歴代天皇 - 絶好調の藤原氏と天皇たち -
第59代 宇多天皇(うだ)は皇族から民間人(源氏)になり、そこから皇族に復帰して天皇になった人です。
(歴代天皇で唯一。)
菅原道真を抜擢した天皇として有名。
民間人を経験して新しい視点を持っていたらしく、平安時代で高評価を受けている改革を行います。
古代・中世 平安時代 - 初期 -
- 皇居
平安宮
(へいあん の みや)
- 生没年
- 867年5月5日 ~ 931年7月19日
貞観9 ~ 承平元
65才
- 在位
- 887年8月26日 ~ 897年7月3日
仁和3 ~ 寛平9
11年
- 名前
- 定省
(さだみ)
- 別名
空理
金剛覚
寛平帝
- 父
第58代 光孝天皇
(こうこう)
- 母
班子女王
(はんし)第50代 桓武天皇の孫
(かんむ)
- 女御
藤原胤子
(ふじわら いんし / たねこ)藤原高藤の娘
(ふじわら たかふじ)
- 女御
藤原温子
(ふじわら おんし / よしこ)藤原基経の娘
(ふじわら もとつね)
- 妻
その他
天皇の息子が源氏になる
先代の第58代 光孝天皇は即位するとすぐに、たくさんいた自分の子どもを臣籍降下させ民間人にします。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
その子どもたちの中に定省(さだみ。のちの宇多天皇)もいました。源氏になって源定省(みなもと の さだみ)と名乗ります。
定省は、民間人になっても官僚として父・光孝天皇の側で仕えていました。そんなとき、父が皇太子を決めないまま病気で伏せってしまいます。
そこで光孝天皇は、定省の働きぶり能力を見て後継者にすることに決めます。
こんなことは前代未聞でした。民間人にした元皇子を天皇にするために戻すなんて。というか歴代天皇の中でも唯一の出来事です。
ただ、この後継者指名にひとりイラついている人がいました。当時の最大の実力者、関白・藤原基経です。
デキる定省がうっとうしい藤原基経
藤原基経(ふじわら もとつね)は、清和・陽成天皇と2代の少年天皇の関白として政治を一手に引き受けていました。光孝天皇になってもそれは同じ。
3代の天皇のもとで政治のすべてを仕切ってきた自負があります。ただ行き過ぎて調子こいてました。自分が政治をするために次の天皇は意思をもたない人にしようとしていたくらい。
源定省はその逆でした。自分の意思や考えをしっかりもっている人だったので。
(だから光孝天皇はウルトラCをかましてでも後継者に指名した。)
しかし基経は定省の皇族復帰に反対していません。反対できませんでした。
藤原基経は、たくさんいる親王の中から光孝天皇を選んで即位させた。
『次の天皇もオレが選ぶ!』と思っても不思議ではない。
清和天皇の息子は天皇にできない
父・光孝天皇はもともと、自分のあとは清和天皇の息子に皇位を譲るつもりでした。そのために自分の子どもを大量リストラしたくらいです。
清和天皇は光孝天皇の先々代だが甥っ子。3代昔に戻った皇統をもとに戻そうとした。
(自分は傍流だと思っていたので嫡流に戻そうとした。)
でも、関白・藤原基経が清和天皇の子どもを天皇にしたくありませんでした。
ひとつは、陽成天皇で失敗したので同じ過ちを犯したくなかったこと。そしてもうひとつは、清和天皇の妻でいちばん影響力をもっていた藤原高子(ふじわら たかいこ)が大嫌いだったこと。
基経と高子は両親が同じ兄妹ですが仲は最悪でした。どっちが天皇に影響力をもつか後見人の権力闘争をしていたほどです。
光孝天皇はもとの願い通り、清和天皇の皇子を指名しようとしたのでしょう。それに基経が難色を示したと思われます。
そのあと指名されたのが定省ではないか? 基経は最初にNoと言った手前、2回もNoは言えなかったのでは?
いきなり衝突。阿衡事件
887年3月、源定省は姓をとって定省親王に戻りました。次の日に皇太子になります。そして同じ日に父・光孝天皇が亡くなりました。
藤原基経が反対できなかったのは、すでに光孝天皇の最後が見えていたのもあったのかもしれません。
皇太子・定省はそのまま称制をしき11月に即位します。宇多天皇です。21才でした。
宇多天皇は即位するとすぐ、基経をひきつづき関白にするように詔書を出します。
上奏(じょうそう)と勅(ちょく)・詔(みことのり)
上奏
政治の最高責任者から天皇に行なう報告。天皇への意見や相談。
勅・詔
天皇の命令。勅書(ちょくしょ)・詔書(しょうしょ)は命令書。詔勅(しょうちょく)ともいう。
勅と詔はケースバイケースで使い分けているが、ルールがよく分からないので同じものと思っていい。
1945年の玉音放送は、詔書。
天皇の命令を強調すると勅令(ちょくれい)、意見を強調すると勅語(ちょくご)という。
明治の教育勅語は天皇の意見。当時、天皇が国民に強制するものではない、勅令ではダメだということで勅語になった。
勅語は意見なので国民が絶対に聞かないといけないものではない。
が、これが基経と決定的に対立しました。
(なんで? 関白にするって言ってるのに。)
天皇の詔書にケチをつける基経に媚びた学者
藤原基経を関白にする詔書には、
阿衡(あこう)に任ず。
という文言が入っていました。阿衡は摂政・関白の別の呼び方で、『基経を関白に任命する』という意味です。
(何がおかしい? ふつうのことでしょ?)
しかし、これにケチをつける学者が出てきます。藤原佐世(ふじわら すけよ)。
それを聞いた基経は『オレはいらないってことね?』とふてくされて無断欠勤するようになりました。
基経は気に入らないことがあるとすぐ引きこもります。そういえば、第57代 陽成天皇が宮中殺人事件を起こしたときもそうでした。
(本当に優秀だったんだろうか? 権力にあぐらをかいていただけでは?)
学者同士のしょうもないケンカ
宇多天皇に命じれられて詔書を書いたのは学者の橘広相(たちばな の ひろみ)。
広相の娘・義子(よしこ)は宇多天皇に嫁いでいました。宇多天皇も広相を頼りにしています。この事件はそれにジェラシーをもった藤原佐世のイチャモンでした。
(広相の失脚を狙った。)
中級貴族同士の争いで、政権トップの藤原基経の出社拒否にまでなってしまう、なんともレベルの低い事件です。
(一応、広相と佐世は学者会のトップを争う双璧だったが。)
橘広相は橘諸兄(たちばな の もろえ。元皇族)の子孫で、以前は左大臣まで出すほどの家だったが、すでに没落していた。
(藤原氏との権力闘争に敗れた。)
また、藤原佐世は藤原式家の流れで、式家もかつては皇后を出すくらいの藤原氏のトップの家だったが、同じく没落していた。
(藤原薬子の変で自滅。)
かつてはトップの家だった没落貴族同士の争い。また、橘氏と藤原式家は長年の因縁があった。
くわしくはこちら。
子どもじみた藤原基経に負ける宇多天皇
阿衡事件が起きた次の年、宇多天皇は『「阿衡に任ず」は自分の思ってることとちがった』といって取り下げます。
自分の考えをしっかりもった宇多天皇だけに、レベルの低い幼稚なオッサンの争いに合わせるのはやるせなかったでしょう。
3年後の891年1月、関白・太政大臣・藤原基経が亡くなります。いつの時代も権力にすがるジジイほど厄介なものはありません。これぞ老害。
3代の天皇の関白・太政大臣をつとめた藤原基経のみっともない最後です。
もちろん宇多天皇はそんな基経が嫌いでした。25才の聡明な青年は『とっとと失せろジジイ』くらいは思ってたでしょう。
摂関政治の一時停止。天皇親政の開始。
藤原基経が亡くなっても宇多天皇は関白を置きませんでした。自分の力で政治をはじめたかったから。
(基経の後継者、藤原時平(ふじわら ときひら。21才。)が若すぎて置けなかったこともある。)
そこで大抜擢されたのが菅原道真(すがわら の みちざね)。全国にある天満宮に祀られている学問の神さま(天神さま)として有名ですね?
このとき道真47才。24才の宇多天皇とは親子ほど年齢がはなれていました。宇多天皇と道真のコンビはどんどん政策を進めていきます。
皇太子を二人だけで決める
889年、皇太子を敦仁親王(あつぎみ。後の醍醐天皇)にします。
皇太子を決めるとき、これまでは政権にいるたくさんの臣下たちに相談することが多かったのですが、宇多天皇は菅原道真だけに相談して決めたそう。
それだけ宇多天皇は道真を信頼していました。
(皇太子を決める以上の政治の決定事項はない。)
遣唐使廃止
894年、宇多天皇は菅原道真を遣唐使に任命しますが、道真は政情不安があるのでやめたほうがいいと進言しました。
廃止するとは言ってませんが、それから一度も遣唐使は派遣されていません。
(なし崩し的に廃止。)
当時の中国・唐は滅亡寸前で、日本が唐から学ぶことは無くなっていました。
それを言う道真にしろ、本当に国交をやめてしまう宇多天皇もどうかしてます。それだけ国家・日本に自信をもっていたのでしょう。
『一流国の力を借りなくても自分たちでやっていける』というエネルギーに満ち溢れています。
(と言っても貿易など経済的な交流はあった。)
寛平の治(かんぴょうのち)
宇多天皇と菅原道真のコンビは地方にも力を入れました。インテリの学者や医者を地方に派遣します。
(地方の学力向上と医療の整備。)
また、防衛の強化にもつとめました。896年には、農民の荒れた土地や使われていない土地の占有、五位以上の位をもつ人の私営田を禁止しました。
位の高い人は不動産経営に乗り出すなってことですね?
墾田永年私財法ができてから、力のある人だけがどんどん私有地を増やしていたのが行き過ぎていたのでしょう。
こうして宇多天皇はいろいろな政策を実行しました。それを『寛平の治』と言います。
優秀な人材の登用
宇多天皇は藤原北家に頼らない政治を行いました。平安時代では数少ない珍しい天皇です。藤原氏でない優秀な人をどんどん活用しました。
源能有 (みなもと の よしあり) | 第55代 文徳天皇の皇子。 (文徳源氏) 宇多天皇のいとこ。 |
平季長 (たいら の すえなが) | 第50代 桓武天皇の孫。 (桓武平氏) |
紀長谷雄 (き の はせお) | 紀氏。 紀貫之(き の つらゆき)など、中流貴族 だが優秀な文化人が多い。 |
文化が花開く
宇多天皇は優秀な上に勉強熱心でした。紀長谷雄を先生にして漢詩を読んだりしています。また、菅原道真を編集長にして『類聚国史』(るいじゅうこくし)も作りました。
類聚国史は、国の重要な歴史書『六国史』(りっこくし)を項目別・年代順に整理した歴史書。
六国史は古代から平安初期にかけての日本の正史。
日本書紀
続日本紀
日本後紀
続日本後紀
日本文徳天皇実録
日本三代実録
古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)
第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。
それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。
天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。
そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。
帝紀と旧辞
帝紀 (ていき) | 天皇の系譜、功績をまとめたもの。 |
旧辞 (きゅうじ) | 各氏族の系譜をまとめたもの。 氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。 日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。 |
帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。
当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。
帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。
古事記(こじき。ふことふみ)
帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。
712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。
20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。
(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)
日本書紀(にほんしょき)
完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。
中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。
天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。
古事記 | 倭語を漢字にあてた。 『夜露死苦』(よろしく)みたいに。 国内向け。 国家統一に利用するためか? |
日本書紀 | 漢字で書かれた。 (中国人でも読める。) 国外向け。 世界に日本をアピールするために利用か? |
現存する最古の漢和辞典『新撰字鏡』(しんせんじきょう)が僧・昌住(しょうじゅう)によって作られたのもこのころです。
諡・追号の意味が変わる
宇多天皇から、天皇の諡(おくりな)・追号(ついごう)のつけ方が変わります。
それまでは、天皇の生前の功績をたたえて立派な名前がつけられていましたが、宇多天皇は上皇になって住んでいた場所。
(宇多はいまの京都市右京区。)
このように、住んでいた場所などゆかりのある所をそのまま追号にするのがスタンダードになります。
(江戸時代の中期まで続いた。第119代 光格天皇のときに元に戻る。)
生前に自分で決める人もいた(第109代 明正天皇)のですべてではありませんが、『徳のある名前じゃないといけない』にこだわらなくなりました。
自由な追号をつけるようになったということですね? ゆかりのある場所のほうが生前のイメージが残りやすく使いやすかったのでしょう。
(上皇になると住んでいる場所を使った〇〇院と呼ばれるので。)
宇多天皇から徳のある名前をつける必要がなくなった。
そこまでしなくても天皇の権威が出来上がるようになっていた。
史上初の法皇になる
897年、宇多天皇は31才で退位して上皇になります。このとき皇太子に送ったのが『寛平御遺誡』(かんぴょう の ごゆいかい)。
次の醍醐天皇が即位したとき13才だったので、父から新天皇に送った天皇の教科書です。
『自分の失敗はいさぎよく認めろ!』など、政治や人事の具体的な手法から心構えまで天皇の哲学書と言ってもいいものだったらしい。
この天皇の教科書はかたちを変えて代々受け継がれていきます。
寛平御遺誡は今でも残っているが、書物としては欠けているところが多い。
しかし、他の多くの文献で引用されているので、大事にされていたのが分かる。
何の因果か、自分が老害にされてしまう
宇多上皇は少年天皇の後見人になって引き続き政治を見ました。菅原道真も健在。
しかし、まだまだ少年の醍醐天皇と27才の左大臣・藤原時平(ふじわら ときひら)は、道真の老人の忠告がうっとうしくなっていました。
901年、二人の若者は道真を失脚させ大宰府に左遷します。道真の失脚を止めようとして失敗した宇多上皇の影響力は一気に下がりました。2年後に出家。
ここではじめて出家した上皇のことを『法皇』と名乗ります。これまでも上皇が出家するのはあたり前でしたが『太上法皇』と呼ばれるのは宇多法皇から。
931年、65才で亡くなります。
天皇経験者が住職になる
宇多上皇は歴代天皇ではじめて寺の住職になります。仁和寺は父の光孝天皇が造りはじめ、宇多天皇の時代に完成しました。
宇多法皇以降も、歴代住職は出家した親王宣下を受けた皇族がつとめます。それだけ天皇家と関係の深い由緒ある寺。
親王宣下(しんのうせんげ)
天皇から『親王になりなさい』と宣下を受けること。宣下は天皇からの命令。
正式に天皇の皇位継承権をもつことを意味する。宣下を受けた人は、親王、内親王を名乗る。
男性が親王。女性が内親王。
天皇の子ども・孫など直系子孫が宣下を受けた。
天皇の子孫でも宣下を受けてない人は王になる。民間人になると王の称号もなくなる。
はじめて親王宣下をしたのは奈良時代の第47代 淳仁天皇。
親王宣下のないころ、飛鳥・奈良時代の皇族は、天皇の子どもが親王(内親王)、孫から王(女王)だった。
大宝律令の中で制度化したと思われる。
(正確な決まりはない。)
親王宣下は皇族の生まれた立ち位置で自然に決まっていた制度を指名制に変えた。
宮家(世襲親王家)は、本来なら王や民間人になるような人だったが、宣下を受けて親王を名乗った。
明治以降、皇室典範で親王宣下のルールは決められている。
天皇の孫までは親王(内親王)、それ以上血統が離れると王(女王)。
範囲が子から孫へ広がったのは、昔は天皇の子どもが多かったのと、奈良時代は皇族が政権の役職・官僚のトップを務める皇親政治で、そのランクにも使われたので、範囲が広すぎると権力闘争で安定しないから。
第52代 嵯峨天皇が空海を大事にしたことから、天皇家の仏教は真言宗です。
仁和寺も真言宗。真言宗御室派(しんごんしゅう おむろは)の総本山になっています。宗派を見ても天皇と関係が深いことが分かりますね?
御室派の開祖は寛平法皇(かんぴょうほうおう)、宇多法皇のことです。
仁和寺は天皇の歴史でよく出てくる寺になる。京の都の混乱で天皇・上皇の避難先になったり。
天皇になった人が少年の頃に入れられていた寺になったり。
仁和寺は『親王が住職だから、そりゃ天皇や上皇はよく行くよねー』になるので覚えやすい。
ちなみに仁和(にんな)は888年に寺が完成したときの年号。数字も覚えやすい。
個人的には、はじめて天皇経験者が住職になったから法皇という呼び方が出たんじゃないかと思う。
それまでも出家して仏教徒になった上皇はたくさんいた。
(ただ法皇とは呼ばれない。)
デキる人ほど老害になる?
宇多天皇を見ていると、『老害』ではじまり『老害』で終わったように見えます。
即位したときは、絶対的な権力者・藤原基経の子どもじみた行動に悩まされました。それがきっかけで関白を置かず、藤原北家でない人たちで政治をしたくらいです。
しかし今度は、菅原道真が次世代の醍醐天皇と左大臣・藤原時平に老害あつかいされました。
(藤原時平の摂関政治の復権の野望があっただろうが。)
天皇の世代交代と政権を担う藤原北家の世代交代がちょうど重なったので、老害が目立ったのかも知れません。