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国軍を作ろうとしない『平和ボケ』の伝統
平安末期になると中央政府の争いに武士が参加し始めます。保元の乱や平治の乱は貴族の代理戦争を武士が担当しました。
そこで勝ち抜いた武士の平清盛(たいら の きよもり)は太政大臣までなって武士が貴族になります。もともと天皇の子孫・貴族なので世代を超えた里帰り、リベンジですね?
そのあと、武士が貴族になるのは失敗だったと気づいた源頼朝(みなもと の よりとも)は、朝廷と距離を取った武家政権を作りました。
鎌倉幕府です。つづいて室町、江戸と幕府が出てきます。そのボスが征夷大将軍。
ここまで見てきて気づいたでしょうか?
日本の国家システムでは軍事が大事にされていません。幕府の長でさえ臨時総司令官の征夷大将軍。
しつこいようですが、征夷大将軍は正式な官位ではなく令外官。
律令制では軍事的なものはあとで追加されたものが多い。
江戸幕府の徳川氏は、幕府の将軍や御三家の当主などが左大臣・右大臣・大納言・中納言などを任命されていた。
(朝廷の政治運営機能は江戸に移されていた。)
政権をもつ正当性は貴族としての徳川氏。征夷大将軍だから政権をもっていたわけではない。
国軍の復活は明治から
正式に政治のシステムに国軍が復活したのは明治に入ってからです。そして1945年に敗戦してからは、また軍隊をもたなくなりました。
今の自衛隊は憲法に違反してるし、もってる軍事力に対してそれなりの立場を与えていません。
日本の歴史からすれば、それが日本人の軍事に対する考え方です。
時代 | 国軍の 有無 | |
---|---|---|
古代 古墳 | ○ | 天皇が国軍の総司令官。 |
古代 飛鳥・奈良 | ✕ | 宮中警護の近衛府と戦地の最前線に鎮守 府を置く。 |
平安 | ✕ | 国軍は国司の寄せ集めの臨時集団。 国軍の総司令官・征夷大将軍も臨時職。 |
鎌倉 室町 江戸 | ✕ | 臨時総司令官・征夷大将軍を継続。 |
明治 大正 昭和 | ○ | 国軍の復活。 1000年以上ぶり。 |
昭和 平成 令和 | ✕ | 1945年以降、正式には国軍がない。 中途半端な立場で強大な軍事力をもつ。 (自衛隊) |
日本の政治権力を一番長い間もっていた武士は、自分の得意ジャンルの軍事が正式に認められていなかったというのは注目すべきポイントです。
『日本 = サムライの国』と世界からは見られているのに、当の日本はサムライを正式に認めてなかったって、どういうこと???
なんでそこまで軍事を認めたがらないのか、よく分かりません。若干、穢れ(けがれ)として見られてるんじゃないか? と感じますが。
律令政治は法治と文民統制
なんで軍人を認めてこなかったのか?
よくわからないと言いましたが、ひとつ理由を挙げるとすれば日本の政治はベースに律令制度があったから。
律令政治は文民統制です。法治国家と言ってもいい。『暴力で国を動かすなんざ、だっせー。』という制度です。
歴史を振り返るとモロに出ています。
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
律令政治が始まると天皇が出陣しなくなる
天皇が戦地の総司令官をしなくなったのは律令政治が始まったから。最後の出撃をした斉明天皇の二人の息子が律令政治の走りです。
二人は天皇になる前に大戦争を経験した軍人でもあるのに、天皇になると司令官として戦争をしていません。
(権力闘争は激しかったが。)
桓武天皇の政治は律令政治の復興
平安時代の軍政改革で地方の軍しかもたなかった桓武天皇は、律令政治の復活のために改革した人です。
やっぱり軍がお嫌い。
自分のそばから軍事を遠くの方へ追いやっている。
律令制を強化したらそうなっちゃうよね、という典型。
軍事担当はノンキャリア官僚
平安時代の貴族は出世できないアホが軍事担当の役人になると思っていました。上位のインテリ層がキャリア官僚で軍事担当はノンキャリア。
国司になるなんて左遷だと見られることも。
あの菅原道真(すがわら の みちざね)も一時国司に赴任しますが相当ショックだったよう。『なんでオレがノンキャリアにならんといかんの?』ぐらいに思ってました。
この考えは日本だけではありません。官僚国家だった昔の中国や韓国も同じ。
だから中国は『眠れる獅子』と恐れられたのにアヘン戦争であっさりイギリスに負けたし、韓国も明治維新を経験して軍事の大切さを知った日本やロシアに抑え込まれました。
じつは中国がレベルの高い軍事力をもっていたのは、統一・秦(しん)や三国志の時代など紀元前~紀元後3世紀ぐらいまで。
官僚国家になると、軍事が薄いところに外部からの侵略者がやってきて皇帝になり、国ごと乗っ取られる易姓革命(えきせいかくめい)の繰り返し。
(侵略者もやがて官僚システムに吸収されて軍事をおろそかにしていく。)
隋(ずい)・唐(とう)・元(げん)・清(しん)など、日本に馴染みのある国は漢人ではなく、外からやってきた侵略者が興した国。
4世紀以降の中国大陸全土を統一した国家で、漢人の国は明(みん)だけという話もある。
武士は軍人がバイトで本職は高級官僚
鎌倉幕府から軍人の武士が政治のトップになりましたが、征夷大将軍は臨時職のまま。
彼らが政治のトップになれたのは、左大臣・右大臣、それに対応する位階(従二位や正二位など)をもっていたからで、軍人が律令政治の官僚のトップも兼任していたから。
学校で習う歴史では征夷大将軍になったからトップになったイメージがありますが、それはたんに左大臣だった、右大臣だったというのを教えられていないだけ。
学校では教えない武士の役職に、日本の権力統治の正当性の根拠があります。
極論ですが、徳川氏のトップが征夷大将軍じゃなくても左大臣さえやっとけばそれで良かったってこと。
そもそも武士じゃなかった鎌倉幕府。一国司の室町幕府。
幕府の長が朝廷の長まで務めたのは江戸幕府だけです。
鎌倉幕府で将軍が武士だったのは9人中3人だけ。初代将軍の源頼朝(みなもと の よりとも)の息子の代で終わっています。孫にすら継承できてない。
室町幕府は3代 将軍・足利義満(あしかが よしみつ)が太政大臣まで上り詰めますが、あとが続きませんでした。
将軍の朝廷の役職は国司がスタンダードになっていきます。だから将軍は守護大名より立場が下になったり殺される人も多く戦乱が耐えなかった。
室町幕府の将軍は、相模守(さがみ。静岡)を継承していくようになる。
しかも、相模守と決まっているわけでもなく、武蔵守(むさし。神奈川・埼玉・群馬)など、他の国の国司の長になる人もいて、安定しなかった。
守護大名も朝廷の役職は国司だったので、同じ国司の将軍は同僚でしかない。
これで命令に従うわけがない。
戦国時代はすでに室町時代のもっと前の時期に始まっていた。
徳川家康のすごいところは過去の幕府の失敗をことごとく直してるところ。朝廷の政権トップの役職をごっそり江戸へ移します。
左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議は朝廷の中枢の中枢。これを将軍を筆頭に徳川家で占めました。
江戸幕府の安定は将軍の力じゃありません。貴族として伝統の政権を受け継いでいたから。
さらにややこしい鎌倉幕府
鎌倉幕府は事実上、国司同士の闘争に巻き込まれていた室町幕府よりももっと複雑です。
3代で終わったあとの将軍は藤原氏や天皇の息子など朝廷の貴族がなりお飾りになります。代わりに権力をもったのが北条氏。
北条氏は将軍の代わりに政治をする執権職を作りました。
ややこしいのはここからで、その執権もお飾りにして北条氏の本家の得宗家が権力を握るようになります。
将軍 -> 執権 -> 得宗と権力が移っていく。しかも前の権力の役職はそのままにし適当に操り人形を置いて。
北条氏では、No.1が相模守、No.2が武蔵守という序列があったみたいですが、得宗や執権のトップには陸奥守など他の国司を務めた人がいます。
(室町幕府の将軍家に相模守や武蔵守が多いのは鎌倉のルールを継承していたから。)
執権は正式な幕府の役職で、得宗は北条氏の本家の呼び名に過ぎない。
最初は得宗が執権職を務めていたが、得宗がほかの北条氏を執権にして裏から操るようになった。
得宗が執権から幕府の権力を取ったのは、幕府が一氏族の私的機関になったことを意味する。
これが室町幕府成立の遠因になる。室町幕府を興す足利氏はもともと鎌倉幕府の筆頭御家人のひとつ。
幕府の役職でもない得宗が幕府のリーダー面するのにイライラしていた。
敗戦したら先祖返り
日本の近現代史を見るとき、とくに大正から昭和初期にかけて、『あの頃は文民統制ができてなかったから戦線拡大した』という言葉を聞いたことがあるでしょう。
あの時代、明治・大正・昭和初期までの80年間は、世界を舞台にした戦国時代のど真ん中です。戦国時代なのに『文民統制で軍事はおまけ』なんて甘っちょろいこと言ってられません。
あのころは人間の長い歴史からすれば、定期的にやってくる戦乱の時代でした。
だから日本も古代のように、天皇を総司令官(大元帥(だいげんすい))にしたし軍と政権が一体化した。
文民統制が復活したのは、戦国の世で大惨敗をしてしまった1945年以降。
個人的には、アメリカから与えられてありたがるのはどうかと思います。だって日本の歴史はずっと、法治国家で文民統制がベースにあったから。
日本は強大な軍事力をもっているのに正式に認めないのが伝統。
- P1 武士の祖先・豪族(ごうぞく)
- P2 国軍の放棄。軍事の地方分権
- P3 平氏・源氏の誕生
- P4 武士の誕生
- P5 武士と豪族のちがい
- P6 国軍を作ろうとしない『平和ボケ』の伝統