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殿上人(てんじょうびと)ってどういう人? 天上人とはちがいます。

大極殿

平安時代から明治維新が起きて律令制が完全崩壊するまで、殿上人と呼ばれる人がいました。

なんとなく高級貴族なんだろうな、くらいには思うんですがよく分からない。

殿上人は雲上人とも呼ばれます。まさしく『雲の上の人』。

ちなみに同じ『てんじょうびと』と読む天上人とはちがいます。

別格の『大臣』『納言』が付く人々

律令制では太政官が政治・行政の中枢です。今の内閣府みたいなもの。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

そこには官職に『大臣』が付く人がいます。太政大臣左大臣・右大臣・(内大臣)。

(内大臣は政治・行政から距離を取る特殊な人なのでおまけ。)

大臣の付く官職は定員1名です。これだけでもなんかすごいというのが分かる。欠員がなかったとしても最大4人しかいません。

そして、そのすぐ下にいたのが大納言中納言

『納言』の付く人々は天皇(の意向を受けた大臣)と朝廷の役人たちの間に立って命令・報告を管轄する仕事をしていました。

この大臣と納言の人々が律令制のトップの人々。別格です。

これらの人々を公卿(くぎょう)といいます。

正一位
従一位
太政大臣
正二位
従二位
左大臣
右大臣
正三位
従三位
大納言
中納言
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下
参議
公卿の官位

長年勤めれば中納言になれる参議もあって、公卿と参議が日本の最高決定機関の会議に参加できました。

(15年参議を勤めれば自動的に中納言になれた。)

参議は会議に出れるけど政治の決定権はない。

(各役所に独自に命令できない。)

この参議を含めて公卿と呼ぶこともある。

国家の最高会議は内裏の清涼殿で行われた

平安時代の幕開けの遷都した平安京は、今までとちがう作りになってました。

その代表格が天皇の公私のエリアを明確に分けたこと。

天皇のプライベート空間のことを内裏(だいり)や禁裏(きんり)といいます。

しか入れない、天皇とその家族以外の入出止、という意味がある通り、そうかんたんに人が入れるところではありません。

平安京の内裏 by Wikipedia

日本の最高会議は、その天皇のプライベート空間の中にある清涼殿(せいりょうでん)で行われました。

公卿(+参議)が別格だったのは、天皇のお家の中に無条件に出入りできたから。こんな特権はありません。

そういえば、最近亡くなった石原慎太郎氏は都知事時代、都庁にはあまり行かず、自分の家に都の幹部を呼んで昼食会をしながら都行政をしていたと批判されました。

そんな感じをイメージすると分かりやすい。

公卿は高級サロンのメンバーですね?

天皇のプライベート空間のことを御所(ごしょ)ともいう。

これが今でも残って使われている。

特別に清涼殿に出入りできた人が殿上人

この会議は高級サロンメンバーの公卿だけが参加できるとはかぎりませんでした。

その下の、太政官の幹部たちやその他の役所の幹部たちにも特別に参加が許されたから。

参議でない四位五位の人々です。

高級サロンでは下の者の意見が聞きたいと、天皇や高級サロンのメンバーに認められた人が参加できる柔軟な制度になっていました。

この人々を殿上人(てんじょうびと)といいます。

『清涼殿がることを特別に許された』。字のまんま。

一般的に、清涼殿に出入りできた殿上人・参議・公卿が高級貴族と見られています。

また、ふつうはありえないんですが、蔵人(くろうど)は六位でも殿上人になれました。

蔵人は天皇直属で作られた当時、戦争に備えた機密漏洩防止のための公安みたいな特殊なもので、定着してからは天皇の一番近くにいるSPになったから。

殿上人になれるのは各役所の長官クラス

律令制の役所の幹部は四等官というランクによって決められました。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

位階四位五位は幹部の一番トップの長官クラスです。

長官
(かみ)
次官
(すけ)
判官
(じょう)
主典
(さかん)
四等官

重要な部署では次官もその中に含まれたので殿上人になることもあったでしょうが、基本的に殿上人は長官です。

ちなみに、蔵人はここでも特殊で四等官にならってないといわれてます。緊急事態で作ったので現実に合わせたのでしょう。

清涼殿に名札が用意されるのがステータス

国政選挙が終わったあとの新人議員の初登庁で、満面の笑顔で国会の出席簿も兼ねる名札の前で記念写真を撮るのを何度も見たことがあるでしょう。

(記念撮影をしてるやつでまともな仕事をしてる人を見たことないが。)

これが高級サロンにもありました。

名札が用意されるというのが清涼殿へのフリーパス。

当時は写真や動画撮影の技術がなかったので確認のしようがないですが、テンションの上がった国会議員のような光景があったのかもしれません。

このフリーパスには期限がありました。内裏の主人、天皇が亡くなったり譲位で代替わりが起きると失効します。

譲位(じょうい)

天皇が生前に退位して次の天皇を即位させること。退位した天皇は上皇になる。

第35代 皇極天皇が乙巳の変(いっしのへん)の責任をとって行なったことから始まる。

はじめは天皇の目の前で暗殺事件がおきるというアクシデントだった。

大宝律令で制度化され天皇の終わり方の常識になる。最初に制度化された譲位をしたのは第41代 持統天皇

持統天皇から今上天皇まで80代の天皇のうち60代は譲位。

(制度化されてから2/3が譲位)

なかには亡くなっているのをかくして、譲位をしてから崩御を公表する『譲位したことにする』天皇もいた。

それだけ譲位が天皇の終わり方の『あたりまえ』だった。

譲位の理由はいろいろ。

次世代が育つ。
そのときの権力者の都合。
自分の娘を皇太子に嫁がせているので早く天皇にしたいとか。
(権力闘争に利用される)
病気。
仏教徒になりたい。
幕府に抗議するため。
天皇の意思。
理由なし。
あたりまえだと思っていた。

そして、新天皇のもとで新しいフリーパスを再交付される必要がありました。

テンション高めの国会議員みたいに、役に立たずパスの再発行がされないまま、失効して出禁になった貴族もいたでしょう。

すごくわかりやすい降格 or 失脚。

殿上人はまさしく雲の上の人

鎌倉時代になると、貴族の位階官職は家柄で決まり固定化されます。家格といいます。

家格では、公卿は別名の堂上(どうじょう)から堂上家と呼ばれ、殿上人になれる家も決まっていました。

官職すなわち仕事内容すら家柄で決まっていた。

天皇や公卿たちに直接話す必要がある仕事の人は殿上人になりやすく、位階が高くてもわざわざ上にあげなくても現場でどうにかなる仕事もあります。

殿上人になれない部署の人は悔しかったでしょうね? 別部署の同ランクの人が殿上人になるのを見るのは。

いつの時代でも出世しやすい部署はあるから。

貴族の家格(かかく)

平安時代になると特定の家が要職を占めるようになる。

(主に藤原氏と天皇の子孫の源氏

鎌倉時代になると貴族のランクが家単位で固まった。それを家格という。

1摂関家
(せっかんけ)
摂政関白太政大臣になる。
五摂家。
すべて藤原北家の流れ。
2清華家
(せいがけ)
摂政・関白はなれないが、太政大臣になる道があった。

江戸時代には最高位が左大臣に下げられる。
(江戸時代に太政大臣は摂関だけに限定。)

三条(さんじょう)
西園寺(さいおんじ)
徳大寺(とくだいじ)
久我(こが)
花山院(かざんいん)
大炊御門(おおいのみかど)
菊亭・今出川(きくてい。または、いまでがわ)
の7家。

久我家は唯一、天皇の子孫の源氏の流れ。
村上源氏

ほかはすべて摂関家に食い込めなかった藤原氏北家。

江戸時代に広幡家(ひろはた)と醍醐家(だいご)を追加した。
広幡家は第106代 正親町天皇の子孫の正親町源氏
醍醐家は五摂家のひとつ一条家の分家。
3大臣家
(だいじんけ)
清華家の分家。
摂関家・清華家はなれない参議 -> 中納言とステップアップする家。
大納言・近衛大将を飛び越えて内大臣になる道もあった。
(まれに右大臣になる人もいた。)

太政大臣になることもできたが江戸時代に廃止。

正親町三条・嵯峨(おおぎまちさんじょう。のちにさが)
-> 三条家の分家。藤原氏。

三条西(さんじょうにし)
-> 正親町三条の分家。藤原氏。

中院(なかのいん)
-> 久我の分家。村上源氏。

の3家。
4羽林家
(うりんけ)
近衛少将・中将になる。
参議 -> 中納言 -> 大納言にステップアップする家。

軍事を担当する。
江戸時代には大名家に与えられた。

藤原北家: 51家(上位や同じ羽林家からの分家)
藤原南家: 4家
村上源氏: 8家(久我の分家)
宇多源氏: 3家

数がいきなり増える。また、藤原南家、宇多源氏など、上位に見られない系統もある。
4名家
(めいけ / めいか)
序列は羽林家と同じ。
最高位も同じで大納言
(例外で左大臣になる人もいた。)

天皇のお世話係の侍従・文書作成などの弁官から出世する。
羽林家は武門に対して名家は文官。

藤原北家: 25家
桓武平氏: 3家

平安末期にイケイケだった平家がひっそりと残る。
5半家
(はんけ)
大納言になった人がいるがほとんどが参議になってない。
(上流貴族でも政権中枢に入れない)

特殊技能を使って朝廷の仕事をした。

藤原北家: 2家
清和源氏: 1家
宇多源氏: 2家
花山源氏: 1家
桓武平氏: 2家
菅原氏(すがわら): 6家
清原氏(きよはら): 3家
大中臣氏(おおなかとみ): 1家
卜部氏(うらべ): 4家
安倍氏(あべ): 2家
丹波氏(たんば): 1家
大江氏(おおえ): 1家

いろいろな氏族が入っている。
菅原道真(すがわら の みちざね)の菅原氏、マイナーな源氏など。

清原氏は天皇の子孫。源氏よりも古く、飛鳥・奈良時代の天皇から分家した。

大中臣氏は藤原氏の祖先・中臣氏の流れ。藤原氏の本家筋。
古代から宮中祭祀を仕切る仕事をしてきた。

卜部氏は卜筮(ぼくぜい)という占い専門の集団。

安倍氏も天皇の子孫。第8代 孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこ の みこと)の流れで天皇の子孫でもダントツに古い。
(神話の話で信憑性も薄い。)

安倍氏の系統・土御門家(つちみかどけ)は陰陽道を駆使した。
陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい)がいた家。

丹波氏は、第15代 応神天皇のころに来日した渡来系氏族の末裔。
坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)を出した坂上氏の分家。
医療技術(薬剤を含む)を駆使し多くの医者を出した。

大江氏は、古代からの氏族・土師氏(はじうじ)の分家と言われる。
土師氏は埴輪(はにわ)を開発した野見宿禰(のみ の すくね)から始まる土木技術を得意とした氏族。
(ちなみに、野見宿禰は日本最古の力士・相撲取りとも言われる。)

上流貴族にギリギリ入り込んだランクではあるが、氏族・得意分野のバリエーションが多く魅力的な集団。
堂上家

表の6つのカテゴリは堂上家(どうじょうけ)といい、天皇の住居兼オフィスの清涼殿(せいりょうでん)に入ることが許された貴族。

堂上家は太政官の政権中枢の役職(中納言・大納言・右大臣・左大臣)になれる貴族で公卿(くぎょう)ともいう。

堂上家に対して、昇殿を許されない貴族もいた(江戸時代には460家以上)。地下家(じげけ)という。

また、堂上家(公卿)じゃないのに昇殿が許された人を殿上人(てんじょうびと)という。

これらのカテゴリは貴族の位階で決まっていた。

正一位
従一位
正二位
従二位
正三位
従三位
堂上家無条件に清涼殿への出入りが許される。
政権中枢の人しかいない。

今でいうと、代々内閣の閣僚を務める家。
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
殿上人本来は清涼殿への出入りは許されないが、天皇が認めた者だけ許された。
実態は堂上家が認め天皇が追認。

この中には太政官以外の、国司や検非違使、六衛府の長官なども含まれる。

今でいうと、内閣府も含め各省庁の長官で天皇に謁見が許される人がいたということ。

正六位上
以下
地下家清涼殿への出入りが許されない。
位階と家柄

朝廷の官職は位階によって決まるので、自動的に家柄で役職が決まった。

位階と官職はリンクしているので2つセットで官位(かんい)という。

五摂家(ごせっけ)

平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。

鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。

  • 近衛(このえ)
  • 九条(くじょう)
  • 二条(にじょう)
  • 一条(いちじょう)
  • 鷹司(たかつかさ)

くわしくは『摂関政治とは何か?』で。

五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。

1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。

殿上人は雲客(うんかく)、雲上人(うんじょうびと)ともいいます。

今でも『』って使いますもんね?

同じ読みの天上人(てんじょうびと)はまったく意味がちがいます。こっちは天下を取った人のこと。

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