歴代天皇 - 政治闘争で殺しあうアグレッシブな天皇たち -
第40代 天武天皇(てんむ)は、律令国家建設の大号令をかけて国づくりをおしすすめます。
日本の国のかたちをつくるという意味では明治維新に匹敵するかそれ以上かも。日本のもうひとつの近代化の父と言ってもいい。
ただ、多くの大号令をかけながら完成する前に亡くなってしまいましたが...
古代 飛鳥時代
- 皇居
飛鳥浄御原宮
(あすかのきよみはらのみや)
- 生没年
- 631年? ~ 686年9月9日
舒明3? ~ 朱鳥元
56?才
- 在位
- 673年2月27日 ~ 686年9月9日
天武天皇2 ~ 朱鳥元
14年
- 名前
- 大海人
(おおあま)
- 別名
天渟中原瀛真人尊
(あま の ぬなはら の まひと の みこと)
- 父
第35代 舒明天皇
(じょめい)
- 母
第37代 斉明天皇
(さいめい)第35代 皇極天皇と同一人物
(こうぎょく)
- 皇后
鸕野讚良皇女
(うの の さらら の ひめみこ)第38代 天智天皇の娘
(てんじ)第41代 持統天皇
(じとう)
天武政権は天智・弘文の継承、発展
天武天皇は、天智・弘文天皇の近江朝の都から飛鳥の浄御原宮にうつしましたが、まったく新しい政権を目指したわけではありません。
先代で兄・天智天皇が大化の改新でおこなった改革のつづきをしながら、それを律令国家建設まで発展させます。
大化の改新ですすめた、天皇・皇族中心の中央集権国家の建設もそのまま受けつぎました。
(そもそも大化の改新は律令国家を作るための改革。)
天智天皇が地ならしをしたところに、天武天皇が本丸を建てようとしたんですね?
(さらに言えば、律令国家を作ると言い出したのは、もっと前の聖徳太子の時代から。)
律令(りつりょう)
律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。
7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。
日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。
律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。
息子だらけの政権
天智政権とのちがいは、政権中枢のメンバーに天武天皇の息子や甥っ子がたくさん入っていることです。
(その下に有力な豪族がいる。)
政権にからむ皇子がたくさんいすぎてワケが分かりません。
天智天皇の皇子で成人したのは、弘文天皇、川島、施基の3皇子だけ。しかも3人とも母の身分が低い。
それに比べ天武天皇の皇子は圧倒的人数。しかも、天智天皇の孫が6人もいる。
(記録に残っているだけでも。)
天武政権メンバー(皇親政治 1期)
天武天皇の政権は、吉野の誓いに参加したメンバーが中心です。
吉野の誓い(盟約)
679年(天武8年)、吉野(奈良)へ旅行に行ったときに皇族同士の争いをしない誓いを参加メンバーで行なった。
天武天皇 | |
鸕野讃良皇后 (うの の さらら) | のちの持統天皇。 天智天皇の次女。 天武天皇の皇后。 |
草壁皇子 (くさかべ の みこ) | 天武天皇の次男。 母は持統天皇。 |
大津皇子 (おおつ の みこ) | 天武天皇の3男。 母は大田皇女。 (天智天皇の長女) (天武天皇の正妻) (天武天皇の即位前に亡くなったので 皇后になれなかった。) |
高市皇子 (たけち の みこ) | 天武天皇の長男。 母の身分は低い。 (嬪(ひん)。妻ランク一番下。) |
忍壁皇子 (おさかべ の みこ) | 天武天皇の4男。 母の身分は低い。 (宮廷の女官) |
川島皇子 (かわしま の みこ) | 天智天皇の次男。 弘文天皇の弟。 母の身分は低い。 (宮廷の女官) |
施基皇子 (しき の みこ) | 天智天皇の7男。 弘文天皇の弟。 母は妃ではない。 (夫人。愛人みたいなもの。妻ランク 下から2番目。) 皇子の子孫がいまの天皇まで続く。 |
このメンバーが天武政権の中心になっていく。皇親政治(こうしんせいじ)ともいう。
人となりを補足します。また、表の順番は皇子のランク(天皇になりそうな順)です。
鸕野讃良皇后 (うの の さらら) | ただの天皇の正妻ではない。 壬申の乱から天武天皇の参謀だった。 じっさい天武天皇が亡くなると、草壁、大津以 外のメンバーが残るが、即位して持統天皇にな る。 |
草壁皇子 (くさかべ の みこ) | 皇后の息子で摂政・皇太子になる。 しかし、父・天武天皇よりも早く亡くなった。 |
大津皇子 (おおつ の みこ) | 草壁の1才ちがいの弟。 母が早くに亡くならければ皇后になっていたは ずで、皇太子・摂政になっていたはずの人。 人望・能力もハイスペックだったらしい。 持統天皇のとき謀反の疑いで殺される。 |
高市皇子 (たけち の みこ) | じつは天武天皇の長男。 壬申の乱にも参加した。 母の妻ランクが低いため3番手に甘んじる。 よほど優秀だったのか、次の持統政権では 太政大臣になって事実上のトップになる。 このときの太政大臣は皇太子に匹敵する。 |
忍壁皇子 (おさかべ の みこ) | 天武天皇の息子だが、母の妻ランクが低いため 皇位継承から外れたと考えられる。 政治家としては優秀だったようで、文武天皇の 時代に知太政官事になった。 『帝紀』復元の編集長。 (結局、帝紀は復元せず『日本書紀』の基本資 料に使われたと言われる。『古事記』もか?) 大宝律令制定の責任者。 |
川島皇子 (かわしま の みこ) | 兄・大友皇子(弘文天皇)と叔父・大海人皇子 (天武天皇)の争いで叔父の側につく。 母の身分が低いのが同じなのに、兄・大友が太 政大臣になったのにジェラシー? 壬申の乱の敵の大将の弟だからか? たんに天武 の息子が多いからか? 皇位継承ランクは低い。 『帝紀』復元の編集長。 大津の謀反を密告した。 自分に火の粉が飛ぶのを恐れたか? (2人とも天智の血統を持つ。) |
施基皇子 (しき の みこ) | 置かれた状況は兄・川島皇子と同じだが、政治 家としては目立ってない。 (このメンバーで唯一、役職・官位なし。) のちの文武天皇のとき大宝律令の新しい官位を もらっているが文化人として生きた。 80年後に息子が第49代 光仁天皇になる。 この系統が今でもつづく。 |
壬申の乱(じんしんのらん)
天智天皇の弟・大海人皇子(おおあま の みこ)と息子・大友皇子(おおとも の みこ)のだれが天皇になるのかの争い。
古代最大の内乱。
両軍ともに皇位継承権のある皇族が大将になり指揮した戦で国を2分した。日本の歴史上、ここまで国を分けた戦いはない。
大海人皇子は皇太弟、大友皇子は太政大臣だった。
天智天皇は大海人皇子を指名したが、皇子が断って吉野(和歌山)に引っ込んだことが原因。
672年(天武元)7月24日、大海人皇子は、大友皇子に反乱の罪をきせられると思い、先手を打って挙兵、勝利して第40代 天武天皇になる。
どっちが裏切ったのか、正義があるのかは意見が分かれる。
古代の資料は日本書紀・古事記からだが、天武天皇が号令をかけて作られたので、大海人皇子に都合の悪いものは書けなかったともいわれる。
(ここに書いた内容も日本書紀から。)
大友皇子は、歴代天皇に入ってなかったが、明治3年、明治天皇が『弘文天皇』という諡をおくって歴代天皇に加わった。
いまは、どっちがよかった、悪かったという評価ができるほど事実が分かっていない。
知太政官事(ちだいじょうかんじ)
第42代 文武天皇から第45代 聖武天皇の間に置かれた令外官。
律令政治の太政官を監督するマネージャー職。
(左大臣よりも上。)
有力な皇族が務めた。
だれが? | 就任時期 |
---|---|
忍壁皇子 (おさかべ の みこ) 天武天皇の子。 | 703年(大宝3)~ 705年(大宝5)。 第42代 文武天皇 |
穂積皇子 (ほずみ の みこ) 天武天皇の子。 | 705年(大宝5)~ 715年(和銅8)。 第42代 文武天皇 第43代 元明天皇 |
舎人皇子 (とねり の みこ) 天武天皇の子。 | 720年(養老4)~ 735年(天平7)。 第44代 元正天皇 第45代 聖武天皇 |
鈴鹿王 (すずか の おおきみ) 高市皇子の次男。 天武天皇の孫。 | 737年(天平9)~ 745年(天平17)。 第45代 聖武天皇 |
このときすでに太政大臣があったが、前例の大友皇子(おおとも の みこ)、高市皇子(たけち の みこ)のように、皇太子に匹敵する人でないとなれなかった。
太政大臣を置くと皇太子と並び立つので、皇位継承争いを避けるため知太政官事を置いたとも言われる。
じっさい、知太政官事がいたときの太政大臣は不在。
(その後、太政大臣は皇族でなくてもなれるようになる。)
結局、歴代知太政官事は第40代 天武天皇の子が務めた。
(最後の鈴鹿王だけ孫。)
本格的な律令政治を始めた天武天皇の威光があるうちだけの役職だったとも言える。
(天武天皇は皇親政治を始めた人でもある。)
この政権の特長は、天皇になれるような人たちでガッチリ固めたところです。皇親政治(こうしんせいじ)と言います。
天武政権の序列のルール
1.天武の息子で天智の孫。(母が天智の娘)
2.天武の息子。母の出自は低い。
3.天武の甥っ子で皇后の弟。(天智の息子。)
他にもまだまだ皇子はいる
まだ半分くらいしか政権に入ってません。天武政権は予想以上に短かったので、残りの皇子の活躍を天武天皇は見れませんでした。
皇親政治の2期目は、あとを継いだ持統・文武天皇になりますが、ここでも皇子たちは活躍します。
ここではちょっと気になる人だけ紹介します。
舎人皇子 (とねり の みこ) | 『日本書紀』の編集長。 皇親政治の中心になる。 第47代 淳仁天皇の父。 藤原4兄弟にダマサれたのか、自分の意志か、 第45代 聖武天皇の時代になると藤原氏に近づ いていく。 結局、皇親政治を終わらせ藤原氏が台頭する きっかけを作った。 聖武天皇の皇后を光明子にしたこと、藤原氏 から出すことを許したのが決定的。 (当時の天皇の嫁の常識からは大きくハズレ る。) |
葛野王 (かどの の おおきみ) | 天武天皇が倒した大友皇子の長男。 壬申の乱の結果がちがったら天皇になってた 人。 皇子ですらなく王と呼ばれる。 (王は半分民間人みたいなもの。) それでもよほど優秀だったのか、持統天皇の ときには発言力が大きくなる。 草壁皇子が亡くなったとき、次の皇太子を軽 皇子(文武天皇)を推した。 (親から子への長子継承優先。) それに対し、兄弟リレーを主張した弓削皇子 を一喝したと言われる。 (弓削の皇子ランクは圧倒的に上。) (弓削はこのとき、兄・長皇子を推した。) |
藤原不比等は冬の時代
ボクの記憶では、不比等は藤原氏のなかで教科書ではけっこう大きめに出てた気がします。
しかし、不比等は皇親政治のど真ん中にいた人で、政治家としては恵まれませんでした。権力の大きさで言えば4人の息子たちのほうが大きいです。
(トップにいる皇族たちの下で仕事をしていたと言われる。裏工作はうまかったみたいですが。)
やっぱり、第45代 聖武天皇の外祖父になったインパクトがでかいからでしょう。
飛鳥浄御原令の制定
681年(天武10)、天智天皇が制定した近江令(おうみりょう)を発展させた飛鳥浄御原令(あすか きよみはら りょう)を制定します。
近江令の修正版といったところでしょう。でも、施行まではできませんでした。施行は嫁・持統天皇がおこないます。
(作るぞーといって作業を始めたが完成を見ていない。)
そのまえに亡くなってしまった天武天皇はくやしかったでしょうね?
飛鳥浄御原令には律がない。律令としては不完全。
これを律令にまで発展させるのは、嫁・持統上皇と孫・文武天皇。
日本書紀・古事記をつくる号令をかける
天武天皇といえば、やっぱり
日本書紀、古事記をつくれ!
と言いだしたことでしょう。
(681年(天武10)、飛鳥浄御原令の制定と同じ年。)
天智政権では戦争で大敗北しました。外交の大失敗です。そこで気づきました。
国家の歴史が説明できないと世界ではバカにされる。
そこで天武天皇は、焼失したり口伝えでしか伝わっていなかった歴史をちゃんと文書で書く作業をはじめます。
ついでに、別々にあった歴史をまとめることにしました。
日本の歴史大全集
みたいなものです。
日本書紀 | 外国向け。 国家の歴史の正式文書。国史。 漢文で書かれている。 歴史の叙述で内容はつまらない。 日本の歴史の年表のようなもの。 |
古事記 | 国内向け。 ヤマト言葉に漢字の音をあてた。 『夜露死苦(よろしく)』みたいなかんじ。 物語で書かれているので面白い。 日本昔ばなしのようなもの。 |
それまでも歴史書はあった。
天皇記、国記、etc...
倭の歴史だけでなく、氏族の系譜や天皇の系譜など、いろんなものがあった。
しかしこれらは、乙巳の変で焼身自殺した蘇我蝦夷のとばっちりで、近くにあった、いまでいう公文書館まで全焼してなくなる。
(ほか、なくなった理由が分からないのもある。)
氏姓制度を整理する
天武天皇は氏姓制度を整理しました。(674年(天武13))
天皇、皇族中心の中央集権国家にあわせて、天皇との血統の距離で区別するためです。八色の姓(やくさのせい)といいます。
真人(まひと) |
朝臣(あそん) |
宿禰(すくね) |
忌寸(いみき) |
道師(みちのし) |
臣(おみ) |
連(むらじ) |
稲置(いなき) |
天皇と近い人、信頼できる人をまわりに置こうとしたんでしょうね?
宗教の保護
天武天皇は、神道と仏教の両方を大事にしました。
仏教の経典を整理する
天武天皇は、はじめて一切経(いっさいきょう)の写経をおこないます。
一切経は大蔵経(だいぞうきょう)ともいわれ、仏教のたくさんある聖典をまとめて注釈をつけたものです。
仏教聖典大全集(翻訳版)
といったところ。
もっと仏教の教えを広めようとしたのでしょう。また、皇后が病気になったときには薬師寺の建立をはじめます。
完成は孫・文武天皇の時代で、すでに亡くなっていて見ることはできませんでしたが。
天武天皇は大全集を作るのが大好きだったみたい。
いまなら出版社の編集者になるような人だったんでしょうね?
神道のルールは今でもつづく
天武天皇は即位後、娘・大来皇女(おおくのひめみこ)を斎王(さいおう)にします。
斎王は『いつきのみこ』ともいい、未婚の皇女が伊勢神宮に奉仕する巫女になることです。
これはいまでもつづいています。いまは、上皇陛下の皇女・黒田清子さまが、伊勢神宮祭主をつとめられています。
さすがに未婚ではないですが。
斎王(さいおう)
伊勢神宮の祭主。
第11代 垂仁天皇が娘・倭姫命(やまとひめ の みこと)にアマテラスを祀る場所を探させ、そこに伊勢神宮を創建した。
そしてそのまま倭姫が斎王になったところから始まる。
そこから代々、女性皇族が祭主を務めた。
第33代 推古天皇のころから明治維新まで代々・中臣氏が祭主を務めるようになるが、中臣氏の祭主とは別に内親王が斎王になった。
(この間、内親王の斎王が途切れずに引き継いでいたかは分からない。)
昭和22年以降、内親王(天皇の娘や女性子孫)が祭主を務めるように復活。
普通、神社のトップは宮司(ぐうじ)だが、伊勢神宮だけは唯一、大宮司(だいぐうじ)という。
これが今でも続く。今は天皇陛下の妹・黒田清子さま。
今の神宮は、大宮司とのツートップ体制で、斎王は『伊勢神宮祭主』という。
また平安時代以降には斎宮(さいぐう)とも呼ばれた。斎王・斎宮はどちらも『いつきのみこ』とも読む。
女性が務めるので巫女(みこ)のトップという意味。
そもそも伊勢神宮は、第11代 垂仁天皇の娘・倭姫命(やまとひめ の みこと)がアマテラスを祀る場所を選び、そのまま斎王のように神宮の主になったところから始まりました。
斎王はこれまで続いていたことを制度化したようなもの。
伊勢神宮の斎主は、第33代 推古天皇のころに中臣鎌足(なかとみ の かまたり)の父が務めてから、明治維新まで中臣氏が続いた。
(中臣、大中臣、藤波と性は変わるが。)
明治から昭和初期の戦前・戦中までは、中臣氏の政治担当の藤原氏や親王が務めるようになる。
昭和22年以降は初心に帰り、天皇の皇女が務めるようになる。
どうして大偉業に取り組めたのか?
天智天皇も大偉業にチャレンジしましたが、地ならしだけでおわりました。でも天武天皇はどんどん政策を実行しました。
ふたりのちがいは『まわりの環境』です。
天智天皇は皇太子時代から朝鮮半島で戦争をしていました。大敗北したので後片づけが大変です。国づくりに集中できません。
天武天皇は外交が安定していました。676年(天武5)、朝鮮半島は新羅が統一し唐も朝鮮半島から撤退しました。
(ヤマトは統一新羅と国交を結びます。遣唐使もつづいていた。)
国内政治に100%のエネルギーを使えたんですね?
天武天皇が天智天皇よりも優秀だったというより、時代が天武天皇に味方しました。
ただ、天武天皇は即位がおそかったので、寿命に勝てず最後までできませんでしたが。
大偉業を成し遂げるのは、嫁の持統天皇と孫・文武天皇のコンビです。
天武天皇が即位したのは42才といわれる。
当時は死んでも不思議でない老齢。
天武天皇はスゴイことをしようとして号令をかけたが、そこで終わってしまった。
(言うだけ言って死んでしまった。)
(残された人は大変。それでもやってのけたのでもっとスゴイ。)
何才で亡くなったのか分からない
天武天皇は56才で亡くなったといわれますが、本当のところは分かりません。生まれた日が不明だからです。
これは最大のミステリーです。天武天皇の100年くらい前から天皇の生没年ははっきりしています。
皇族からはなれた人は不明なこともあるでしょうが、天武天皇はずっと皇族です。
(坊主になって吉野に引っ込んだ時期はあったが。)
日本書紀を作れといって、ひとりだけ2巻もあてられているのに生まれた日は書いていません。
歴史小説などでは
ほんとうに天智天皇の弟なのか?
外から入ったよそ者では?
王朝乗っ取りじゃないのか?
など、オモシロ推理がたくさんあります。ぼくも天武天皇の存在はかなり胡散くさいと思っています。
(歴史の研究で分かる日が来ないかな?)