ツイート
シェア
LINEで送る
B! はてぶでブックマーク
Pocketでブックマーク
RSSフィード

国司ってだれが偉いの?昔は地域格差を法で決め1000年以上使われた。

日本地図

越前守、伊勢守、上野介...。戦国大名や江戸時代の武士たちが名乗ったこの名前は、本当は名前ではなく役職です。地方統治の長官・次官の名前。だからそれぞれの国名が入ります。

そして同じ長官でも、国によって朝廷の位階(等級)に差がありました。越前守と駿河守では越前のほうがワンランク上というように。

今回、すべての国司にランキングをつけます。

(若干、個人的な考えも入る。その場合は一言添えます。)

ランキングの前に基本情報

ランキングを付ける前に基本情報から。

地方統治の役職を国司といいます。国司には4つの幹部のランクがありました。

(国司が勤務する役所は国府(こくふ)。)

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

四等官長官
(かみ)
次官
(すけ)
判官
(じょう)
主典
(さかん)
国司
国司の四等官

守や介は戦国大名や、江戸時代の武士たちが使っていたので聞いたことがあると思います。そして、国にもランクがありました。

大国(13カ国)
上国(35カ国)
中国(11カ国)
下国(9カ国)
令制国のランク

守と介は合計すると116人です。

大国(13カ国)1国1人。13人1国1人。13人
上国(35カ国)1国1人。35人1国1人。35人
中国(11カ国)1国1人。11人なし。
下国(9カ国)1国1人。9人なし。
計)68人48人
国司の長官・次官の定員

基本情報はこのへんで。くわしくはこちらにあります。

権守(ごんのかみ)と権介(ごんのすけ)

守と介には権官(ごんかん)があります。権は『仮』という意味で、定員に空きがないけど同じ役職を付けたいときに使うもの。

会社によっては部長付という役職がありますよね?

じっさいには部下がいなかったり、部長なりの仕事がなかったりして名前だけ部長の人もいます。本来は『部長代理』なんですが、人事の都合で使われるところが同じ。

まちがっても権介を『ゴンスケ』と読んではいけません。愛犬じゃないんだから。

今回は権守と権介を人数に入れません。大国・上国の権守・権介はそれなりに仕事をしていたようだし有名な人も多いですが、中国・下国とランクが下がっていくと、左遷のために使うのが多くなってあまり意味がありません。

権官は国司だけではない。権大納言権中納言もある。

江戸時代には徳川御三家などの位が高い武士に多く使われた。

人数が多すぎて大納言・中納言では足りないから。

【第1グループ】1位。13人

1位の長官は令制国(りょうせいこく)のランクが大国の守です。

令制国 - 大国
令制国 - 大国
大和守
(やまとのかみ)
奈良河内守
(かわちのかみ)
大阪近江守
(おうみのかみ)
滋賀越前守
(えちぜんのかみ)
福井
伊勢守
(いせのかみ)
三重播磨守
(はりまのかみ)
兵庫武蔵守
(むさしのかみ)
東京
埼玉
神奈川
上総守
(かずさのかみ)
千葉
下総守
(しもふさのかみ)
千葉常陸守
(ひたちのかみ)
茨城上野守
(こうずけのかみ)
群馬陸奥守
(むつのかみ)
福島
宮城
岩手
青森
肥後守
(ひごのかみ)
熊本
位階
(等級)
国司
(大国)
太政官
従三位中納言
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下参議
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
正六位上
正六位下
国司の位階。太字が昇殿が許される上級貴族。比較のため太政官の一部を入れた。
貴族の家格(かかく)

平安時代になると特定の家が要職を占めるようになる。

(主に藤原氏と天皇の子孫の源氏

鎌倉時代になると貴族のランクが家単位で固まった。それを家格という。

1摂関家
(せっかんけ)
摂政関白太政大臣になる。
五摂家。
すべて藤原北家の流れ。
2清華家
(せいがけ)
摂政・関白はなれないが、太政大臣になる道があった。

江戸時代には最高位が左大臣に下げられる。
(江戸時代に太政大臣は摂関だけに限定。)

三条(さんじょう)
西園寺(さいおんじ)
徳大寺(とくだいじ)
久我(こが)
花山院(かざんいん)
大炊御門(おおいのみかど)
菊亭・今出川(きくてい。または、いまでがわ)
の7家。

久我家は唯一、天皇の子孫の源氏の流れ。
村上源氏

ほかはすべて摂関家に食い込めなかった藤原氏北家。

江戸時代に広幡家(ひろはた)と醍醐家(だいご)を追加した。
広幡家は第106代 正親町天皇の子孫の正親町源氏
醍醐家は五摂家のひとつ一条家の分家。
3大臣家
(だいじんけ)
清華家の分家。
摂関家・清華家はなれない参議 -> 中納言とステップアップする家。
大納言・近衛大将を飛び越えて内大臣になる道もあった。
(まれに右大臣になる人もいた。)

太政大臣になることもできたが江戸時代に廃止。

正親町三条・嵯峨(おおぎまちさんじょう。のちにさが)
-> 三条家の分家。藤原氏。

三条西(さんじょうにし)
-> 正親町三条の分家。藤原氏。

中院(なかのいん)
-> 久我の分家。村上源氏。

の3家。
4羽林家
(うりんけ)
近衛少将・中将になる。
参議 -> 中納言 -> 大納言にステップアップする家。

軍事を担当する。
江戸時代には大名家に与えられた。

藤原北家: 51家(上位や同じ羽林家からの分家)
藤原南家: 4家
村上源氏: 8家(久我の分家)
宇多源氏: 3家

数がいきなり増える。また、藤原南家、宇多源氏など、上位に見られない系統もある。
4名家
(めいけ / めいか)
序列は羽林家と同じ。
最高位も同じで大納言
(例外で左大臣になる人もいた。)

天皇のお世話係の侍従・文書作成などの弁官から出世する。
羽林家は武門に対して名家は文官。

藤原北家: 25家
桓武平氏: 3家

平安末期にイケイケだった平家がひっそりと残る。
5半家
(はんけ)
大納言になった人がいるがほとんどが参議になってない。
(上流貴族でも政権中枢に入れない)

特殊技能を使って朝廷の仕事をした。

藤原北家: 2家
清和源氏: 1家
宇多源氏: 2家
花山源氏: 1家
桓武平氏: 2家
菅原氏(すがわら): 6家
清原氏(きよはら): 3家
大中臣氏(おおなかとみ): 1家
卜部氏(うらべ): 4家
安倍氏(あべ): 2家
丹波氏(たんば): 1家
大江氏(おおえ): 1家

いろいろな氏族が入っている。
菅原道真(すがわら の みちざね)の菅原氏、マイナーな源氏など。

清原氏は天皇の子孫。源氏よりも古く、飛鳥・奈良時代の天皇から分家した。

大中臣氏は藤原氏の祖先・中臣氏の流れ。藤原氏の本家筋。
古代から宮中祭祀を仕切る仕事をしてきた。

卜部氏は卜筮(ぼくぜい)という占い専門の集団。

安倍氏も天皇の子孫。第8代 孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこ の みこと)の流れで天皇の子孫でもダントツに古い。
(神話の話で信憑性も薄い。)

安倍氏の系統・土御門家(つちみかどけ)は陰陽道を駆使した。
陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい)がいた家。

丹波氏は、第15代 応神天皇のころに来日した渡来系氏族の末裔。
坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)を出した坂上氏の分家。
医療技術(薬剤を含む)を駆使し多くの医者を出した。

大江氏は、古代からの氏族・土師氏(はじうじ)の分家と言われる。
土師氏は埴輪(はにわ)を開発した野見宿禰(のみ の すくね)から始まる土木技術を得意とした氏族。
(ちなみに、野見宿禰は日本最古の力士・相撲取りとも言われる。)

上流貴族にギリギリ入り込んだランクではあるが、氏族・得意分野のバリエーションが多く魅力的な集団。
堂上家

表の6つのカテゴリは堂上家(どうじょうけ)といい、天皇の住居兼オフィスの清涼殿(せいりょうでん)に入ることが許された貴族。

堂上家は太政官の政権中枢の役職(中納言・大納言・右大臣・左大臣)になれる貴族で公卿(くぎょう)ともいう。

堂上家に対して、昇殿を許されない貴族もいた(江戸時代には460家以上)。地下家(じげけ)という。

また、堂上家(公卿)じゃないのに昇殿が許された人を殿上人(てんじょうびと)という。

これらのカテゴリは貴族の位階で決まっていた。

正一位
従一位
正二位
従二位
正三位
従三位
堂上家無条件に清涼殿への出入りが許される。
政権中枢の人しかいない。

今でいうと、代々内閣の閣僚を務める家。
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
殿上人本来は清涼殿への出入りは許されないが、天皇が認めた者だけ許された。
実態は堂上家が認め天皇が追認。

この中には太政官以外の、国司や検非違使、六衛府の長官なども含まれる。

今でいうと、内閣府も含め各省庁の長官で天皇に謁見が許される人がいたということ。

正六位上
以下
地下家清涼殿への出入りが許されない。
位階と家柄

朝廷の官職は位階によって決まるので、自動的に家柄で役職が決まった。

位階と官職はリンクしているので2つセットで官位(かんい)という。

五摂家(ごせっけ)

平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。

鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。

  • 近衛(このえ)
  • 九条(くじょう)
  • 二条(にじょう)
  • 一条(いちじょう)
  • 鷹司(たかつかさ)

くわしくは『摂関政治とは何か?』で。

五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。

1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。

太政官(だいじょうかん)

律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。

他の官位と同じように四等官で4つの序列があった。

四等官官位
長官
(かみ)
太政大臣(令外官)
左大臣
右大臣
内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活)
次官
(すけ)
大納言
中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活)
参議(令外官)
判官
(じょう)
少納言など
主典
(さかん)
省略

左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。

最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。

最初の太政大臣は大友皇子

(その後、平清盛、豊臣秀吉など)

太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。

明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。

明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。

内閣の一員 -> 大臣(だいじん)

官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)

日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。

首相 = 総理大臣

財務相 = 財務大臣

○○相イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳
○○大臣太政官の名残り。日本だけ。

政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。

ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。

大臣は『天皇の下のリーダー()』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。

河内守楠木正成
(くすのき まさしげ)
足利尊氏のライバル。
越前守大岡忠相
(おおおか ただすけ)
江戸幕府の町奉行。
TV時代劇『大岡越前』の主人公。
伊勢守阿部正弘
(あべ まさひろ)
幕末の老中首座。
播磨守源義朝
(みなもと の よしとも)
源頼朝(よりとも)の父。
武蔵守源義家
(みなもと の よしいえ)
八幡太郎義家。
河内源氏の棟梁。
陸奥守坂上田村麻呂
(さか の うえ の たむらまろ)

源義家

北条義時
(ほうじょう よしとき)

毛利元就
(もうり もとなり)

伊達政宗
(だてまさむね)
かつて初代・征夷大将軍と言われた武官。


複数の国の守を歴任した。

鎌倉幕府2代目執権。


戦国時代の西国の雄。


遅れてきた東北の戦国の雄。
肥後守平清盛
(たいら の きよもり)

加藤清正
(かとう きよまさ)

保科正之
(ほしな まさゆき)
平家の棟梁。


豊臣秀吉の子飼いの武将。
肥後国を任された。

会津藩初代藩主。
徳川3大将軍・徳川家光の時代の幕閣のリーダー。
家光の異母弟。
有名人

鎌倉時代より前は国司に任官した人が名乗った。

それ以降は、地頭や守護、守護代が国司に取って代わるようになり、武士のステータスとして使われる。

(勝手に名乗ることもあったし、守護や地頭が幕府経由で朝廷から任命されてた。)

江戸時代になると正式に武家の官位として使われるようになった。

(国司は消滅。)

また、自領の守を名乗る人が多い。その人は国司のランクよりも地元のリーダーのステータスを選んだ。

(加藤清正とか伊達政宗など。)

今回は都からの距離での旧国の区分は考えない。

旧国の区分には単純に都からの距離だけで分けたものもあります。

令制国の都からの距離の区分

畿内は首都圏のこと。いつの時代でも中心にいるのが偉いと思う人はいます。嫌いなやつはデキる人でも遠くに追いやることも。

そういう人間心理からすれば、遠くに行けば行くほど左遷の意味合いが出てきますが、今回は入れません。それまで言い出すと、たとえば伊勢国(三重)と山城国(京都)の上下関係が分からなくなるから。

(伊勢は近国で畿内の山城より遠い。けど、伊勢は山城より国ランクが高い。)

東京に本社にある企業で、福岡営業所の部長よりも本社の課長のほうが偉そうにすることがありますが、じっさいはどっちが偉いのか会社によって違うので分かりません。

それに比べて国司の位は、遠かろうが近かろうが基準は律令制度の位階で統一されているのでそっちを見ます。大国・上国・中国・下国の区分はある程度都からの距離も考慮されているし。

律令(りつりょう)

律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる憲法みたいなもの。

7世紀の当時、世界の先進国の1つだった中国から伝わる。

日本は世界の先進国の仲間入りを目指して導入し始めていた。

律令で統治された国家を律令国家、その政治システムを律令制という。

次は 【第2グループ】14位。35人
コメントを残す

*