橘氏(たちばな)は、源、平、藤原の有名な氏族と並んで四姓(しせい)、源平藤橘(げんぺいとうきつ)と呼ばれます。
ほかの3姓は、教科書でも嫌というほど出てきて有名ですが、橘氏は一瞬だけ出てきて終わりなので、なんとなくそんな一族もあったな~ぐらい。
でも一瞬だけど最大風速は最大級。
天皇から姓を下賜されたのは女性
四姓は四天王みたいなものなんですが、力が強いだけではありません。天皇からもらった姓の中の四天王です。橘も天皇からもらいました。
源、平、藤原とちがうところは、天皇からもらった人が女性。宮中にお仕えする女官です。しかもただの女官ではありません。
天皇と面会できる身分で五位以上の女性に与えられる命婦(みょうぶ)でした。
(命婦は、国司の長官や、軍人の少将クラス。相当高い。)
県犬養三千代(あがた の いぬかい の みちよ)。
生まれた年や親など不明なところも多い謎のある女性。第40代 天武天皇から仕えていたそう。そこから持統・文武・元明・元正に仕え、信頼されてた元明天皇から橘の姓をもらいました。
国司(こくし)と郡司(ぐんじ)
国司
古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。
地方のすべての権限を持っていた。
京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)
送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏)
今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。
もってる力は絶大。
偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。
長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。
それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。
受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。
平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)
鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。
戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。
- 織田 上総介(かずさのすけ)信長
- 徳川 駿河守(するがのかみ)家康
織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。
織田信長が一番偉くないのが面白い。
郡司
市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。
大宝律令と養老律令
古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。
近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。
律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。
大宝律令(たいほうりつりょう)
701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。
中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。
第42代 文武天皇の時代。
(じっさいは持統上皇が行なった。)
大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。
養老律令(ようろうりつりょう)
718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。
大宝律令の改訂版。
突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。
養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)
撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。
天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。
養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。
養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良
撰定から施行まで40年もかかっている。
オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。
女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。
(大宝律令の持統上皇も女帝。)
(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)
県犬養は姓であり役職
日本の前身ヤマト王権は、地方に直轄領の屯倉(みやけ)をもっていました。その屯倉の門番を犬飼部(いぬかいべ)といいます。
(犬養はもともと犬飼と書いた。)
県犬養は、この門番を仕切る6つの氏族のひとつ。県(あがた)は、今の地方の県の語源で地方区分の名称です。
(県、郡は古墳時代からあった。)
国造と県主(くにのみやつこ。あがたぬし)
第13代 成務天皇の時代に作られたといわれる。日本ではじめて作られた地方の行政組織。(当時はヤマト王権)
国造 | 県知事。地方裁判所の最高判事。県警本部長。 |
県主 | 市長。 ヤマト周辺では王権の直轄地の長。 |
ヤマト王権から派遣する、もともと地方にいた豪族や集落の長を任命するなど、ケースバイケースで決めていた。
都道府県、市区町村のような地方の区割りもできた。
国 (くに) | 都道府県 |
県 (あがた) | 市区 ヤマト周辺は王権の直轄地 |
邑里 (むら) | 町村 |
山や川で国と県を分け、東西南北の道で集落を邑里にまとめた。もともとの豪族の領域、集落などを分断したものではない。
(ある程度はあっただろうが。)
県犬養は直轄領の門番であり地方の長官だったと思われます。
(ちなみに、6氏族はすべて『犬養』がついている。)
この犬養グループは、壬申の乱のとき大海人皇子(のちの天武天皇)につきました。その功績から県犬養氏は八色の姓(やくさのかばね)の宿禰(すくね)をもらいます。
(宿禰は臣下がもらえる姓の上から2番目。)
壬申の乱(じんしんのらん)
天智天皇の弟・大海人皇子(おおあま の みこ)と息子・大友皇子(おおとも の みこ)のだれが天皇になるのかの争い。
古代最大の内乱。
両軍ともに皇位継承権のある皇族が大将になり指揮した戦で国を2分した。日本の歴史上、ここまで国を分けた戦いはない。
大海人皇子は皇太弟、大友皇子は太政大臣だった。
天智天皇は大海人皇子を指名したが、皇子が断って吉野(和歌山)に引っ込んだことが原因。
672年(天武元)7月24日、大海人皇子は、大友皇子に反乱の罪をきせられると思い、先手を打って挙兵、勝利して第40代 天武天皇になる。
どっちが裏切ったのか、正義があるのかは意見が分かれる。
古代の資料は日本書紀・古事記からだが、天武天皇が号令をかけて作られたので、大海人皇子に都合の悪いものは書けなかったともいわれる。
(ここに書いた内容も日本書紀から。)
大友皇子は、歴代天皇に入ってなかったが、明治3年、明治天皇が『弘文天皇』という諡をおくって歴代天皇に加わった。
いまは、どっちがよかった、悪かったという評価ができるほど事実が分かっていない。
犬養毅(いぬかい つよし)は末裔か?
話はちょっとそれて、昭和の総理大臣に犬養毅がいます。5・15事件で暗殺されたことでも有名ですね?
名字が犬養なので家系図でつながってるのか? と思いがちですがおそらくちがいます。
犬養毅の祖先は、6つの氏族に代々仕えていた人々で、岡山を拠点にしていた一族。それをたどると犬飼健命(いぬかい たける の みこと)だそう。(伝承)
犬飼健は、第7代 孝霊天皇の息子・吉備津彦命(きびつ ひこ の みこと)に従った忠実な部下。吉備津彦は四道将軍のひとりです。
今でもそのゆかりがあり、岡山の吉備津神社には犬養毅の銅像が立ち、社号標の字は犬養毅の筆です。
ちなみに、吉備津彦は桃太郎のモデルという説があるので、犬養健命は桃太郎の仲間の犬のモデルだとも言われます。
(岡山県のシンボル = 桃太郎の由来でもある。)
県犬養の祖先はスケール大のカミ
話を戻して、県犬養氏の祖先は神産巣日神(カミムスビ)とされます。この神さまはスケールがちがう。
この世が天と地に分かれるとき(天地開闢(てんちかいびゃく)という)に出てきた5神のひとつで、天皇の祖先(皇祖神)・天照大神(アマテラス)が出てくるずっと、ずっと前の神さま。
なにせ世界が天と地に割れたときのカミなのでスケールがちがう。
どうみてもウソで胡散臭い話ですが、平安時代に氏族を整理した新撰姓氏録でも、神別氏族(カミを祖先に持つ氏族)に入ってます。
もちろんですけど、事実関係は確認しようがありません。事実は、平安時代の初期に神々の子孫だということを当時の天皇(嵯峨天皇)が認めたということ。
(歴史としてそういうことにした。)
- P1 天皇から姓を下賜されたのは女性
- P2 女性の成り上がりの物語
- P3 橘氏の祖は息子の橘諸兄(たちばな の もろえ)
- P4 橘氏は2代でフェードアウト
- P5 世代を超えて復活!
- P6 なぜ四大氏族に数えられるのか?