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激動の12年間にひとり権力の中枢に居つづけた後白河法皇
平家の時代から源氏が鎌倉幕府を開くまでの激動の12年の間に、ひとりだけ権力の中枢に居つづけた人がいます。
後白河法皇です。
法皇は源頼朝の幕府の将軍就任に大きく関係しています。法皇の足跡を見ないと幕府成立のプロセスは分かりません。
こんどは法皇の足跡を見てみましょう。
太上天皇(だいじょうてんのう)
退位した天皇のこと。
上皇(じょうこう)
太上天皇の短縮した言い方。
太上法皇(だいじょうほうおう)
出家した上皇のこと。たんに法皇という。
院(いん)
上皇の住まい。そこから上皇・法皇のことを『○○院』と呼ぶ。
くわしくは『太上天皇とは何か?』へ
院政下の権力闘争を生き抜く
後白河天皇は、ライバルの崇徳上皇に勝った保元の乱で有力武士の力を使いました。このとき武士はまだ政治勢力ではなく、皇族・貴族のボディーガードです。
このなかに、平清盛(たいら の きよもり)、源義朝(みなもと の よしとも, 頼朝・義経の父)もいました。
この乱で武士が政治勢力になるチャンスをつかみます。そのきっかけを作ったのが後白河天皇です。
平家政権のきっかけをつくる
乱のあと、今度は勝ったはずの後白河上皇政権内で貴族同士の内紛がはじまります。平治の乱です。
(後白河は退位して上皇になっていた。)
このとき上皇が頼ったのが平清盛。清盛の存在は、上皇の政権で平家なしで運営できないくらい大きくなります。
上皇は武士が政治勢力になるように引き上げた人です。
後白河法皇政権の時代
平治の乱(1159年)~ 平清盛が太政大臣に就任(1167年)するまでの間は後白河法皇の政権です。ここで清盛は、政治家としてメキメキと力をつけてトップに登りつめました。
(このころ、後白河上皇と平清盛は出家した。)
平家政権の時代
平家政権の期間は2パターンが考えられます。
1167~79年は後白河法皇と平清盛が対立し、ガチンコの権力闘争をくりひろげたころ。
これを後白河政権内の内紛とするか、すでに平家政権がはじまっているかで見方が変わります。
清盛が法皇を幽閉して完全に政権から追い出した1179年からは平家政権としていいでしょう。
このように、完全な平家政権は安徳天皇の在位期間(1180 ~1185)とほぼ重なります。
安徳天皇が即位したとき法皇は幽閉されていました。そのため、安徳天皇の即位は清盛が勝手に決めたとも言えます。
安徳天皇は清盛の孫で母は清盛の娘・徳子(とくし)です。
復権した後白河法皇政権 - 混乱の時代
後白河法皇が幽閉から解放されたとき、すでに世の中は混乱していました。このとき法皇は、政権を保つために平家につくのか源氏につくのか必死の行動をとります。
1180年 - そのころ頼朝は、挙兵・鎌倉入り
1180年、後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)が平家打倒をスローガンに挙兵します。これをきっかけに日本各地の反平家の勢いが増して各地で挙兵する勢力があらわれました。
法皇はいまだ幽閉中です。
親王宣下(しんのうせんげ)
天皇から『親王になりなさい』と宣下を受けること。宣下は天皇からの命令。
正式に天皇の皇位継承権をもつことを意味する。宣下を受けた人は、親王、内親王を名乗る。
男性が親王。女性が内親王。
天皇の子ども・孫など直系子孫が宣下を受けた。
天皇の子孫でも宣下を受けてない人は王になる。民間人になると王の称号もなくなる。
はじめて親王宣下をしたのは奈良時代の第47代 淳仁天皇。
親王宣下のないころ、飛鳥・奈良時代の皇族は、天皇の子どもが親王(内親王)、孫から王(女王)だった。
大宝律令の中で制度化したと思われる。
(正確な決まりはない。)
親王宣下は皇族の生まれた立ち位置で自然に決まっていた制度を指名制に変えた。
宮家(世襲親王家)は、本来なら王や民間人になるような人だったが、宣下を受けて親王を名乗った。
明治以降、皇室典範で親王宣下のルールは決められている。
天皇の孫までは親王(内親王)、それ以上血統が離れると王(女王)。
範囲が子から孫へ広がったのは、昔は天皇の子どもが多かったのと、奈良時代は皇族が政権の役職・官僚のトップを務める皇親政治で、そのランクにも使われたので、範囲が広すぎると権力闘争で安定しないから。
臣籍降下(しんせきこうか)
皇族が臣下の籍に降りること。
皇族が民間人になって皇室から離れること。
奈良時代は罰として皇籍剥奪として行われることもあり、反省して許されると皇族に戻ることもあった。
平安時代以降は、貴族だけでなく仏門に入る人も増え、皇族数の調整弁に使われることが多くなった。
1181年 - そのころ頼朝は、鎌倉で地固め
清盛が亡くなり後白河法皇が復活します。1183 ~ 1185年にかけては法皇にとって目まぐるしく変わる年になりました。
1183年 - そのころ頼朝は、鎌倉から外に向かって動く
源氏と言っても一枚岩ではありません。法皇はあっち行ったりこっち行ったり、落ち着きのない行動をします。
いちばん利用できる武士を探してたんでしょうね?
木曽義仲を頼った時期
- 都落ちした平家の追討を義仲に宣下し、京都の警護も命ずる
- 平家がいなくなって空いた官位のポストに、法皇の近臣を送り込んで朝廷を掌握
- 義仲に『次の天皇は以仁王の息子にすべきだ!』と言われイラつく(義仲に天皇を決める権限はない)
- 京都での義仲軍の傍若無人ぶりに困り、平家追討の出兵を命じてとりあえず京都からはなれてもらう
はじめに源氏の木曽義仲を頼る。
が、調子に乗るので京都から追い出す。
源頼朝・義経を頼った時期
- 義仲がいないスキに源頼朝(みなもとの よりとも)と交渉をはじめる
- すでに頼朝が平定した所領の支配権を認める代わりに上洛を要請
- 頼朝の官位を元に戻す(平治の乱で敗れたとき、はく奪されていた)
- 頼朝は義仲追討を要求するが和睦するようになだめる
- 京都に戻った義仲に頼朝上洛要請がバレて、逆に頼朝討伐を要請されるが拒否
- 京の近くに源義経(みなもとの よしつね)が来ていることを知る
- 義経に乗り換えるため、再び義仲に平家追討を命じ、京からはなれるよう最後通牒を突きつける
- 義仲は武力攻撃を仕掛けられる思い、先手を打って法皇を襲撃し幽閉する。
- 軟禁状態の中、義仲に頼朝追討の宣下をくだす
1184年 - そのころ頼朝は、本格的に朝廷とからみ始める
源氏の源義経を頼る。
兄・頼朝は鎌倉にいて京都に行こうとしない。
1185年 - そのころ頼朝は、位だけは左大臣級になる
- 平家を滅亡させた義経を重用する
- 頼朝と仲が悪くなった義経に頼朝追討の宣下を出す。
- 義経は兵を思うように集められず悲痛のうちに京をはなれる
平家の滅亡。
源頼朝よりも弟・義経を味方に引き入れようと画策する。
が、失敗。
義経を見捨て頼朝を頼った時期
- 義経に出した頼朝追討宣下について、頼朝に言い訳をして宣下を取り下げる
- 頼朝に地頭・守護の設置を認める
義経では頼朝を倒せないと悟ったので、兄・頼朝に近づく。
(頼朝討伐に利用しようとしていた義経を見捨てる。)
法皇はなりふりかまわずです。『アイツを倒せ!』と言ったすぐあとに、アイツと組むんだから。
義仲 -> 義経 -> 頼朝
と、短い間にコロコロと味方を変えました。このころの源氏は、だれが一番強いのか分からないので風見鶏状態。
1186年から1192年の間も、いろいろと細かい動きをしているのですが、ワケが分からなくなるのでここでは省略します。
頼朝も法皇の本音は知っていた。その証拠に法皇のことを、
日の本一の大天狗
と言っている。大天狗は、『妖怪』『喰えないヤツ』という意味。
(日本一の喰えないヤツ)
- P1 鎌倉幕府成立までの源頼朝の足跡
- P2 激動の12年間にひとり権力の中枢に居つづけた後白河法皇
- P3 そもそも幕府とは?
- P4 幕府成立年が1185年はおかしい
- P5 幕府成立年が1185年以前はもっとおかしい
- P6 1192年になるまで頼朝は軍の統括権を持ったことがない
- P7 1192年はどういう年なのか?
- P8 今の解釈だと幕府が無いことにならないか?