されたと思っていたようです。
しかも中央では、ランクの低い真備や玄昉が活躍しているのにイライラしていました。
橘諸兄を批判して、吉備真備と玄昉の更迭を要求、ブチ切れた広嗣は挙兵します。藤原広嗣の乱です。
聖武天皇が送り込んだ官軍に負けた広嗣は、斬首・死刑。そして、それに関係した広嗣の弟、協力した官僚、氏族なども死刑や島流しにされました。
広嗣に協力した藤原氏はすべて式家だったので、藤原四家のひとつ式家はしばらく冬の時代がつづきます。
長屋王は怨霊?
この疫病は長屋王の呪いと言われます。長屋王の弟・鈴鹿王が知太政官事になっただけでなく、無罪放免になった、ほかの長屋王の嫁や子どもも出世しました。
長屋王の残った家族を出世させることで、怨霊になった長屋王を鎮めようとしたんですね?
長屋王は日本で最初の怨霊とも言われる。ちなみに、日本三大怨霊には入っていない。
怨霊信仰は平安時代から始まったとも言われ、3人とも平安時代の人。
陰陽師(おんみょうじ)は怨霊を退治する職業で、平安時代が舞台になることが多い。
聖武政権その4 - 橘諸兄政権 末期(藤原氏の逆襲)
橘諸兄の政権も盤石ではありませんでした。藤原広嗣の乱を鎮めたりして、いよいよ皇親政治の復活かと思ったところなのに。
その原因は藤原仲麻呂(ふじわら なかまろ)です。仲麻呂は武智麻呂の子で豊成の弟。その仲麻呂が政権に新規参入しました。
知太政官事 | 鈴鹿王 | |
左大臣 | 橘諸兄 | 右大臣から出世。 名実ともに政権トップになる。 |
右大臣 | 藤原豊成 | 中納言から飛び級で出世。 |
内臣 (うちつおみ) | つづけて空席。 | |
中納言 | ??? | |
参議 | 藤原仲麻呂 | 兄・豊成がひとつのポストに座っているので、 参議からスタート。 |
参議 | 藤原真楯 (ふじわら またて) | 藤原房前の3男。 藤原北家でいちばんの出世頭。 |
このときは橘諸兄と藤原豊成のツートップ政治。そのなかで仲麻呂はただ者じゃありません。野心丸出し。
人事部長になって左遷の連発
鈴鹿王は式部卿も兼任していましたが、743年(天平15)に亡くなります。そのあと仲麻呂が参議のまま式部卿になりました。
式部省(しきぶしょう)
律令制の8つの役所のひとつ。
トップは式部卿(しきぶきょう。事務次官)。
いまの人事院、文部省みたいなもの。
位階や官職を決めたり官僚養成機関を管理したので2番目に重要な省だった。
(律令制は役職の序列(官僚組織)が核。)
式部卿は役人や太政官、皇族や氏族の位階まで一手に管理していたので、仲麻呂はそれを利用します。
諸兄が信頼していた部下たちを左遷させ、文句を言うやつをどんどん干していきました。
吉備真備と玄昉は最大のターゲットで、あえなく左遷。
すごいのは、兄・豊成が信頼していた部下たちも左遷します。仲麻呂は政権を取りに行くだけでなく、藤原氏のトップの座も狙っていました。
仲麻呂はこのやり方で、参議なのに左大臣・諸兄、右大臣・豊成の政権ツートップよりも大きな力をもつようになります。
仲麻呂の後ろ盾は光明皇后と皇太子・阿倍内親王
仲麻呂には強力な味方がいました。光明皇后と皇太子・阿倍内親王(あべ。のちの孝謙天皇。女帝)です。
光明皇后は甥っ子の政治家の中で、いちばん仲麻呂をかわいがりました。また、いとこの皇太子・阿倍内親王とも気があったようです。
皇后・皇太子は、左大臣よりも知太政官事よりも上なので、『皇后、皇太子の意向です。』と言えば、橘諸兄や藤原豊成でさえ何も言えません。
こうして自分より上の人たちを黙らせました。
聖武政権は落ち着いたことがない
聖武天皇の時代は、政権がどっしり構えたことがありません。
皇族 -> 藤原 -> 皇族 -> 藤原。テレコが過ぎます。結局、藤原仲麻呂が人事権を使って政権を混乱させるなか、聖武天皇は退位しました。
もしかすると、仲麻呂の後ろ盾になっていた皇太子・阿倍内親王に、
と思ったのかも知れません。
(本音は趣味の仏教に没頭したかったか?)