明治より前の地方(旧国・令制国)のランク。地元が低くても凹まないでね?

日本地図

越前国(えちぜん)、陸奥国(むつ)、武蔵国(むさし)などなど、今の都道府県とはちがう地方の区分がありました(旧国)。

いまでは地域名や市町村などに残っているものもあります。そしてその地域には規模や朝廷が重要ポイントだと思っていたなどでランクがありました。

このランクを見ると昔の日本人がどこに憧れていたのかが分かります。

古代の日本は、律令制度を採用して統一国家のシステム化を図りました。律令制度は4つのランクに分けるのが大好きな制度です。

官僚や貴族を4つの役職に分けたように(四等官)、地方区分も4つに分けました。

大国(13カ国)
上国(35カ国)
中国(11カ国)
下国(9カ国)

この律令制度で作られた国のことを令制国(りょうせいこく)と言います。古代の飛鳥時代に制定されてほぼ変更することなく明治維新の廃藩置県までありました。

戦国時代などの武将の領地でもよく聞く国名です。

この区分は、現存する資料が平安中期の第60代 醍醐天皇が行った改革、延喜式(えんぎしき。延喜の格式)にある。

平安時代に作られた区分に思われるが、国名は古代から使われているのも多く、大宝律令制定時には決められていたと言われる。

古代の国(くに)は、平安時代と大して変わってなかったらしい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

徳川幕府を倒した新政府は、廃藩置県があるまでの数年間に、ほとんど変わることがなかった国を変えた。

とくに東北は陸奥国を分割するなど変更点が多い。

大国(たいこく・たいごく)

昔の日本人が一番重要だと思っていた国が大国です。読んで字の如し。

令制国 - 大国
令制国 - 大国

これから説明する今の地域はだいたいです。地元の人からすると『オレは武蔵じゃねー!』とか、ご意見はあると思いますがご了承ください。

畿内(首都圏)

五畿七道(ごきしちどう)

古代から平安時代にかけての日本の首都圏と、幹線道路とその周辺の地方ブロック。

首都圏を畿内(きない)と言い5つに分けた。

道路は7つに分けた。〇〇道は道路周辺の地方も指す。州みたいなもの。

五畿七道 画像
五畿七道
畿内首都圏。
おもに、奈良、滋賀、京都、大阪。
山陽道本州西部の瀬戸内海側。
おもに、兵庫南部、岡山、広島、山口。
山陰道本州西部の日本海側。
おもに、京都北部、兵庫北部、鳥取、島根。
南海道おもに、四国、淡路。
西海道九州全域。
東海道本州東部の太平洋側。
おもに、三重、愛知、静岡、関東圏。
東山道本州東部の山間部と東北全域。
山間部はおもに、滋賀、岐阜、長野、群馬、栃木。
北陸道本州東部の日本海側。
おもに、福井、石川、新潟。

北海道、沖縄は入っていない。当時の日本人に領土意識がないから。奄美を含む南西諸島、小笠原諸島は微妙。

今でも『北海道』にその名残がある。当時は七道に入ってなかったのに。

大和国
(やまと)
奈良。
古代の都。
河内国
(かわち)
大阪。
古代の都が多くあった。
畿内の大国

まずは昔の首都圏、畿内から。首都圏には5つの国があるのに2つしか入っていません。京都の平安京に遷都する前に都が多かった国です。

首都圏と言っても埼玉や栃木、千葉より、やっぱり東京、神奈川のほうがスケールが大きく感じるのと同じようなもの。

埼玉よりは大阪、名古屋という感覚か?

(埼玉を悪く言ったつもりはありません。)

都と地方を結ぶ七道の玄関口

五畿七道(ごきしちどう)

古代から平安時代にかけての日本の首都圏と、幹線道路とその周辺の地方ブロック。

首都圏を畿内(きない)と言い5つに分けた。

道路は7つに分けた。〇〇道は道路周辺の地方も指す。州みたいなもの。

五畿七道 画像
五畿七道
畿内首都圏。
おもに、奈良、滋賀、京都、大阪。
山陽道本州西部の瀬戸内海側。
おもに、兵庫南部、岡山、広島、山口。
山陰道本州西部の日本海側。
おもに、京都北部、兵庫北部、鳥取、島根。
南海道おもに、四国、淡路。
西海道九州全域。
東海道本州東部の太平洋側。
おもに、三重、愛知、静岡、関東圏。
東山道本州東部の山間部と東北全域。
山間部はおもに、滋賀、岐阜、長野、群馬、栃木。
北陸道本州東部の日本海側。
おもに、福井、石川、新潟。

北海道、沖縄は入っていない。当時の日本人に領土意識がないから。奄美を含む南西諸島、小笠原諸島は微妙。

今でも『北海道』にその名残がある。当時は七道に入ってなかったのに。

近江国
(おうみ)
滋賀。

都と東国を結ぶ、東山道の玄関口。
都への陸上交通の重要拠点。
越前国
(えちぜん)
福井の右半分。

都と東国を結ぶ北陸道の玄関口。
都への陸上・海上交通の重要拠点。
伊勢国
(いせ)
三重。

都と東国を結ぶ、東海道の玄関口。
都への陸上・海上交通の重要拠点。
播磨国
(はりま)
兵庫。

都と西国を結ぶ、山陽道の出入り口。
都への海上交通の重要拠点。
幹線道の玄関口の大国

地方から都への玄関口を大国にしています。とくに播磨は、大国に入っていない山陰道や四国・九州からの海上交通など、西国全体を一手にカバーした一大拠点です。

やみくもに大国にせず厳選した感じがする。というか、昔の人は頭がいい。今ほど地図があるわけでもないのにピンポイントでいいとこ押さえてる。

反乱が多いところは大国?

五畿七道(ごきしちどう)

古代から平安時代にかけての日本の首都圏と、幹線道路とその周辺の地方ブロック。

首都圏を畿内(きない)と言い5つに分けた。

道路は7つに分けた。〇〇道は道路周辺の地方も指す。州みたいなもの。

五畿七道 画像
五畿七道
畿内首都圏。
おもに、奈良、滋賀、京都、大阪。
山陽道本州西部の瀬戸内海側。
おもに、兵庫南部、岡山、広島、山口。
山陰道本州西部の日本海側。
おもに、京都北部、兵庫北部、鳥取、島根。
南海道おもに、四国、淡路。
西海道九州全域。
東海道本州東部の太平洋側。
おもに、三重、愛知、静岡、関東圏。
東山道本州東部の山間部と東北全域。
山間部はおもに、滋賀、岐阜、長野、群馬、栃木。
北陸道本州東部の日本海側。
おもに、福井、石川、新潟。

北海道、沖縄は入っていない。当時の日本人に領土意識がないから。奄美を含む南西諸島、小笠原諸島は微妙。

今でも『北海道』にその名残がある。当時は七道に入ってなかったのに。

武蔵国
(むさし)
東京・埼玉・神奈川の一部。

東国の重要拠点。
東北と都を結ぶ海上・陸上の中継点だった。
上総国
(かずさ)
千葉の房総半島の先端を除く全て。

東国を海上で防御する重要拠点。
親王任国
下総国
(しもふさ)
房総半島を除く千葉。茨城の一部。

東国を海上・陸上で防御する重要拠点。
常陸国
(ひたち)
茨城。

関東と東北を結ぶ重要拠点。
親王任国
上野国
(こうずけ)
群馬。

交通要衝の東山道のど真ん中。
都と東北、東北と関東を結ぶ陸上交通の中継点。
親王任国
陸奥国
(むつ)
福島・宮城・岩手・青森。
太平洋に面した東北のすべて。

蝦夷制圧の拠点が置かれるほど東北の重要拠点。
肥後国
(ひご)
熊本。

統一国家を作るのに手こずった地域。

ヤマトタケルの遠征、第14代 仲哀天皇の遠征な
ど、2世紀から5世紀ごろにかけて大きな討伐軍
が派遣された。

かつて熊襲(くまそ)と呼ばれた最強豪族がいた。

大国は、都と東国・西国へのルートを押さえているところまでは分かるんですが、そのほかは関東・東北に集中しています。

また九州では、福岡に大宰府を置いたように北部が中心地なんですがそこは外れています。

それぞれの地域を見てると、古代に紛争が絶えなかったところに多い。ここに優秀な地方の長官・国司を置かないと内戦が勃発するのを恐れたんじゃないかな?

また、国司には親王任国(しんのうにんこく)という代々・天皇の息子が国司の長官を務める地域が3つありその3国すべてが入ってます。

(親王任国はなぜか関東に集中している。)

令制国の大国は軍事的な意味が強く反映されてます。

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

親王任国は息子への甘い愛情?

親王任国を作ったのは、征夷大将軍と検非違使を作り国軍を放棄した第50代 桓武天皇です。親王任国の初代長官はすべて桓武天皇の息子。

どうやら都に与えられる仕事がなかったらしい。せめて食い扶持だけでもという親心か?

ちなみに、親王任国の長官は上総守・常陸守・上野守とは言わず、太守(たいしゅ)といいます。そして太守は現地に行くことはありませんでした。

現地で仕切るのは次官の介(上総介・常陸介・上野介)。

なんか見覚えありませんか?

織田上総介信長

吉良上野介

小栗上野介

なんで信長が長官の守を使わなかったのか? 江戸幕府の勘定奉行までなった小栗が守じゃなかったのか?

答えは、皇族じゃないから。

朝廷をないがしろにしたイメージのある信長がちゃっかり守ってるのが面白い。

令制国のランクがそのまま国司のランク

国司(こくし)と郡司(ぐんじ)

国司

古代から平安時代にかけて中央政府から派遣された地方の役人。646年には存在したが、いつ始まったのかはっきりと分からない。大宝律令・養老律令で確立された。

地方のすべての権限を持っていた。

京都では、生まれがいいのに仕事に恵まれない人がたくさんいたので、その人たちが派遣される。(天下り)

送り込まれる人の家柄がすごかったので地方ではやりたい放題。(元皇族・藤原氏

今の県知事・県警本部長・裁判官を一人で務めるようなもの。第50代 桓武天皇は国軍を廃止して、各地の国司を軍の司令官にした。

もってる力は絶大。

偉い順に、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)…と続く。

長官の守には、現地に赴任しないで都にとどまり報酬だけはもらっている人もいた。遙任(ようにん)という。

それに対し、じっさいに現地に赴任して仕事をしていたトップを受領(ずりょう)という。

受領は一般的に守のことを指すが、遙任の場合は介が現地のトップになり受領と呼ばれた。

平安時代には、中央政府を無視して自分の国かのように振る舞っていく。中には武士の棟梁になるものもいた。(平清盛・源頼朝の祖先)

鎌倉時代に入ると、地頭に仕事を奪われて形だけの役職になるが明治になるまで続く。

戦国武将や江戸時代の武士は国司の役職を持っていたが、ほんとうに任命されているかは関係なくカッコイイ名前として使われる。

  • 織田 上総介(かずさのすけ)信長
  • 徳川 駿河守(するがのかみ)家康

織田信長はいまでいうと千葉県の副知事。徳川家康は静岡県知事。信長は上総の国とは無関係でカッコイイ名前として使い、家康はほんとうに駿河守に任命されていた。

織田信長が一番偉くないのが面白い。

郡司

市区町村長みたいなもの。直属の上司が国司で、権限は国司よりも小さい。

大宝律令と養老律令

古代の近代化(律令国家をめざす)の基礎になる法典。憲法みたいなもの。

近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は自分たちで作ったが、大宝律令は中国の丸コピーだった。

律令は、律(りつ。刑法)と令(りょう。民法、行政法)からなる。

大宝律令(たいほうりつりょう)

701年(大宝元)撰定、702年(大宝2)施行。

中国のを丸コピーして日本に必要なものだけを選んだので1年で完成させた。

第42代 文武天皇の時代。

(じっさいは持統上皇が行なった。)

大宝律令は飛鳥浄御原令の失敗から『とりあえずパクった』もの。

養老律令(ようろうりつりょう)

718年(養老2)撰定、757年(天平宝字元)施行。

大宝律令の改訂版。

突貫工事でつくった大宝律令は中国のコピーなので、日本に合わないことがあった。

養老律令では、日本に合うように修正。(オリジナルの追加・変更)

撰定は第44代 元正天皇、施行は第46代 孝謙天皇。どちらも女帝。

天皇の皇位継承のルールを定めた継嗣令(けいしりょう)もある。

養老律令は『パクっただけだとなんか合わない。改良しよ!』になったもの。

養老律令 = 大宝律令 + 飛鳥浄御原令 + さらに改良

撰定から施行まで40年もかかっている。

オリジナルを作るのに苦労したのか? あいだの第45代 聖武天皇がサボったのか? よくわからない。

女帝のほうが憲法の大切さを分かっていて国作りに熱心だったのかも。

(大宝律令の持統上皇も女帝。)

(聖武天皇は仏教マニアで国作りに興味なし。)

令制国のランクによって地方を管轄する国司の幹部のランクも変わってきます。大国の国司のほうが地位が高い。

国司にも4つのランクがあります。これも律令制の四等官という制度のため。

四等官長官
(かみ)
次官
(すけ)
判官
(じょう)
主典
(さかん)
国司
国司の四等官
位階
(等級)
国司
(大国)
太政官
従三位中納言
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下参議
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
正六位上
正六位下
従六位上
従六位下
正七位上
正七位下大掾
従七位上少掾
従七位下
正八位上
正八位下
従八位上大目
従八位下少目
国司の位階。太字が昇殿が許される上級貴族

国司と比較するため、政権中枢の太政官の一部を入れました。

太政官(だいじょうかん)

律令制のなかで政治を動かすトップの組織。いまでいう内閣みたいなもの。

他の官位と同じように四等官で4つの序列があった。

四等官官位
長官
(かみ)
太政大臣(令外官)
左大臣
右大臣
内大臣(大宝律令で廃止。令外官として復活)
次官
(すけ)
大納言
中納言(大宝律令で廃止。令外官として復活)
参議(令外官)
判官
(じょう)
少納言など
主典
(さかん)
省略

左大臣は総理大臣みたいなもの。行政の全責任を負う。

最初はなかったが、近江令で左大臣のさらに上の太政大臣ができた。

最初の太政大臣は大友皇子

(その後、平清盛、豊臣秀吉など)

太政大臣は、よっぽどの人でないとなれないので空席もあった。

明治新政府で置かれた太政官は同じものではなく、似たものをつくって置いた。『だじょうかん』といい呼び方もちがう。

明治18年に内閣制度ができて消滅する。内閣制度はイギリスがモデルだが、いまでも名前で太政官が受け継がれている。

内閣の一員 -> 大臣(だいじん)

官僚組織 -> 長官(ちょうかん)、次官(じかん)

日本では大臣を『相』ともいう。呼び方が2つあるのは日本独自と輸入品の両方を使っているから。

首相 = 総理大臣

財務相 = 財務大臣

○○相イギリスの議院内閣制の閣僚の日本語訳
○○大臣太政官の名残り。日本だけ。

政治ニュースでよく見るとわかる。外国の政治家には『大臣』といわず『相』といっている。

ちなみに、アメリカのような大統領制の『長官』は太政官の長官(かみ)とは関係ない。日本人に分かるようにあてはめただけ。

大臣は『天皇の下のリーダー()』という意味。天皇がいないと大臣は存在できない。天皇の『臣下=君主に仕える者』だから。

ほかの国司のランクもあとで追加していきます。(令制国で国司のランクが決まるのが見えてくる。)

上国(じょうこく・じょうごく)

次は上国です。これはまず見てもらいましょう。

令制国 - 上国
令制国 - 上国
畿内
(首都圏)
東海道
(東国の太平洋側)
東山道
(東国の内陸・東北)
北陸道
(東国の日本海側)
山陰道
(西国の日本海側)
山陽道
(本州・西国の瀬戸内海側)
南海道
(四国)
西海道
(九州)
山城国
(やましろ)
京都の東半分。尾張国
(おわり)
三河国
(みかわ)
愛知の西半分。

愛知の東半分。
美濃国
(みの)
岐阜の南半分。加賀国
(かが)
石川の南半分。丹波国
(たんば)
但馬国
(たじま)
京都の西半分。
兵庫の北東部。

兵庫北部。
美作国
(みまさか)
備前国
(びぜん)
備中国
(びっちゅう)
岡山の北東部。

岡山の南東部。

岡山の西半分。
紀伊国
(きい)
和歌山。
三重南部。
豊前国
(ぶぜん)
豊後国
(ぶんご)
福岡東部。
大分北部。

大分。
(北部を除く)
摂津国
(せっつ)
大阪の北半分。
兵庫南東部。
遠江国
(とおとうみ)
駿河国
(するが)
静岡の西半分。

静岡の東半分。
(伊豆半島を除く)
信濃国
(しなの)
長野。越中国
(えっちゅう)
富山。因幡国
(いなば)
伯耆国
(ほうき)
鳥取東部。

鳥取中部・西部。
備後国
(びんご)
安芸国
(あき)
広島の東半分。

広島の西半分。
阿波国
(あわ)
徳島。筑前国
(ちくぜん)
筑後国
(ちくご)
福岡西部。

福岡南部。
甲斐国
(かい)
山梨。下野国
(しもつけ)
栃木。越後国
(えちご)
新潟。
(佐渡ヶ島を除く)
出雲国
(いずも)
島根東部。周防国
(すおう)
山口の南東半分。讃岐国
(さぬき)
香川。肥前国
(ひぜん)
佐賀・長崎
(壱岐・対馬を除く)
相模国
(さがみ)
神奈川の南半分。出羽国
(でわ)
山形・秋田伊予国
(いよ)
愛媛。
上国の旧国

今では和歌山は関西ブロックだが、昔は四国と同じブロック。

都から太平洋へ出ていくルートにある国は南海道にまとめられていた。

五畿七道(ごきしちどう)

古代から平安時代にかけての日本の首都圏と、幹線道路とその周辺の地方ブロック。

首都圏を畿内(きない)と言い5つに分けた。

道路は7つに分けた。〇〇道は道路周辺の地方も指す。州みたいなもの。

五畿七道 画像
五畿七道
畿内首都圏。
おもに、奈良、滋賀、京都、大阪。
山陽道本州西部の瀬戸内海側。
おもに、兵庫南部、岡山、広島、山口。
山陰道本州西部の日本海側。
おもに、京都北部、兵庫北部、鳥取、島根。
南海道おもに、四国、淡路。
西海道九州全域。
東海道本州東部の太平洋側。
おもに、三重、愛知、静岡、関東圏。
東山道本州東部の山間部と東北全域。
山間部はおもに、滋賀、岐阜、長野、群馬、栃木。
北陸道本州東部の日本海側。
おもに、福井、石川、新潟。

北海道、沖縄は入っていない。当時の日本人に領土意識がないから。奄美を含む南西諸島、小笠原諸島は微妙。

今でも『北海道』にその名残がある。当時は七道に入ってなかったのに。

上国は大国でカバーしきれなかったところのほとんどを網羅しています。国数も最大の35。上国から外れたのは半島や島、都から遠いところ。なぜ入ってないのかは後で分かります。

遠くても入っているところは、ヤマト王権時代のかなり早くに制圧されたところ。吸収されて長い時間が経っているので大きな反乱もあまりなかったのでしょう。

そういう意味では、上国は可も不可もなく、安パイの国。

(なんかイヤ。)

国司のランクも大国ほど緊張感がないのでワンランク下です。

位階
(等級)
国司
(上国)
国司
(大国)
太政官
従三位中納言
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下参議
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
正六位上
正六位下
従六位上
従六位下
正七位上
正七位下大掾
従七位上少掾
従七位下
正八位上
正八位下
従八位上大目
従八位下少目
国司の位階。太字が昇殿が許される上級貴族

大国は国司のナンバー3、ナンバー4の掾(じょう)・目(さかん)を2つに分けて幹部を増やしています。

大国以外でも国が乱れたりして大変になったときは、同じように大掾・少掾・大目・少目を置いたらしい。このへんはガチガチではなく柔軟だったみたい。

関東でポツンと上国の下野国

上国でひとつ気になるのは、下野国(しもつけ。栃木)は大国に囲まれてポツンとある。ひとつだけワンランク下。

これずっと理由が分からなかったんですけど、最近、これじゃないか? という話を聞きました。

栃木県出身の芸能人が集まって『都道府県魅力度ランキングワースト1位』について話してたんですが、栃木県の人はおとなしい人が多く、自分の意見をあまり言わない県民性らしい。

関東の中で下野は統一国家・ヤマトに早くから従順だったんじゃないだろうか?

反抗することが少ないので、地方運営がスムーズに行くところだったんじゃないだろうか?

中国(ちゅうごく)

中国は、中くらいのランクの国という意味ですが、中身をみるとそうでもないです。

令制国 - 中国
令制国 - 中国
東海道北陸道山陰道山陽道南海道西海道
安房国
(あわ)
千葉の房総半島の端。若狭国
(わかさ)
福井。丹後国
(たんご)
京都北部。長門国
(ながと)
山口の西半分土佐国
(とさ)
高知。日向国
(ひゅうが)
宮崎。
能登国
(のと)
石川の能登半島。石見国
(いわみ)
島根の中部・西部。大隅国
(おおすみ)
薩摩国
(さつま)
鹿児島の東半分。
種子島・屋久島。

鹿児島の西半分。
佐渡国
(さど)
新潟の佐渡ヶ島。
中国の旧国

特長として都から見て大国や上国の向う側にあるのが中国。当時の人にとっては未知、未開の地だったでしょう。

また、佐渡ヶ島、土佐、薩摩、大隅などは流刑地として使われました。大国・上国とちがってネガティブなイメージがついているのも中国です。

やっぱり中クラスじゃないですね? 下の上くらいが実態です。

位階
(等級)
国司
(中国)
国司
(上国)
国司
(大国)
太政官
従三位中納言
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下参議
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
正六位上
正六位下
従六位上
従六位下
正七位上
正七位下大掾
従七位上少掾
従七位下
正八位上
正八位下
従八位上大目
従八位下少目
大初位上
大初位下
少初位上
少初位下
国司の位階。太字が昇殿が許される上級貴族

国司のランクを見ても上国から2ランクダウン。中国の国司の長官・守は殿上人になれません。政権中枢の人との接点がもてないということ。

貴族の家格(かかく)

平安時代になると特定の家が要職を占めるようになる。

(主に藤原氏と天皇の子孫の源氏

鎌倉時代になると貴族のランクが家単位で固まった。それを家格という。

1摂関家
(せっかんけ)
摂政関白太政大臣になる。
五摂家。
すべて藤原北家の流れ。
2清華家
(せいがけ)
摂政・関白はなれないが、太政大臣になる道があった。

江戸時代には最高位が左大臣に下げられる。
(江戸時代に太政大臣は摂関だけに限定。)

三条(さんじょう)
西園寺(さいおんじ)
徳大寺(とくだいじ)
久我(こが)
花山院(かざんいん)
大炊御門(おおいのみかど)
菊亭・今出川(きくてい。または、いまでがわ)
の7家。

久我家は唯一、天皇の子孫の源氏の流れ。
村上源氏

ほかはすべて摂関家に食い込めなかった藤原氏北家。

江戸時代に広幡家(ひろはた)と醍醐家(だいご)を追加した。
広幡家は第106代 正親町天皇の子孫の正親町源氏
醍醐家は五摂家のひとつ一条家の分家。
3大臣家
(だいじんけ)
清華家の分家。
摂関家・清華家はなれない参議 -> 中納言とステップアップする家。
大納言・近衛大将を飛び越えて内大臣になる道もあった。
(まれに右大臣になる人もいた。)

太政大臣になることもできたが江戸時代に廃止。

正親町三条・嵯峨(おおぎまちさんじょう。のちにさが)
-> 三条家の分家。藤原氏。

三条西(さんじょうにし)
-> 正親町三条の分家。藤原氏。

中院(なかのいん)
-> 久我の分家。村上源氏。

の3家。
4羽林家
(うりんけ)
近衛少将・中将になる。
参議 -> 中納言 -> 大納言にステップアップする家。

軍事を担当する。
江戸時代には大名家に与えられた。

藤原北家: 51家(上位や同じ羽林家からの分家)
藤原南家: 4家
村上源氏: 8家(久我の分家)
宇多源氏: 3家

数がいきなり増える。また、藤原南家、宇多源氏など、上位に見られない系統もある。
4名家
(めいけ / めいか)
序列は羽林家と同じ。
最高位も同じで大納言
(例外で左大臣になる人もいた。)

天皇のお世話係の侍従・文書作成などの弁官から出世する。
羽林家は武門に対して名家は文官。

藤原北家: 25家
桓武平氏: 3家

平安末期にイケイケだった平家がひっそりと残る。
5半家
(はんけ)
大納言になった人がいるがほとんどが参議になってない。
(上流貴族でも政権中枢に入れない)

特殊技能を使って朝廷の仕事をした。

藤原北家: 2家
清和源氏: 1家
宇多源氏: 2家
花山源氏: 1家
桓武平氏: 2家
菅原氏(すがわら): 6家
清原氏(きよはら): 3家
大中臣氏(おおなかとみ): 1家
卜部氏(うらべ): 4家
安倍氏(あべ): 2家
丹波氏(たんば): 1家
大江氏(おおえ): 1家

いろいろな氏族が入っている。
菅原道真(すがわら の みちざね)の菅原氏、マイナーな源氏など。

清原氏は天皇の子孫。源氏よりも古く、飛鳥・奈良時代の天皇から分家した。

大中臣氏は藤原氏の祖先・中臣氏の流れ。藤原氏の本家筋。
古代から宮中祭祀を仕切る仕事をしてきた。

卜部氏は卜筮(ぼくぜい)という占い専門の集団。

安倍氏も天皇の子孫。第8代 孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこ の みこと)の流れで天皇の子孫でもダントツに古い。
(神話の話で信憑性も薄い。)

安倍氏の系統・土御門家(つちみかどけ)は陰陽道を駆使した。
陰陽師・安倍晴明(あべ の せいめい)がいた家。

丹波氏は、第15代 応神天皇のころに来日した渡来系氏族の末裔。
坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)を出した坂上氏の分家。
医療技術(薬剤を含む)を駆使し多くの医者を出した。

大江氏は、古代からの氏族・土師氏(はじうじ)の分家と言われる。
土師氏は埴輪(はにわ)を開発した野見宿禰(のみ の すくね)から始まる土木技術を得意とした氏族。
(ちなみに、野見宿禰は日本最古の力士・相撲取りとも言われる。)

上流貴族にギリギリ入り込んだランクではあるが、氏族・得意分野のバリエーションが多く魅力的な集団。
堂上家

表の6つのカテゴリは堂上家(どうじょうけ)といい、天皇の住居兼オフィスの清涼殿(せいりょうでん)に入ることが許された貴族。

堂上家は太政官の政権中枢の役職(中納言・大納言・右大臣・左大臣)になれる貴族で公卿(くぎょう)ともいう。

堂上家に対して、昇殿を許されない貴族もいた(江戸時代には460家以上)。地下家(じげけ)という。

また、堂上家(公卿)じゃないのに昇殿が許された人を殿上人(てんじょうびと)という。

これらのカテゴリは貴族の位階で決まっていた。

正一位
従一位
正二位
従二位
正三位
従三位
堂上家無条件に清涼殿への出入りが許される。
政権中枢の人しかいない。

今でいうと、代々内閣の閣僚を務める家。
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
殿上人本来は清涼殿への出入りは許されないが、天皇が認めた者だけ許された。
実態は堂上家が認め天皇が追認。

この中には太政官以外の、国司や検非違使、六衛府の長官なども含まれる。

今でいうと、内閣府も含め各省庁の長官で天皇に謁見が許される人がいたということ。

正六位上
以下
地下家清涼殿への出入りが許されない。
位階と家柄

朝廷の官職は位階によって決まるので、自動的に家柄で役職が決まった。

位階と官職はリンクしているので2つセットで官位(かんい)という。

五摂家(ごせっけ)

平安時代の摂関政治では摂政・関白になれる家は決まっていた。それを摂関家(せっかんけ)という。

鎌倉時代以降、摂関家の中でさらに摂政・関白になれる家柄がしぼられた。その5家のことを五摂家という。

  • 近衛(このえ)
  • 九条(くじょう)
  • 二条(にじょう)
  • 一条(いちじょう)
  • 鷹司(たかつかさ)

くわしくは『摂関政治とは何か?』で。

五摂家は明治に入ってもつづき、華族制度ができてからは華族として位置づけられた。

1947年の華族制度の廃止まで、由緒ある家として知られていた。

また、次官がなく残りの幹部も等級が一番下の初位。字を見ても分かる。

中国の流刑地として使われる国の国司は左遷の意味もあります。

天皇の故郷はなぜ中国なのか?

日向国(ひゅうが。宮崎)は初代・神武天皇が4代目の王だった国で、天皇の生まれ故郷です。

日本書紀や古事記が書かれた時代は律令制度が完成したときと重なるので、当時の人もそれは分かっていたはず。

古事記と日本書紀(こじき。にほんしょき)

第40代 天武天皇が号令をかけて作った国家の歴史書。ふたつあわせて記紀(きき)いう。

それ以前の歴史書は、焼失や理由の分からない消失でいまは存在しない。

国記と天皇記

第33代 推古天皇のとき、聖徳太子蘇我馬子(そが の うまこ)が編集長になって作ったと言われる。

国記
(こっき)
国家の歴史書
天皇記天皇の系譜

天武天皇の息子・川島皇子(かわしま の みこ)、忍壁皇子(おさかべ の みこ)が編集長になり作業をはじめた。

そのときにまとめたのが帝紀と旧辞と言われる。

帝紀と旧辞

帝紀
(ていき)
天皇の系譜、功績をまとめたもの。
旧辞
(きゅうじ)
各氏族の系譜をまとめたもの。
氏族や民など、いろいろな人々に伝わる伝承をまとめた。
日本書紀に出てくる『上古諸事』は旧辞を指すとも。

帝紀と旧辞は一体だったとも言われはっきりせず、ふたつとも現存しない。

当時、重要な情報は覚えて口伝えする職業(誦習者。しょうしゅうしゃ)があり、稗田阿礼(ひえだ の あれい)が帝紀・旧辞を覚えた。

帝紀と旧辞が古事記と日本書紀の基本資料になり、飛鳥時代以前の歴史は、古事記、日本書紀にたよる。

古事記(こじき。ふことふみ)

帝紀・旧辞を稗田阿礼に誦習させたが、天武天皇が亡くなると作業が中断した。

712年(和銅5)、第43代 元明天皇のとき、太安万侶(おお の やすまろ)が阿礼の記憶、帝紀・旧辞から文字起こしして書物にまとめたのが古事記。

20年以上の中断があり完成に30年以上かかった。

(阿礼は、帝紀・旧辞だけでなく、無くなっていた数々の歴史書も覚えていた暗記の天才と言われる。)

日本書紀(にほんしょき)

完成は古事記よりもおそく、720年(養老4)、第44代 元正天皇のころに完成。

中断していたのか?たんに時間がかかったのか? 完成までの経緯はよく分かっていない。

天武天皇の息子・舎人皇子(とねり の みこ)が編集長。

古事記倭語を漢字にあてた。
『夜露死苦』(よろしく)みたいに。

国内向け。
国家統一に利用するためか?
日本書紀漢字で書かれた。
(中国人でも読める。)

国外向け。
世界に日本をアピールするために利用か?

なのに流刑地としても使われる薩摩や大隅と同じランク。

上京するとよく『あいつは地元を捨てた』とか『東京にカブれてる』とか言われたりしますが、もう天皇はそうなっていたのかな?

天皇の故郷よりも、向こう側の僻地という感覚が勝ってしまっていたのかも。

下国(げこく)

最後に下国です。中国でもけっこう心が折れそうなくらいネガティブな国になっていますが、そのさらに下。

令制国 - 下国
令制国 - 下国
畿内東海道東山道山陰道南海道西海道
和泉国
(いずみ)
大阪南西部。伊賀国
(いが)
志摩国
(しま)
三重の内陸部。

三重の志摩半島。
飛騨国
(ひだ)
岐阜北部。隠岐国
(おき)
島根の隠岐諸島。淡路国
(あわじ)
兵庫の淡路島。壱岐国
(いき)
対馬国
(つしま)
長崎の壱岐島。

長崎の対馬。
伊豆国
(いず)
静岡の伊豆半島。
東京の伊豆諸島。
下国の旧国

下国にもなると環境が厳しいところばかりです。離島や僻地の半島、内陸部での山奥で冬はとくに厳しい。

流刑地としても聞いたことがあるところばかりです。

伊豆諸島
隠岐島
淡路島
壱岐島
対馬
下国の有名な流刑地

国司のランクは中国のさらに2ランク下。幹部の数も少ない。

位階
(等級)
国司
(下国)
国司
(中国)
国司
(上国)
国司
(大国)
太政官
従三位中納言
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下参議
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
正六位上
正六位下
従六位上
従六位下
正七位上
正七位下大掾
従七位上少掾
従七位下
正八位上
正八位下
従八位上大目
従八位下少目
大初位上
大初位下
少初位上
少初位下
国司の位階。太字が昇殿が許される上級貴族

大手商社勤務で地方営業所に転勤したら、営業所長と事務員2人しかいないみたいになってます。もちろんですが、ここの国司になることは左遷を意味します。

首都圏の和泉国はなぜ下位ランク?

和泉国(いずみ。大阪)は、大国・河内国(かわち。大阪)から分離した国で、古代には天皇の離宮があったほどでした。

なのにランクは一番下。

河内の左隣で大阪湾に面し立地もいいのに。

大国の隣なんだから上国でもいいのにと思いますが、よく見ると左隣が同じ下国の淡路国(あわじ。兵庫)。

流刑の地としてよく使われた淡路に引っ張られたんだろうか?

独立したんじゃなくて足手まといだから独立させられた?

といろいろ考えますが、これといった理由がありません。

下国の中で唯一、環境がいいところです。

最近は聞きませんが、かつて車の和泉ナンバーは、近畿圏内でガラが悪いという話をよく聞きました。

偏見のつもりはないですが、大昔からの国ランクがその土地柄のイメージまで影響して、今でも残ってるんじゃないかと少し思っちゃった。

もうひとつの区分。都からの距離で決める

大国・上国・中国・下国は決める基準がありません。もちろん都からの距離もありますが、そうじゃない理由も見えてきます。

おそらく国の総合力で決めてる。

そしてもうひとつ、都からの距離だけで決められた旧国の区分もあります。

畿内(5カ国)
近国(17カ国)
中国(16カ国)
遠国(30カ国)

畿内(きない)は首都圏

これまで何度も首都圏を意味する畿内という言葉を使ってきましたが、都からの距離で決められた区分の一番の中心が畿内です。

令制国 - 畿内
令制国 - 畿内
五畿七道(ごきしちどう)

古代から平安時代にかけての日本の首都圏と、幹線道路とその周辺の地方ブロック。

首都圏を畿内(きない)と言い5つに分けた。

道路は7つに分けた。〇〇道は道路周辺の地方も指す。州みたいなもの。

五畿七道 画像
五畿七道
畿内首都圏。
おもに、奈良、滋賀、京都、大阪。
山陽道本州西部の瀬戸内海側。
おもに、兵庫南部、岡山、広島、山口。
山陰道本州西部の日本海側。
おもに、京都北部、兵庫北部、鳥取、島根。
南海道おもに、四国、淡路。
西海道九州全域。
東海道本州東部の太平洋側。
おもに、三重、愛知、静岡、関東圏。
東山道本州東部の山間部と東北全域。
山間部はおもに、滋賀、岐阜、長野、群馬、栃木。
北陸道本州東部の日本海側。
おもに、福井、石川、新潟。

北海道、沖縄は入っていない。当時の日本人に領土意識がないから。奄美を含む南西諸島、小笠原諸島は微妙。

今でも『北海道』にその名残がある。当時は七道に入ってなかったのに。

範囲が狭く、いかにも首都圏という感じがします。

ちなみに近畿地方は『内とその周辺(い所)』から来ています。

関西の語源は日本で最初に関所が作られた福井・岐阜・三重の西という意味。

最初に関所を作ったのは本格的に律令国家を作り始めた、第40代 天武天皇

ちなみに関東は最初、関西の反対で関所の東を指した。その後、箱根山に作られた関所の向こう側(東)へと変わる。

近国(きんごく)

令制国 - 近国
令制国 - 近国
東海道東山道北陸道山陰道山陽道南海道
伊賀国(いが。三重)
伊勢国(いせ。三重)
志摩国(しま。三重・志摩半島)
近江国(おうみ。滋賀)若狭国(わかさ。福井)丹波国(たんば。京都・兵庫)
丹後国(たんご。京都)
但馬国(たじま。兵庫)
播磨国(はりま。兵庫)紀伊国(きい。和歌山)
尾張国(おわり。愛知)
三河国(みかわ。愛知)
美濃国(みの。岐阜)因幡国(いなば。鳥取)美作国(みまさか。岡山)
備前国(びぜん。岡山)
淡路国(あわじ。兵庫・淡路島)
近国

近国は昔の人が『お隣さん』という感覚があった地域。都への玄関口がすべて網羅され、海上・陸上交通の要衝が集まっています。昔の有名な都市が集まってるのでなじみがあったでしょう。

東京に行ったことないのに渋谷・新宿・お台場は知ってるように。

もうひとつの中国(ちゅうごく)

距離で決めた区分にも中国があります。読み方も同じ。前の中国は総合的な国力で決めた中ランクという意味でしたが、この中国は、『都に近からず、でも遠からず』の中間の距離という意味です。

なんでこんなややこしいことしたんだろう?

令制国 - 中国
令制国 - 中国
東海道東山道北陸道山陰道南海道山陽道
遠江国(とおとうみ。静岡)
駿河国(するが。静岡)
伊豆国(いず。静岡・東京(伊豆諸島))
飛騨国(ひだ。岐阜)越前国(えちぜん。福井)伯耆国
(ほうき。鳥取)
阿波国
(あわ。徳島)
備中国
(びっちゅう。岡山)
甲斐国(かい。山梨)信濃国(しなの。長野)加賀国(かが。石川)
能登国(のと。石川・能登半島)
出雲国
(いずも。島根)
讃岐国
(さぬき。香川)
備後国
(びんご。広島)
越中国(えっちゅう。富山)
中国

この中国は、今の『中国地方』の語源です。ただ100%同じにはなりません。というか、かなりちがう。

別の意味での中国があるし、となりの大きな国も中国だし、ほんとにややこしい。

遠国(えんごく・おんごく)

最後は、都の人たちが『遠いわ~。』と思っていた国です。残りの全部なんですが一応。

令制国 - 遠国
令制国 - 遠国
東海道東山道北陸道山陰道山陽道南海道西海道
相模国(さがみ。神奈川)
武蔵国(むさし。東京・神奈川)
上野国(こうずけ。群馬)越後国(えちご。新潟)
佐渡国(さど。新潟・佐渡ヶ島)
石見国(いわみ。島根)
隠岐国(おき。島根・隠岐諸島)
安芸国(あき。広島)伊予国(いよ。愛媛)筑前国(ちくぜん。福岡)
筑後国(ちくご。福岡)
安房国(あわ。千葉)
上総国(かずさ。千葉)
下総国(しもふさ。千葉)
下野国(しもつけ。栃木)周防国(すおう。山口)
長門国(ながと。山口)
土佐国(とさ。高知)豊前国(ぶぜん。福岡・大分)
豊後国(ぶんご。大分)
常陸国(ひたち。いばらき)陸奥国(むつ。福島・宮城・岩手・青森)肥前国(ひぜん。佐賀・長崎)
肥後国(ひご。熊本)
出羽国(でわ。山形・秋田)日向国(ひゅうが。宮崎)
大隅国(おおすみ。鹿児島)
薩摩国(さつま。鹿児島)
壱岐国(いき。長崎・壱岐島)
対馬国(つしま。長崎・対馬)
遠国

静岡の人からしたら『当たり前ですけど何か?』という地名に遠州(えんしゅう)があります。遠州鉄道があるので鉄ちゃんにはおなじみですね?

遠州も都から遠い国という意味ですが遠国じゃありません。中国ブロックに入ってます。これまたややこしい。

遠国にもなると、昔の人からしたら興味がないほど遠い国。戦国末期に豊臣秀吉は徳川家康を関東に転封しますが、あれも一種の左遷。

近国の三河から中国をまたいで遠国まで飛ばしました。この距離感が分からないと家康の悔しさの感覚が分かりません。

前の投稿
天皇親政と皇親政治のちがいってなんだ? 同じようで同じじゃない。
国司ってだれが偉いの?昔は地域格差を法で決め1000年以上使われた。
次の投稿
コメントを残す

*