保元の乱(ほうげんのらん)は、鳥羽上皇と崇徳上皇の親子ゲンカからはじまり、それが後白河天皇 vs 崇徳上皇の兄弟ゲンカになって大爆発します。
この戦は、皇族・貴族・武士、政治にかかわるすべての勢力が参加しました。ここまで日本を二分した例はほかにありません。
中世 平安時代 - 末期 -
保元の乱は天皇 vs 上皇で、それに続いた貴族の権力争いが中心です。でもじっさいに戦ったのはそれぞれに味方した武士でした。
武士はこれまで朝廷の警備員ぐらいの人たちでしたが、この乱をきっかけに政治勢力に飛躍します。
保元の乱 前夜
修復できない親子の関係
保元の乱には鳥羽上皇と崇徳上皇の関係が欠かせません。鳥羽上皇と崇徳上皇は、どうしようもないくらい仲の悪い親子でした。
太上天皇(だいじょうてんのう)
退位した天皇のこと。
上皇(じょうこう)
太上天皇の短縮した言い方。
太上法皇(だいじょうほうおう)
出家した上皇のこと。たんに法皇という。
院(いん)
上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。
くわしくは『太上天皇とは何か?』へ
これには崇徳上皇の出生に秘密があります。鳥羽上皇は、崇徳上皇が自分の息子ではなく自分のお祖父さん(白河上皇)の子だと思っていました。
このショッキングなスキャンダルは、鳥羽上皇の人生のすべてに影響するくらいのインパクトです。
近衛天皇の死が導火線に着火した
結果的に天皇の皇位は
で受け継がれますが、近衛天皇の早死で皇位継承で『鳥羽か?崇徳か?』の争いが起きます。
崇徳上皇は自分が再び天皇になるか自分の息子をと希望します。鳥羽上皇はそれだけはいやがっていました。
崇徳上皇は生まれたときからの境遇に、とうとう爆発寸前まできてしまいます。
鳥羽上皇も大乱を予想して、自分の御所を警護していた平氏と源氏が中心の有力武士に備えるよう命じます。
着火点1
鳥羽法皇 vs 崇徳上皇
有力貴族が導火線に油を塗る
鳥羽と崇徳の爆発寸前の対立に関白と左大臣の対立が加わります。
左大臣・藤原頼長(ふじわら よりなが)は、近衛天皇に養女を入内させて皇后に昇格させます。
頼長の兄の関白・藤原忠通(ふじわら ただみち)も、つづけて近衛天皇に養女を入内させて皇后に昇格させました。
この兄弟は異母兄弟ですが政治的に対立していました。この二人が、それぞれ鳥羽上皇、崇徳上皇に加担して、皇族の皇位継承対立から政治権力の対立へと膨張します。
着火点1
鳥羽法皇 vs 崇徳上皇
着火点2
藤原頼長(左大臣)vs 藤原忠通(関白)
鳥羽上皇の死で火ぶたが切られようとしていた
鳥羽上皇は崇徳上皇の希望をつぶして即位した後白河天皇にあとを託します。自分の警護をしていた武士たちにも、自分の亡くなった後は後白河天皇を守るように命じていました。
ここで鳥羽上皇が亡くなります。そのときを崇徳上皇はまっていました。
乱の勃発
後白河天皇即位の翌年(1156年)、鳥羽法皇が亡くなった翌日、崇徳上皇がクーデターを起こします。
保元の乱
保元の乱の対立構図をかんたんに書きました。皇室、貴族、武士の政治勢力のすべてが、家族でそれぞれ分かれて戦っています。
藤原兄弟は二人とも先代・近衛天皇の義理の父です。ここで注目するところは有力武士が参戦していることでしょう。
源為義(みなもとの ためよし)は、頼朝(よりとも)・義経(よしつね)、木曽義仲(きそ よしなか)のお祖父さんです。源義朝(みなもとの よしとも)は、頼朝・義経のお父さんです。頼朝は父と一緒に天皇派として参戦します。
武家政治の主人公になる平清盛(たいらの きよもり)、源義朝・頼朝は天皇派でした。このときは源平合戦で戦うことになる両者が仲間だったんですね?
結果はあっさり終了
鳥羽法皇・後白河天皇は大乱を予想して準備していたので、崇徳上皇はあっさり返り討ちにあってしまいます。
結果は天皇派の圧勝で崇徳上皇は讃岐へ流されました。
これが本当の ”天下分け目”
天下分け目の関ケ原
という言葉がありますが、ほんとうは天下分け目ではありません。
関ケ原は武士同士の争いです。勝ったほうが政治権力を取るのでそういうのでしょうが、力が弱かったとはいえ政治権力に関係する貴族・皇族は関係ありません。
皇族・貴族・武士すべてが戦に参戦した保元の乱こそほんとうの『天下分け目』でしょう。
結局一番得をしたのは武家勢力
この乱をきっかけに後白河天皇は武士の力を頼るようになります。後三条天皇の改革で摂関家の摂関政治は急激に力を落としたのですが、さらに力を落とすことなりました。
結局、一番得をしたのは武家勢力でしょう。これから武家勢力が政治の中心になっていきます。保元の乱を境にして平安時代は急激に変わっていく。